唯恣意secRE

文字数 1,370文字

 まったくすべてが変わってしまった。
 風は冷たく、軽装で歩いて、私は絶望していた。気分はわるくなかった。頬に夜の空気が触れてひやりとすると心地よかった。だから、このときは自分が絶望しているのに気づかなかったばかりか、私はほとんど存在していなかった。それが絶望だと気づいたのは世界が変わってしまったあとのことだった。
 それはもちろん夜だった。夜の12時を過ぎていた。私はコンビニへ行く。必要でないものを買いに。夜風。道はしっかりと舗装されて、踏むたびに足裏に硬い。私はそこらを舞う枯れ葉やビニール袋と同じくらい軽かった。とにかく歩いていた。なんだか私は私自身に期待しなくなっていたのだった。だから、とつぜん世界が変わってしまって怖くなった。
 世界の変わった理由はわからない。もしかしたら、亡くなった祖母の夢を見たからかもしれない。
 その夢は、祖母の住む家の大体100メーター手前からはじまる。日は暮れているけれど、それが夜なのかはわからない。空は…いや、空だけでなくその世界全体が、夜に似た濃い色だった。私はその色をすでにどこかで見ていた。夢のなかの私は、とても疲れていた。きっと、とても遠いところから歩いてきたのだろう。私は住宅街を歩いているが、もう歩きたくもなかった。はじめそこは私となんの関係もない住宅街だった。薄暗い、憂鬱な世界だった。私はとぼとぼと歩く。50メーターほど進むと、そこからもうすこし先にひとつ人家の灯りが点った。ぼんやりとした暖色の光。その光が照らす範囲がゆっくりとひろがり、そこが祖母の家となって、周りもなんだか見覚えのある景色になった。光のなかから祖母が現れ、こちらに手を振った。祖母は元気な人だからおおきく手を振った。私に見えるように。…実はそこから先はあまりよく覚えていない。部分的にしか思い出せない。祖母の家へあがって、ごはんを作ってもらって、なんだかとてもあたたかくて、でも、そのあと私はうなされて目を覚ました。私がうなされていたことに、祖母の夢が関係していたかはわからない。ただ、夢のなかでも祖母に会えたのは、私にはとても素敵なことだった。
 私は近くのコンビニへ向かっていた。私は生きているだけ。歩いているだけ。それだけだった。夜風。どこからか鈴の音が聞こえた。それは特別な音ではなかったが、試合終了の笛、あるいは、試合開始の笛のように、強い効力があった。私は背筋がぞくりとして、冷や汗をかき、周りを見渡した。景色は変わっていない。けれど、私は間違いなく別の場所へ来た。そう感じた。緊張をともなっていた。見知った建物も、どこか私を訝しげに見ているようだった。ここは私の世界ではない。似ているが別物だ。
 しかし、では、私のもといた世界は、私のいるべき世界だったろうか。正しい世界だったろうか。私の世界ははじめからここで、なにかの拍子におぼろげな世界へ移り、そしてまた鈴の音で戻ってきたようにも感じる。恐怖のある世界。あるいは見ているものの違い、それだけで世界は隔てられているのかもしれない。私たちが原始人を嘲笑するように、原始人もまた現代人を嘲笑している。ほんのすこしのことが世界を隔てている。私はいま鈴の音を聞いたときの恐怖がなにであったかわかるような気がする。私はまた生きているだけでは足りなくなった。
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