かの遺影

文字数 1,992文字

 看護師には補聴器を持ってきてほしいと伝えられていた。わたしは集音器を探しに二階に上がった。守男は補聴器も持っていたはずだが、着けたところを見たことはない。音量調節がうまく行かずキーンと鳴るのが気に食わないといつか聞いたことがあった。集音器のほうは、首から提げた装置のダイヤルで音量の上げ下げができる。守男は道具は無闇に自動化されたものよりも、機構がわかりやすいものを好んだ。
 昨日、守男は救急搬送された。その前夜に守男は入浴したのだが、湯船で足が滑り、いくらもがいてもそこから出ることができなかった。元々弱っていた足を、思いつきで投じた入浴剤のぬめりにとられてしまい、にっちもさっちも行かなくなったようだ。入浴剤は入れ過ぎたのかもしれない。
 幸いにも、昨日は訪問鍼灸の予約日で、訪れた鍼灸師が発見してくれたが、そうでなければどうなっていたか。守男はある時点で、何とかぬめりを取ろうと湯を抜いたが、それでも湯船からは出られなかった。シャワーの湯を体に掛けて暖をとったという。

 和室の様子が変わっていた。そこは仏壇がある部屋で、一月前に真紀が亡くなったとき、その前に祭壇を置き、遺骨や蝋燭、線香などを配した。葬祭社が設置してくれた。真紀の遺影が飾られたその部屋に、守男は布団を外した炬燵を持ち込んでいた。
 天板には、腕時計、乾電池、文庫本、コールチャイムの取扱説明書とともに、トリスクラシックのボトルが載っていた。守男はここのところアルコールを控えていたはずだが、真紀の死がきっかけとなり、また晩酌が始まったのだろうか。守男は夜更けまで起きていることも多いから、自然と飲む時間は長くなる。真紀の遺影を眺めながら、しみじみとグラスを傾けていた姿を思うと、責めるのは少し酷だった。しかし、その酒が、救急搬送される事態を招いた一因ではないかと疑われた。
 わたしはといえば、もう酒は止めていた。わたしにはどうにも規律がなく、飲みはじめると止まらなくなる。そんなことをして、翌朝からきちんと活動できるほどの若さは疾うに失くしていた。あるとき、適量といわれる酒量は案外と少ないことを改めて知らされた。飲みはじめるそばから終わりが見えているのではあまり楽しくない。そこで切り上げられる自制心がわたしには欠けていた。いっそのこと、もう飲まないことにしようと決めた。
 集音器はないかと炬燵の周囲に目を遣ったが、見つからなかった。わたしは別の部屋を当たることにした。それにしても、今夜はどこに寝ればよいだろうか。わたしは帰省の際、その二階の和室に布団を敷くのだが、もうそれはできそうにない。

 病院から戻ると、わたしはグラスをゆすいで二階に上がった。真紀の遺影を前にして、守男はどのようなことを考え、グラスを傾けていただろうか。それとも本のほうに没入していたのか。そうした疑問がわたしを和室に向かわせた。
 遺影は三四年前に守男にいわれ撮影したものである。守男はまだ真紀が元気だったその頃から、向かいの洋室の書類棚にそれを飾った。その後、真紀が入院することになると、わたしはその遺影用の写真が目に入ってしまうのが嫌でしようがなかった。目に入りそうになると、急いで顔を背けた。
 真紀が碑文拓本を背にして笑っている。葬祭社からは、背景に文字があるのはあまり好もしくないので、除去してもよいかと聞かれたが、守男のこだわりなのでそのままにしてくれと断った。背景がいいじゃないか、と守男が悦に入るのをわたしは何度も聞いていた。また、その日も、あの背景のいい写真が書類棚にあるから持って行けと守男が指定していたのである。
「あんた、写真撮るときはもっと口角上げてニコッと笑いいや」
 と真紀に注意されたことがあった。なるほど真紀はしっかり口角を上げているが、その目にはいくらか、大層らしい碑文拓本を背にすることに戸惑っているふうな色もある。真紀はいつも守男の妙なこだわりに振り回され、どれだけ大変な思いをしただろうかと憤りが湧いた。
「屋根の色が我慢でけへん、神経に障る言うて、勝手に業者さん呼んで、真っ黒に塗り替えてしもうたんやで。真っ黒のほうがよっぽど変なんちゃうん? リフォームは屋根だけやのうて、優先順位つけて、次はあれ、次はこれとちゃんと計画的に考えてるのにぜんぶ狂ってしもうたわ。何も今せんでもええことやろ、ちゃうか? せやのにもう我慢でけへん、神経に障る言うて……」
 そんなふうに真紀がこぼしたことがあった。
「もうこんなときに、要らんことせんといてや」
 真紀が嘆く声が聞こえる。
「『要らんこと』とは何を言うとんのか!」
 守男は青筋を立てただろう。「『こんなとき』だろうが、男には、やらねばならん時があるのだ。そんなこともわからんのか!」
 守男の声が震えている。遺影の真紀が笑いかける。予期せぬ嗚咽がわたしを襲った。
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