第1話 ある一家の朝

文字数 1,208文字

「…た。あなた、早く起きてくださいな。遅刻しますよ」

 遠くから聞こえる馴染みの声に、耳心地の良さを覚えながら目を覚ます。カーテンの隙間から差し込む陽射しが眩しく、反射的に瞼を下ろしてしまう。毛布の温かさは、そのまま僕を再び夢の世界への誘ってしまいそうだった。

「もう。本当に寝坊助さんですね。夫人に怒られてしまいますよ」
「…夫人……あぁ!」

 ぼんやりと彼女の言葉を復唱すると、急に頭が冴え渡り、眠気も一瞬で吹き飛んだ。温もりをたっぷり含んだふかふかの毛布を一気に捲って起き上がる。少し肌寒さを感じるが、今はそんなことどうでもよい。遅刻でもしようもんなら、僕の首が飛んでしまう。

「起こしてくれてありがとう。今何時だい」
「もうとっくに8時を回ってますよ」
「なんだって!」

 思わず大きな声が出てしまう。本来家を出ているはずの時間だが、姿見に映るのはまだパジャマ姿で、一筋縄では直せそうにない程とんでもない寝癖頭の僕。

「どうしてもっと早く起こしてくれなかったんだ!」
「だってあなた、今日は何回起こしても全然起きないんですもの」
「あ、あぁ…そうか。すまない」

 焦りで彼女に怒鳴ってしまったが、これは仕事のことをすっかり忘れてゆっくり寝てしまった僕が全面的に悪い。忘れずにかけていたはずの目覚まし時計は床に落ちてしまっているし、きっと煩わしくて叩き落としてしまったんだろう。画面が割れていなくて幸いだった。
 などと時計の心配をしている場合ではない。今は自分の「首」が最優先だ。僕は部屋を飛び出し、洗面所で顔と頭をいっぺんに濡らす。冷たくて変な声が出てしまいそうだった。そしてタオルで乱暴に拭いたら、どうにかなってくれと願いを込めてドライヤーの強風を当てつつブラシを探す。しかしこんな時に限っていつもの場所にない。なんてこった、思わぬタイムロスだ。

「はい、転がっていましたよ」

 風の音に負けないくらいの大きな声とともにブラシが差し出される。どうしてこんなに気が利くんだろう。僕には本当に勿体ないとつくづく思う。

「ありがとう、助かるよ!」

 受け取ったブラシで寝癖を抑え込んだ後は、これまた彼女が準備してくれた襟付きのシャツとベストに腕を通し、ネクタイまで締めて完成だ。ここまで約10分。どうにかなるかもしれない。いや、どうにかするしかないんだけども。

「朝ごはんはどうしますか」
「食べてる暇なんてないよ!今すぐにでも出なきゃ!」
「でしたら包んでお渡ししますね。お昼ごはんにでもして下さいな。こっちは小腹が空いた時にでもどうぞ。さっと食べられるようにサンドイッチにしていますよ」

 そう言って彼女は、テーブルに並んでいた僕の朝食を手早くまとめ、ランチ袋と一緒に差し出した。なんてこった、感動で涙が出そうになる。今日も頑張れそうだ。

「ありがとう。行ってくるよ!」

僕は受け取ったそれを鞄に詰め、テーブルの上の懐中時計を手に持ち、急いで家を出た。


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