第1話

文字数 1,548文字

「父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃん、大変だぁ!」
 そのニュースを裂田家(さきたけ)にもたらしたのは、長男の平介だった。家という名のあばら屋にバタバタと走り込んできた平介に、姉の千恵は冷めた目を向ける。
「なんなの、騒々しいわね」
「とにかくテレビを見て!」
 言いながら、平介は隅にある古ぼけたテレビの電源を入れた。立ち上がりが遅いテレビの頭をバンバン叩くと、やがて砂嵐だった画面が見えるようになってきた。
 深刻な表情をしたアナウンサーが伝えているのは、二〇二〇年一月頃から日本でも感染が確認された、新型コロナウイルスのニュースだった。徐々にその感染は広まり、四月に入った今は、緊急事態宣言の話題で持ちきりだ。
「あぁ、それなら知ってるよ。外出する人間が少なくなって、空き缶も減ってるから、今大変なんだよ」
 そう嘆くのは、裂田家の家長である正則だ。本業で生計を立てることができないため、空き缶拾いで日銭を稼いでいる。
「父さんの稼ぎが少ないのは今に始まったことじゃないけど。ウイルスなんて、普段から人間とほとんど会わない私たちには関係ないでしょ」
 吐き捨てるように言いながらも、母親の明美はシールを貼る手を止めようとしない。コロナとは関係なく、常に家計が逼迫している裂田家に内職は不可欠であった。
 まともに取り合ってくれない家族に痺れを切らした平介は、足を踏み鳴らしながらびしっとテレビ画面を指差した。
「そうじゃなくて! ここ見て!」
 画面には人通りの少なくなった駅前で、インタビューに答える男性が映っている。平介の指は、その男性の口元を示していた。
「マスク……?」
 千恵の呟きに平介は強く頷きながら、更に画面の男性の後方に指を走らせた。まばらに駅前を歩く人々は、揃いも揃ってマスクをつけている。
「もしかして……今外に出てる人間は皆、マスクをしてるってこと?」
「それどころか、今マスクをせずに外に出たら白い目で見られるくらいだよ!」
 平助の言葉に、裂田家の面々に歓喜の波が広がった。正則はすっくと立ち上がると、明美に告げた。
「母さん、内職なんかしている場合じゃない。今すぐ出かけよう!」
 四人は顔を見合わせて、力強く頷き合った。そして各自マスクを装着すると、思い思いの方向へと飛び出していった。
 夜になって帰ってきた四人は、それぞれに笑みを浮かべていた。
「今年の夏は海に行こう。何しろマスクしてたって何も言われないんだから」
 手にしたビーチパラソルと浮き輪をそれぞれに掲げて、正則と平介はご満悦だ。
「それより、見た?! 街の人間たちのオシャレな手作りマスク! あれなら私だって……!」
 これまで集めてきた、道で拾ったハンカチやスカーフを積み上げて、千恵は針と糸を構えた。今にも縫い始めそうな千恵を遮って、明美は手にしていた荷物をちゃぶ台の上に置いた。
「海も手作りマスクもいいけど、まずは夕飯にしましょう。前から気になってたあの店のオムライス、テイクアウトしてきたのよ」
 歌うように言いながら、明美は料理を並べていった。食事を始めた四人は、早速今後の話をする。
「僕、動物園に行きたいなぁ」
「それなら母さん、前から水族館に行きたかったのよ」
「この調子なら、色んな店がテイクアウトを始めるだろうな。今まで入れなかった店も、持ち帰りならいくらでも食べられるな!」
「もしかして、コンサートもマスク着用になるかしら?! だったら私も、生のジュンに会えるわ」
 裂田家の夢は、広がるばかり。マスクをつけずに外に出ることができない彼らにとって、コロナ禍は幸運以外の何ものでもなかった。
「そうだ、おばあちゃんにも報告しなきゃね」
 食事を終えた四人は、振り返って仏壇に手を合わせた。顔の端まで裂けた口を弧の字にして、祖母は写真の中で笑っていた。
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