第2話

文字数 3,246文字

 ここ亀岡も山を一つ越えなければならないが、距離的には近いため京都市街への通勤通学圏内とされ衛星都市の末席に加えられていたので、ご他聞に漏れず高度経済成長時より旺盛な土建業者達によって山河を破壊する宅地開発の憂き目にあった。
今はもう懐かしCMでしか、その業者の名を見る事はないが、山林田畑を切り開いて出来た宅地は残り、住民は老いた。そして居住権を奪われた野生動物達は餌を求め失地回復に励んだ。
人間の業が産みだした惨禍だ。
が、そうも言っていられない。収穫を前にした山あいの畑は多数の獣の足跡に犯された。
しかも一畑や二畑だけに留まらない。もういくつもの畑がやられた。荒らされ放題。そう言うしかない。
 よって恒夫ら猟友会メンバーにも招集が掛かった。役場から害獣駆除の要請が下ったのだ。
 すでに登山口には、猟友会のメンバー達が集結し、若い役場職員の説明を聞いていた。   
猪達は山から下りてきては畑を荒らし、また山へ戻るという反復行動を繰り返しているとの事。被害も日々、甚大になり、よって役場としても看過できず対外的にも示威を示さねばならぬ為、今回の招集が下った旨の説明が終わりをむかえた頃合で、恒夫の軽トラがやっと到着した。
「おい、遅せ―な」
 恒夫とは学生時代からの付き合いの正田が立ち小便を咎めるように言った。
「悪ィ、悪ィ。朝から畑出てたからよォ」
 散弾銃片手に軽トラから降りた恒夫に正田が言う。
「猪だってよ」
「また、いつものヤツかな」
「さあ、でも寺坂さんトコの畑も随分やられたみたい」
「山ん中、エサが無くなってんのかねェ」
「どっちにしろ、俺らは要請受けたら駆除しなきゃ、しょーがねえよ」
 散弾を用意した恒夫は、これから起こる殺生に思いを馳せた。
戦争映画の狙撃手やチャールズ・ブロンソン演ずる殺し屋の様な世界をイメージして、親の代から猟友会メンバーの同級生の正田の誘いに乗り、入会したが、内実は山の中をオッサン連中に引き回されているだけである。
もういい加減辞めたいのだが、かと言って他にする事も無し、中古とはいえ散弾銃まで買っているし、扱う資格も取った。
となると、もう辞めるに辞められず今に至っている。
 結局、今日も流れのままに山の中に分け入ることになった。

 山道を猟友会の皆と進んだ。ずっと地べたに目を凝らしながら。糞や足跡など痕跡を探さねば獲物を仕留めようもないからなのだが、これだけでも肩が凝る重労働だ。ただでさえ気が重いのに。
 恒夫は、ふうーと息を一つついた。するとどうだろう二つ、三つと溜息が止まらなくなった。
 見かねて正田が聞いてきた。「どうしたツネ。マリッジブルーか?」
「何?」
「慧子ちゃんが、嫁(い)っちゃうつうんで、しょぼくれてんだろ。そういうのをマリッジブルーっつうんだ」
 覚えたての言葉を使っている。
きっと駅前のスナックに入った新しい娘と喋っていた話をうろ覚えで言っているのだろう。相手するかどうか逡巡したが、使い方を間違っていると、マリッジブルーとは結婚する当人が罹患するものだ、と指摘しておいた。
「恒夫さんトコのお姉ちゃん、片付くの?」
 話を聞いていた長内が口を突っ込んできたので、正田が応じた。
「そう。上の方」
「おめでとうございます」と長内は笑顔で恒夫に社会人として礼節ある言葉を口にしてくれたのだが、恒夫は「めでたかねえよ」と返してしまった。
 まだ24歳だ。早すぎる旨を訴え出たが、
「俺が嫁貰ったのは22の時だったから、特別早くもないですよ」と言われてしまった。そうだ長内は中学の頃からのやんちゃが過ぎて、若くして結婚し、若くして父になり、若くして離婚し、若くして再婚し、計二名との間に計四名の子を有する男であった。
 全く…田舎者はくっつくのが早い。野良犬じゃねえんだから…。
 この昔取った杵柄か、言葉の前後に慇懃無礼が垣間見える大柄な後輩に、もう立派な大人なので暴力に訴えられる事はないだろうが、多少おっかないので取り敢えず心うちで罵っておいた。
 娘はお前とは違うのだ、と。
 箱入りとまでは言わないまでも私立の四年制大学を卒業させているのだ、と。
しかし心中を察されたのか「お年頃ですよ」と一言で論破されてしまった。
抗いたい。恒夫の切なる想いだ。

「今日も何か、あるんだろ?」正田が言ってきた。「お前は学生の時から、大事な何かがあると溜息ばっかついてた」と。
 見透かされている。付き合いの長さは伊達ではない。胸襟を開きやすい様に、きっちり胸元ギリギリを付いてきた。北別府学ばりの絶妙のインコースへの配球だ。決して東尾修では無かった。
(北別府は広島カープの元エース。針の穴を通すとも称されるコントロールが持ち味の名球会投手。東尾も名球会投手だが、こちらは死球配給数歴代一位でも知られている)
 彼とは高校時代に野球部で二遊間を組んだ仲だ。恒夫がセカンドで、正田がショートストップ。
「丹波高校史上最強二遊間でしたっけ?」
 長内が茶化してきた。いつもの飲み屋での正田の放言を口にしただけなのだが、もちろん最強に対する根拠はなく、他人に言われると馬鹿にされた気になる。
丹波最強とは言っても三回戦負けのチームだった。
正田は常日頃から、
「あそこで平安と当たってなきゃ、甲子園も狙えた」と全国屈指の強豪校相手に接戦を演じた末に敗れたかの如く語っていたが、実は五回コールド負けの惨敗だった事を長内は知る由もない。
 その平安高校も準々決勝で、この年の府代表校である京都商業の小柄なサウスポーエース相手にきりきり舞いに遭わされる憂き目に会っており、その甲子園への距離と実力は窺いしれよう。
 
「今日の猪、お前が仕留めて娘たちにいい格好しろ」正田が言ってきた。
 彼なりの心遣いだ。
 が、息子しかいない彼は女という生き物がそんな単純ではないという事が分からない。
「お父さん、格好いい」となり得ようか?
与えるのはハンドバッグではなく、猪だ。誰が喜ぼうか。ヴィトンではなく、マトンでもない。ボタンだ。牡丹肉だ。娘たちの前に差し出した時の顔を想像することすら憚られた。
 その旨、吐露したら、正田に
「山ン中で愚痴んなよ」と人差し指を口の前に置き、シッとやられた。
 そうだ山の中で女性の話をするのは禁忌であったと思い出した。ひろくマタギの世界では山の神は女性とされていた。なので山中で女性の話をすると、山の神が嫉妬をこじらせて山の幸を供してくれなくなる。とされていたのだ。
 恒夫はマタギには程遠い存在ではあったが『郷に入っては郷に従え』で、この法を遵守する立場に勝手に身を置いていた。
 こういう迷信は信じておいた方がいい。「どうして山に登るのだ?」と問われて
「そこに山があるからだ」と答えた事で有名なミスターエベレストことジョージ・マロニーは世界最高峰に何度も挑んだ挙句、最後は山に命を奪われた。
近年、彼の亡骸は頂上直下で発見されたのだが、この事実からしても彼が頂上を征服直前だったのか、それとも意気揚々、征服した帰り道だったのかは、ついぞ結論が出せない。  
一方、山岳史的に最高峰初登頂に成功したとされるエドムンド・ヒラリーとシェルパのテムジンは征服後、無事生きて帰って来た。
これはヒラリー達が山の神に愛でられたのではなく、マロニーが山の神の逆鱗に触れたのだ、と考える事も出来る。
神は処女を奪った男を許せなかったのだ、と。
ヒラリーは二人目の男だったから、処女特有の嫌忌に触れなかったのだ、と。
こう考えると山の神の女としての意地や矜持が垣間見えよう。
以上、飲み屋の戯言だが、古今東西問わず山の神には抗うな。という事で意見の一致は見られそうである。
しかし、これに関しては神業界関係なく、女性一般に当てはまる事だとも言えよう。
恒夫は、ここでも抗えなくなった。


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