第1話 業を干す
文字数 1,936文字
俺は、当然の様に毎日部屋に籠り、仕事に疲弊する。
ベッドに体を仰向けに干した。ベッドを刺していた細い陽を、追い出す事を忘れたまま。
紺のカーテンがメトロノームの様に揺れて、仕事でくたびれた視覚を遠くへ引っ張っていく。
空に緩和された遠くの車の営みは、東京の胎内音として耳を綻ばせる。
しかし、突如として訪れた臭いだけはどうにもならなかった。俺はその臭いだけに引き摺られる物となり、或いは臭いの価値も分からない盲従の鼻と成った。
隙間を作るしか能の無い上開き窓から、少しずつ取り込まれる煙草の臭いに咽せた。
その窓にひたと顔をつけ、俺は風の経緯を見た、というより覗いていた。
壁際から赤く長い髪がちらつき、その髪の先には女の輪郭があった。
赤い髪の女は、向こうを眺めながらベランダの手摺りに凭れていた。
女は輪郭の裏から煙草を表す。そして俺に横顔を見せながらそれを燻らせた。
俺はそれを一目で見切る事が出来なかった。二度、三度と瞬きをしてしまい、その途切れる視覚の様子にでさえ、女に気付かれないかと心配になる程だった。
女はそれほどに美しかった。
隣人に疎い俺は、宝物を見つけた様な心持ちを隠したか、顔を隠したかを先と次にやってみせた。
しかし、俺の理性というか心情というか、或いはどちらもが、たった今に心の内と外で見た物どもを、どうでもいいものとして粗悪に扱い、すぐさま頭から振り落とそうとしてしまうのだ。俺の心に出来た隙間というものは、それ程大きなものだった。
先日、別れを告げてきた元カノに対して、身と心がまだ納得出来ていない為だと知りながら、その思い出しによってまた痛みの方へと倒れる様に、俺はまたベッドに横になった。
それから連日、赤い髪の女の内を通ったかそうでないかも分からない臭いだけが、俺の部屋に舞い込んで鼻を刺激した。
俺は卑しさの前を堂々と横切りながら、いみじくもの窓から覗いた。
それは昼には、煌々の中の灯火であり、夜には月を対に劣らずのしじまの光を見せてくれた。それは毎日の事であった。
よっぽど、煙草を始めて見ようかと思うほどだった俺は、すぐさま煙草を買って手にした。それは、また卑しさの化身が目を隠す程の事だと分かってもいながら。
臭いに臭いを忍ばせた。ただそれは、臭いに意味など無く、同じ時という格式のある喜びとしてであった。意味も意図も存在しない、戯れに近しいものではあった。
そんな事をしているせいで、俺の部屋にある観葉植物はすぐさま散って行った。ただそれも、痛みの元ではあったので、処分の必要はあったと納得した。
丁度、煙草が喉に染みない様になった頃、俺はマンションの入り口で管理人から呼び止められた。仏頂面の管理人が、外を顎で示しながら言った。
「お宅の部屋の下、吸い殻が凄いんだけど。窓から煙草なんて捨てるの辞めてくれる?後、全部拾ってよ」
俺はその言葉を頷きだけでやり過ごすと、吸い殻の主の事を思い浮かべながら、それらが落ちている方へ向かった。
数十本の散りばめられた白い吸い殻が、俺の部屋の下である、ただの道路に転がっていた。それが、ただの道路である事に何か一つ、期待を裏切られた気になった。
そしてまた一つ、何らかの期待をしつつ、吸い殻の主の方へ見上げるも、そこに姿は無かった。すると、足元の奴等が嘲笑っている気がした。俺は、ただのゴミとしてそいつらを拾い集めた。まるでそいつらが卑しい物であるかの様に。
その作業中に、俺はマンションとマンションの隙間に生えていた、いや誰かに植えられた観葉植物を見た。
マンションの隙間30センチ程の空間で、陽の目を浴びない残念な住処。そんな所に観葉植物が生える訳は無い。
かろうじて緑ではあるそいつを、俺は見て見ぬふりをした。
吸い殻を拾う事はそれから二度あった。
男心と何とやらとはよく言ったもので、季節変わりと心変わりとが、俺を煙草と臭い絶ちへと促した。煙草を買って半月もせずの事である。
それからまた半月が経った頃だった。
三度目の時に、仏頂面はもはや忠告文として現れた。
女は俺の中で既に、逆さまとなって醜い肉の顔である。
手に集めたフィルターをゴミ袋にも入れずただ握りしめて、女の号室へと向かった。
いくらベルを鳴らしても応答も無く、また出直そうとした所に、偶々の仏頂面が現れて言った。
「お隣さんなら引っ越したよ」
窓は、臭いも卑しさも発しない物に戻っていた。
俺は、しかし気分は上々だった。
その褒美に新品の鉢で、隙間の観葉植物を当てがった。
生き辛い隙間よりはマシだろ、と言って、隙間の陽を宛てがう。
俺は暫く、その真っ直ぐな幹に見惚れていた。