第1話

文字数 8,635文字

プライドは人間にとって最も厄介なものだ。
 洲川蓉香は東京行きと表示された電車に乗った。おそらく日本で一番乗り降りの多い駅であろう新宿で降りる。南口の改札を通り、みどりの窓口付近にいる一人の青年に駆け寄った。
「お待たせ」
笑顔で小走りに近づくと、スマホからパッと顔を上げた色白の青年と目が合った。
 同じ大学に通う片山圭介とは付き合って半年ほどになる。
 二人は二月の入試バイトで知り合った。マンモス校であることに加え、学部も違う二人はそういった接点がなければ人生が交わることもなかっただろう。
 圭介は背こそあまり高くないが、塩顔系のイケメンで爽やかな笑顔が上品な男だった。うちの看板学部に在籍していて、サークルはマーケティング部。その部のOBのツテからもう既に何人かの起業家と名刺交換したり交流会に参加しているらしい。彼の話はいつも論理的で地頭の良さが窺えた。
 今日も彼は手ごろなイタリアンでパスタを口に運びながら、生き生きと自分の将来の展望について語る。
「この前話したk社の花田さんって人が言ってたんだけどさ、若い頃は何事も挑戦しておくべきなんだって。年取ってからじゃ取り返しつかないって」
「蓉香は十年後の自分のキャリアってちゃんと考えてる?」
「自己分析ってホント大事でさ…」
流水のようにつとつとと語る圭介ににこやかに相槌を打ちながら、蓉香はサーモンクリームのパスタを噛みしめた。
 繊細な甘さが舌に広がり、口内だけが幸せで満たされる。
 夜の店内は薄明かりに照らされていて、圭介の一般人にしては整った顔を白く浮き立たせていた。
 デザートも食べ終えたところで、これからサークルの打ち合わせがあるという圭介は慌ただしく支度を始めた。
 蓉香は伝票を見て自分の分が二千四百円であるの確認してから圭介に三千円を渡した。四百円は財布の中になかった。
 圭介は「いいよ。二千円で」といって、紙幣を二枚だけ受け取って会計へと向かう。
今みたいな時も割り勘の時も、会計するのは圭介の役割だった。いつもちょうどいい頃を見計らって、「今日は○○円だから○○円でいいよ」とテーブルで蓉香にお金を渡すことを要求する。
 会計を終え、圭介と駅まで来るとそれぞれ違う沿線に別れる。。
「今度はもっと時間とるよ」
最後にそれだけ言って圭介は緑の看板の下を通っていった。
 圭介はとても優秀な男だと思う。
 難関大学の一番偏差値の高い学部を現役で合格しているし、情報処理能力も向上心も高い。
 酒もタバコもやらない。世間がイメージするような遊び惚けている大学生とは、比較にもならない程しっかりしている。
 世間一般から見たらよくできた男なのだろう。そうして、自分が出来ると自覚しているからなのか、随分とプライドの高い男だった。おそらく顔がちょっとばかしいいことも、彼のプライドの高さに拍車をかけている。
 彼は顔のいい女しか抱かない。そして、彼の人生において女という存在の優先順位は低い。
彼が思い描く未来というのは、自分が社会的に成功している未来で、欲しいのはその社会的成功を裏付けてくれる美しい妻。でも、バカは嫌いだからきっと彼はそれなりに自分の仕事を理解してくれる賢さを女に要求してくるだろう。
 そうしてその未来に私を入れるかどうかを注意深く見定めているようだった。
 人ごみに紛れていく彼の背中を呆然と見送っていると、ふとスマホの振動で我に返った。
 “萌”と表示されたLINEのアイコンをタップすると、《今先輩たちと飲んでるから蓉香もおいでよ~》と飲み会の画像とともにそう送られてきていた。
 恋人にも帰られたことだし、憂さ晴らしにはちょうどいいかもしれない。蓉香は店の場所を確認すると、足早に動き出した。


 大学近くのよく行く居酒屋では、もう既に何人かの学生が出来上がっていた。
「あ!蓉香!こっちだよー」
連絡をくれた萌が、小さい手を大振りに左右に動かして蓉香を呼んでいた。
「お待たせー」
「急だったのに来れて良かったー彼氏は大丈夫だった?」
「あーなんか今日は予定あったから帰っちゃった。だから誘ってくれてありがとー」
そう答えてカシオレを頼むと、萌はずいっと蓉香に顔を寄せた。
「蓉香ちゃん、彼氏と上手くいってるの?」
こわい顔をしてそう聞いてくるが、中々に鋭い。蓉香が答えようとしたところで、話を聞いていたであろう同期の女子が割って入った。
「蓉香の彼氏、めっちゃイケメンだよねー羨ましい」
「ねーそれ思った!いいなー私もあんないい男とヤりたーい」
「ねえ、あんたそれぶっちゃけすぎ」
二人ともうまくアイプチで二重をつくっていて、丁寧に髪を巻いている。よりきれいになるために相当努力したに違いない。そんな自己投資できる彼女たちが少しだけ眩しくもある。
 二人で盛り上がってしまっている彼女たちに、混ざっていける他のサークル員はいない。
 グラスの水滴がのろのろと滴り落ちる。
 大人になればなるほど、恋愛の話題を振るのは気を遣う。彼氏と別れたばかりの友達に、まさかノロケ話をするわけにもいかないし、お堅い子に付き合ってもいない男の家に泊まっただなんて話、言ったところで共感なんて得られやしない。 
 この自己投資に余念がない二人は、随分自由に恋愛を楽しむ傾向にある女のようで、奔放に性を楽しんでいるようだった。
 サークルはそうはいっても似たような人間の集まりだから、恋愛の価値観も多少は似ている人間が多い。そういう意味では、うちの雰囲気とは少しそぐわない二人だ。もとより、この二人は別のサークルにも所属していてそっちをメインにやっているようなので、もう次の飲み会には来ないかもしれない。
 まあ、誰とでも寝れる女の話など、そうじゃない人間にとっては軽蔑の対象にさえなりかねないし、ましてや共感など得られるわけもない。これは、失恋の辛さを一度も恋をしたことのない女に共感されないのと同様である。
「ちょっと向こうで話そっか」
萌はテーブルの端に目を遣ってそちらに移動する。今いる恋愛のステージが違くても、恋愛の価値観が違くても、心置きなくすべてを話せる友人など彼女くらいのものだろう。
「で、彼氏とどーなってんの」
茄子の味噌焼きをつまみにしながら、萌は早々に切り込んできた。蓉香もあまじょっぱい味噌に舌鼓を打ちながら、なんと言葉を繋げようか考える。
「うーん、いや、問題はないんだけどね。うん…問題はないんだけどね…」
「はっきり言いなよ。別れたいの?」
まったく、この友人は人の迷いなどお構いなしにズバズバと切り込んでくる。まあ、そこが気持ちよくもあるのだが。
「いやー別れたいほどじゃあ、ないんだけどねえ」
カシオレに口をつけて何とか濁そうとするも、萌はそれを許さなかった。
「蓉香ちゃんはあるところでは思い切りがいいのに、どうして男のことになるとそんなにグズグズしてるの!」
痛いところをついてくる。
「ちょっとでもモヤモヤしてるところがあるんだったら、別れた方がいいと思うよ。蓉香ちゃんのことだから、引っ掛かりを覚えたのはつい最近じゃないんでしょ?」
まったくもってその通りだ。
「そんで、何とかこっちから理解しよう歩み寄ろうと蓉香ちゃんのことだから頑張ったんでしょ?無駄だから、それ。男は変わんないから。てかそこまでやって蓉香ちゃんが理解できないなら、もうそいつのこと蓉香ちゃんは一生理解できないと思うよ?」
正論である…。
「正直、若いうちはそんなに一人の人に執着しても意味ないと思う。だって、まだ自分にどんな人が合うのか自分も相手も分かってない状態だよ?変わんない男に執着してても意味ないと思う」
正論過ぎて㏋ゴリゴリ削られた。
「別に、あの子たちほど奔放にやれって言ってんじゃないの。ただ蓉香ちゃんはどうにもならない男に長々と縛られすぎ。さっさっとこっちからフッてやんな」
「いや~分かってるんだけどねえ…別れ話って切り出すのも一苦労なのよ?」
そんな言葉で逃げてみても、どうやらこの友人には適わないらしい。
「蓉香ちゃん、ここ最近ブスになった」
「え⁈どういう意味⁈」
思わず自分の顔に手をやってみる。いや、そんな、毎朝鏡で見てる顔は変わってないはず。
「付き合い始めはすっごく生き生きしてたのに、今は覇気がない。なんかすっごくブスに見える」
よっ…容赦なっ…。
友人からの塩辛くもありがたい忠告に蓉香は持っていた手鏡で顔を確認する。いや、ブスになんかなっていないはず…。
「このままいくとお岩さんみたいになっちゃうよ」
「え、四谷怪談の?」
「そう。そういえばあれも男がらみでお岩さん妖怪になったんじゃなかったっけ?」
そんなレベル…⁈そんなレベルでひどい…⁈
 軽くショックを受ける蓉香に、萌はとどめの一撃を放った。
「つか、自分のこと妖怪一歩手前にさせる男といて楽しい?どんなきれいな顔に生まれても、そんな男の側にいたら女はみんな妖怪になっちゃうんだよ!」
はい今右ストレート入りましたー。蓉香の頭の中で試合終了のコングが鳴った。
「分かってるよ!分かってるけどっ…あの男、無駄に口達者で丸め込まれちゃうんだよっ!」
「あー性質悪いね、そいつ」
そう、圭介は弁がたつ。賢さの裏返しであろうが、最近は彼の蘊蓄にも頑固さにもイライラするようになった。
 でも、彼にもいいところあるし…とか思って、やっぱりまだ期待してしまう部分もあるのだ。
「あ、ストーリーあげてる」
ふとインスタを見ると、圭介がほんの十分前にストーリーをあげていた。
「どんなのあげてんの」
萌が聞いてきたのでスマホの画面を向ける。
「うわっ、何これ」
萌は顔をしかめた。
 圭介のストーリーには、私たちよりは二十は年上だと思われる男性とのツーショットがあげられていた。
 写真と一緒に、“今日はすごくためになりました。やりたいことを仕事に、僕も頑張ります”と添えられている。それと同じく、この四十がらみの男性のアカウントと思しき英文字も並んでいた。
 試しにそのアカウントに飛んでみる。
「どこかの起業家っぽいね」
男性は何かのアプリを作っている会社を経営しているらしかった。プロフィール欄には、“人のためにできること”“one for all , all for one””スマホから世界を変える“などのハッシュタグがつけられていた。
 萌は圭介のプロフィールへと飛ぶ。
 そこには友達と映っている写真と、私と一緒に行った場所の写真が投稿されている。しかし、彼のインスタに私自身の写真があげられたことは一度もない。
「思ったよりもふつー」
そう言いながらスクロールする萌の手がある箇所で止まった。
「へー彼のサークルすごいね。企業と連携して何かやってるんだ」
「あーね、そうみたい。よく知らんけど」
萌はじっとその投稿を見つめていたが、蓉香にスマホを返した。
「なんか、プライド高そうな男だね」
圭介の投稿を一通り見終えた萌の感想はそれだった。
「ねーなんか、今どきの男子にしてはガッツあるよねー。まあ、でも私、引っ張てってくれる人好きだし?」
「でも、蓉香ちゃんの方が強いと思うよ?この男より」
萌ははっきりとした声でそう言った。じっと見つめる萌の目はどこにも濁りはなくて、ついついたじろいでしまう。
 しばし、見つめあう形になったものの、口火を切ったのは萌の方だった。
「ま、いいよ。一朝一夕で別れられないだろうしね。もうこの話はここで終わり!飲も!」
明るくそう言うと、追加でピザといももちを注文する。
「そんなに食べたら太るじゃん~」
口ではそう言いながらも、蓉香は美味しくそれらを平らげた。


 季節は夏本番を前にした夏であった。梅雨が漸く明け、もう夏はすぐ目の前に迫っている。  
 この日、蓉香は大学近くの喫茶店で圭介と待ち合わせしていた。
 少し歩いただけで汗だくになるので、店に着いた頃には喉がカラカラに渇いていた。
 先に来ていた圭介の前に腰掛けると、蓉香はメロンソーダフロートを注文した。店員が去っていったあと、圭介が鼻で笑ったので何事かと目を遣ると、小ばかにしたような表情がそこにあった。
「そんな甘いものばっか食べて、ブタになるぞ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。冗談でも圭介からこんなことを言われたのは初めてだった。というか、ジョークで笑い飛ばせるような言い方ではない。
 突然のことに蓉香が何も反論できずにいると、圭介はそんな様子はお構いなしに話し出した。
「てゆーかさあ、蓉香ももうちょっと美容に気遣ったら?元がいいからって胡座かいてないでさあ。この前モデルやってる子に会ったけど、すっごいダイエットとか頑張ってたよ?すげー可愛かったしさあ。ほら」
そう言って差し出されたスマホの画面には、確かに細身のすらっとした子が映っていた。…って、あのオッサンも映ってるじゃん!
 写真にはモデルと、圭介と一緒に映っていたアプリ会社の社長も映っていた。
 嬉しそうにこんな若い子とツーショット撮って大丈夫なのか、このオッサン…。いや、というよりも、この写真の場所…。
「ねえ、この写真、どこで撮ったの?」
そう聞くと圭介は一瞬動揺した。
「いや、分かんない…。この男の人の方から送られてきたから」
「モデルの子に圭介も会ったことある口ぶりだったよね?」
「いや、会ったことあるよ。でも、俺はこの場所には行ってない…」
随分と蚊の鳴くような声での弁明であった。
 写真の場所は薄暗くて、女の子の衣装からも察するに、キャバクラ…いや、どちらかというと高級ラウンジではないだろうか。モデルだというから当然ではあろうが、確かにこの女の子は一般人の中に紛れ込んだら頭一つ抜けて可愛いだろう。要するに、キャストの質が高い。加えて芸能活動を齧っているならば、この場所は六本木あたりの会員制ラウンジといったところか。
 蓉香は気持ちを落ち着かせるために、メロンフロートを一口飲んだ。
 うそを吐くならもっとばれないようにやってくれよ。何で、オッサンがお前に自分のお気に入りの女の子の写真送って来るんだよ。いや、もし仮にそれが真実ならそんなヤツを尊敬していてお前は大丈夫なのか?
 蓉香が何か言いだす前に、圭介が遮るように話し出した。この男にはこういうこ゚ずるいところがある。
「何?俺がどこ行こうが俺の勝手じゃん。つかさ、俺はお前と違って忙しいし。…なんていうかさ、俺はふつーの人生なんて歩みたくないわけよ。替えのきかない人間になりたっていうかさ…。ただ毎日毎日漠然と満員電車に揺られて、何も為せずに終わる人生なんかごめんなわけ。ただ平凡な毎日を生きていくんじゃなくて、何かに挑戦して、何かを成し遂げられる人間になりたいんだよ!」
「何かって何なんだよ」
自分でもびっくりするくらい低い声が出た。
 圭介は今までにない蓉香の反応に目を丸くした。
「圭介、いつも言ってるよね。俺は何か成し遂げたいって。で、結局その何かって何なの?」
「いや、それは…」
口ごもる彼は、誤魔化すように水に口をつける。
「それは、今すぐに分かるわけないだろ…これから色々なことに挑戦して見つけてくんだよ…」
視線を合わせない彼は、いつもの自信に満ち溢れた彼とは正反対で、ただ進路に迷うどこにでもいるふつうの大学生に見えた。
 その瞬間、蓉香は弱いな、と思ってしまった。
 この男、こんなに弱かったっけ?いつもの虚勢はどこ?あ、虚勢だから本当のことを言い当てられるとすぐに剥がれちゃうのか。
 彼は確かに知識も豊富で向上心に溢れた若者であったが、所詮それだけだ。そんな人間どこにでもいるものだ。彼はふつうのそこら辺にいる男子大学生だ。ただ、それを認められないだけだ。そうして、私は恋心という色眼鏡のために、彼が特別だと思っていたようである。
 でも、分かるよ。誰だって自分が特別だって思いたいさ。自分が大したことないだなんて、突き付けられる瞬間はそれはもう舌筆に尽くせぬほど辛い。出来たら、突き付けられたくないさ。出来たら、そういった現実からは目を背けて生きていたいさ。
 しかし、どうかな。いずれは突き付けられる瞬間が誰にだって来るものだ。突き付けられない人間というのは、何も挑戦しなかった人間であることに間違いはないのだが。自分は何者かになれる思い込んでいる彼のような人間は、結局人生の最後に何も成し遂げらない自分を突き付けられるのも、ひどく嫌なのだろう。だから、彼は兎にも角にも必死にあがいているのだ。何者かになれるという根拠のない自信を、本物にするために。
 が、結局のところ彼がそんな大層な男であるという甘い現実など何処にもなく、何者かであるはずの理想の自分と、未だ何者にもなれない、あるいはなれる見込みのない現実の自分とのギャップに苦しんでいるようである。
 まあ、そんな人間、社会を知らない中途半端な夢と希望に溢れた大学生の中に、吐いて捨てる程いるが。
 蓉香はまじまじと目の前の男を見た。
 いつも通りの白い顔。一般人にしてはまあまあな顔立ちだ。多分、小さい頃からどこへ行ってもチヤホヤされてきたことだろう。いつも着ている品の良い服はどこかのブランドだろうか。
東京の裕福な家庭出身。
非凡とは何を基準に非凡というのだろうか。普通より優れていることを非凡というのであれば、彼は見目も良く勉学にも優れ、お金に困ったことなどありもしないだろう。彼は、確かに平均より優れていた。環境にも恵まれていただろう。ただ、上には上がいた。それだけの話だ。
何、人は若いと己に見識と力があると勘違いするものだ。何も知らない若者が、自分を過大評価するなどよくあること。別に責められるほどの罪でもないだろう。ただ…。
「平凡な毎日を生きていたくないって、まあ、何を基準に平凡というかは分からないけれど、少なくとも、あなたが平凡だと思えるくらい幸せな毎日を生きれてるのは、あなたの功績じゃなくて、あなたのご両親が毎日満員電車に揺られながら家族のために働いてるからじゃないの?母親に下着まで洗ってもらってる分際で何言ってるの?まず、自分で平凡な毎日送れるようになってから言えよ」
蓉香は喉を濡らすためにもうアイスが溶けきったメロンフロートを一気に飲んだ。
「あと、何かを成し遂げたいってなんでそんなに漠然としてるの?何かが分からないのに何者かになりたいだなんて、そんなの私には、自分は他人と違うって周囲に知らしめたい、それと同時に自分でも自分の希少性を自覚したいって言ってるようにしか聞こえないけど」
何か反論してくるかと思ったが、圭介は意外にも何も言い返しては来なかった。蓉香は少し視線を外してため息をつく。
 店内は二人の切迫した状態とは対照的に、随分と穏やかなメロディーが流れていた。
 再び圭介に視線を戻した蓉香は、メロンフロートを最後まで飲み切った。
「明確に成し遂げたい”何か“がないなんて、結局、他人との差異を見せつけたいだけ。自分が特別だって思いたいだけね。だって、明確に何者かになりたかったら、あなたみたいに他人に攻撃的じゃないもの。ー私は…」
そこで蓉香は一旦言葉を切った。
「私は、手に入れたい”何か”があったら、死ぬ気でそれを取りに行く。もちろん、それを手にできるかは分からないけれど、それを手に入れるためにどんな努力も厭わないし、その努力をやり通す自信も覚悟もある。たとえ、誰の事情も誰の感情も踏みにじることになっても、誰に何千何万口汚く罵られようとも、私はそれを貫き通す。あなたは?まあ、私には漠然と何者かになりたいだなんていう自己顕示欲はよく分からないけれど、あなたは、その何かは分からないけれども成し遂げたい何かのために、一体どれほど犠牲を捧げられるの?」
その問いにも圭介は答えなかった。するりと、飲み切ったグラスの水滴が落ちた。
 蓉香は盛大にため息を吐いた。
 道を行き交う人はまるで何も悩みなど無そうな顔で通り過ぎていく。
 視線を戻して目の前の男をじっと見つめても、何かを成し遂げられるほど大層な男には見えなかった。
 圭介は顔を俯けたまま、いつもとは打って変わった小さい声でボソッと言った。
「お前は怖い女だな……」
その言葉に蓉香はピクっと眉を上げた。
 本当に、どこまでも勘に触る男だ。
「履き違えないで。私が怖いんじゃない。あなたが弱い男なだけ」
言い切られた男の方は、今度こそ反論の言葉を失ってしまったようである。
 蓉香は伝票を手に取ると席を立った。
「あなたにとって女は自分の価値を上げてくれるブランド品だったみたいだけど、私はそんな男に抱かれても全然満たされない。私は男に抱かれて満足したい。あなたみたいな男の側にいたら、私は一生満たされない」
ここまで言えば分かるでしょ?と、蓉香はもう振り返ることもせずその場を後にした。
 もう一度、俯く男の側でグラスの水滴がするりと落ちた。


 




 
 
 
 
 
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