第1話

文字数 5,017文字

 慣れない動作に予定より時間をかけながらも青年は森林の前に車を停めた。目的地の手前まで薄暗く細い道が続く。それが今の青年には都合がよかった。車のサイドミラーに細身ながらがっちりとした青年の姿が映る。
 唯一の荷物である手さげカバンを握りしめる。そして木々の間の道を進むと小さな木造建ての小屋が見えた。
 家の傍にはかつて青年もいた孤児院があった。しかし今は影も形もない。
(もしかして取り壊したのか? 廃墟ですらない……)
 青年が軽く扉を叩くと中から老人の声がした。
「おう入れ。鍵は開いてる」
 扉を開けると木製の椅子に背中を向けた状態で老人が座っていた。以前は白髪まじりだった髪の毛はすっかり白くなり頭の上の方ははげていた。
「ノブヒロか。ガキの頃に比べてでかくなったな」
「お久しぶりです、院長先生」
 青年はかつての恩人に向かって軽く頭を下げる。仕事以外でこんなに他人と話すのは久しぶりだった。
「鍵もなるべくかけてください。不用心では?」
「こんなジジイを襲う奴なんかもうおらん」
 何年ぶりかに会うのに横柄な態度は変わっていない。だが青年を改めて見て老人はかすかに笑みを浮かべた。
「お前も相変わらず仏頂面だけは治っとらんな」
 人形のように表情を変えない青年に老人は呆れたように言った。
「そう言いながらあなたは笑えとも怒れとも言わなかった。他の人たちとは違って」
 青年は少しも表情を崩すことなく答える。
「お前仕事は何してる? メシは食ってるのか?」
「……どうでもいい。俺をわざわざ呼び出した理由は何ですか?」
 孤児院を出る時に困ったら使えと渡された連絡先。かつてフリーターとして働いていた頃の連絡先はとっくに削除した。だが、なぜか老人からの連絡先はどんなことがあっても消せなかった。
「どうしても直接頼みたいことがあるから来てほしいなんて。俺が何かしましたか?」
 今までもたまに連絡をくれることはあった。しかし直接会いたいなどの言葉はなかった。
 青年が用事について尋ねると老人の表情が曇る。やがて小さく口が動いた。
「……くれんか?」
「え? 今なんと?」
 細い声がした。思わず青年は聞き返す。老人は青年の目を真っ直ぐ見た。
「ワシが死ぬのにいい場所を探してくれんか?」

「余命宣告を受けたんだ。最期を過ごすのは病院かそれとも自宅かを迫られた」
 老人はそれから淡々と自分の病状について話し出した。しかし青年にはほとんどの内容は理解できなかった。わかったのは治療が極めて難しい病を患っていること、そしてどうあがいても助からない。親族はみんな死別している……。
「……余命はいつ頃までと?」
「ああ、長くても半年だそうだ」
 老人は力なく微笑した。
「だが最期は自分の手で始末をつける。その前にどこかいい景色を誰かと見たい……」
 老人の視線は青年を見ているようでどこか遠くを見ている。
「それは、自殺したい、ってことですか?」
 途切れ途切れに青年は問いかけた。そうだ、と老人はあっさり肯定した。
「いつ身動きが取れなくなるかもわからん。まだ動けるうちにな」
「動けるうちにって……」
 頼んでくるなら願いを叶えてあげたい。なぜなら青年にとって老人は唯一の――。
「……あなたが、後悔しないなら」
 犯罪者としての壁をたやすく飛び越えた。老人は返答を聞いても何も言わなかった。
(あなたにとって俺は本物じゃないから?)
 口先まで出かかった言葉を青年は慌てて飲み込んだ。

「この車、お前のか? いつ買ったんだ?」
 森の外に停めていた車を見てと老人が尋ねた。青年の手の中で見知らぬ車のキーホルダーがゆれる。まずは車で候補を探しに行こうと思っていたが。
「……何か問題でも? 車があった方がいいでしょう?」
 答えながら青年は片手でキーホルダーごと車のキーを握りしめた。二人を乗せた車は音もなく走り出す。
 老人はゆっくり瞬きした後深い溜息を吐く。
「お前今年いくつになった?」
「……二十五です」
「そうか。まだ十五くらいだと思っていたが」
 月日が過ぎるのは早いと呟きながら老人は車からの景色を眺め始めた。
 老人の正確な年齢は知らない。だが青年が初めて老人と会った時五十くらいと言っていた。なら今は七十近いはずだ。
「家の傍にあった孤児院、いつ取り壊したんですか?」
 話題を変えようと青年は再会してから気になっていた疑問をぶつける。
「お前が出て行ってからそんなに経っちゃいねえ。他のガキ共も立派に卒業したことだし」
 元々数少なかった孤児たちや従業員が去り孤児院は廃業となった。
「さてそろそろメシにするぞ。ノブヒロも来い」
 老人の少し明るい声がした。見ると通り道に小さな喫茶店が見えた、

「なんでよりによってこんなところ……」
「お前うるさいところは嫌がるだろうと思ってな」
 夕方に近いからかいくつか並んでいるテーブルに客は五人もいない。
(最期くらいいい物を食べたがるわけじゃないのか?)
青年の財布にはわずかな小銭しか入っていない。
(さすがに二人は厳しいか……)
 だが幸い代わりならある。丁度隣の席では小さなカバンが置いてある。持ち主は見当たらず見た目からして女性物だ。探れば現金もあるかもしれない。
「なんだ、金足りねえのか?」
 突然立ち上がった青年に老人は声をかける。
「はい。でも大丈夫です。代わりならありますから」
 言いながら女性のカバンに手をのばそうとする。すると老人が青年の腕を素早く掴んだ。
「あの、何か?」
「人から盗ることはよくねえ。ワシの金を使え」
 老人は言いながらもう片方の手で青年の肩を軽く叩いた。青年はその動作に懐かしさを覚えた。そうしている間に老人によって席に座らされた。
「相変わらず怒鳴らないんですね。殴るなりしてしつけた方が早いでしょう?」
 見た目が厳しそうで性格も頑固なくせに手をあげることは極力しない。
「暴力から逃げてきたガキどもを暴力で支配できるか」
 そらお前の好きなの選べ、と老人は青年にメニューを手渡した。

 食事が終わると二人は車内に戻った。そして目的について話し合う。
「方法は飛び降り、でいいんですか?」
 青年の問いに老人はああ、とうなずいた。
「どこか高いところにいきたい。それと景色がきれいなところがあれば」
「了解しました。ではとりあえず景色から見ていきましょうか」
 青年は無意識に握りしめていた自分の手さげカバンを持つ力をゆるめた。
「あの、院長先生」
「なんだ? それとワシはもう院長でもなんでもねえ」
「俺にはそんな小さいこと関係ありません」
「どうして、わざわざ俺を呼んだんですか? 死に場所くらい自分で」
「親父がガキの心配をして悪いか?」
 青年にとって予想外のことを老人はさらりと言った。
「……俺とあなたが親子?」
「なんだ不満か? 血のつながりがある方がいいか?」
 老人の問いに青年はどう答えればいいのかわからなかった。だがさっきから胸の辺りがざわざわする。それでも青年はなんとか言葉を絞り出した。
「……可愛げのないガキなんか放っておけばいいんですよ」
 実の両親みたいに毎日殴るのに飽きたら森にでも捨てればいい。なのにこの老人ときたら……。
「そんなにガキ共の世話をしてたわけじゃねえが、お前だけ引き取り先はずっと決まらなかったな」
「誰でももっと可愛げのある子を選びますよ」
 院長先生以外は、と言う言葉を青年はあえて言わなかった。
「それで結局はお前の方から出て行くことになった。こっちが何言おうと聞きゃあしなかった」
「俺は一人でも生きていけます」
 青年が自分から孤児院を出て行ったのは十八の頃だ。世間でも大人扱いの歳だ。
「……そうか、なら安心だ」
 小さく呟いた老人の声は青年には届かなかった。

 しばらく周囲を適当に走ること数十分、景色を凝視していた老人が不意に声をあげた。
「あそこにしよう。どこか近くに車を停めてくれ」
「わかりました。決まるのが早いですね」
 老人が選んだのは遠くに山が見える場所だった。下には拳大の大きさの石が転がった河原が広がっている。周囲に誰もいないことを確認してから青年たちは車を降りた。
「まるで三途の川みたいだろ?」
「……そうですね。けれど、本当にここでいいんですか?」
「ワシの問題だ。口出しするな」
 
 下までは長い階段を除いて急な斜面となっている。高層ビルのように確実に落下死する高さではないが当たり所によっては死ぬかもしれない。
「あの、もっと高いところとかの方が……」
「いいんだ。しつこいぞ」
 老人の苛立った声を聞いて青年は何も言えなくなってしまった。老人が淵ギリギリのところまで進んだのを確認した。
「……俺が押しましょうか?」
「いや、いらん。邪魔するな」
 もうすぐ最期だと言うのに会話の内容は思ったよりもあっけない。青年がそう思っていると背中を向けたまま老人が声をかけた。
「ノブヒロ……」
「何ですか?」
 もしかして怖気づいたのかと思いながら青年は老人を見る。
「今のワシがお前に言えることじゃないが」
 老人は青年の肩を片手で軽く叩く。それは悪いことをした時にとがめるためのしぐさだった。
「ちゃんと、人の物は返せ。ワシが急に呼び出したせいだな」
 悲しみと笑みを浮かべて老人は青年の体を勢いよく押す。自分とは反対方向、安全な道へと。突き飛ばされた青年は尻餅をついた。それでも青年は老人の顔を凝視していた。
「――――!!」
 大声で叫んだはずの声は老人に届くことはない。上半身だけをかろうじて起こし無意味であると知っていても右手を目いっぱいのばすしかなかった。

 地面に叩き付けられたような衝撃があったのはその数秒後だった。

 青年は近くにあった階段を急いで駆け降りる。
 頭か額が割れたのか頭部辺りから血が流れている。青年は力が抜けたように目の前でへたり込んだ。喉がからからに乾いていた。
「……先生? 院長先生?」
 老人からの返答はない。即死か、あるいは気絶しているだけか。理解しているはずなのに青年のかすれた問いは続く。
「俺がまともなことやってない知ってたんですよね? なのにどうして……」
 責めないんですか、と声だけでなく指先まで震えが止まらない。これまで生きるために食糧を奪い、金を奪い、時には命までも。老人からの連絡を受けた時は当然のように車を盗んだ。最後の窃盗は警察から逃げるための逃走目的でもあった。
(いや、最後は抵抗されたから殺して道端に捨てたんだ……)
 脅し目的のはずが予想以上に抵抗されたから幼い子供を含めた三人家族を殺した。その時は何も感じなかったと言うのに。
(俺、最低なことしたんだよな。ああそうだよな……)
 散々まともなじゃないことをしてきた。幼い頃に消えた感情だって戻ることはないと思っていたのに。
「なんで、あんたまで背負い込む必要があるんだよ。おかしいだろ……」
 悪いことをしたのは青年だけなのに、老人はそれすらも背負い込もうとしている。蘇生技術なんて青年は持っていない。かと言って救急車を呼べば状況から警察も顔を出してくるかもしれない。そうなったら強盗などの罪も重ねて青年は間違いなく逮捕される。
(最悪逮捕はいい。けれど……)
 老人の傍を離れたくない。離れるのが恐ろしい。再会するまでの数年間、老人は青年の安否を心配するメッセージを何度か送っていた。
 どんな風になっても最期まで親は子供を気遣っていたのだ。
(ならばいっそこうするか……)
 今まで抱えていた手さげカバンを乱暴にあさる。すると奥の方から布に包まれたナイフが出てくる。三人を皆殺しにした後、まさか今度は自分に使うことになるとは。
「一緒にいこうぜ、父さん」
 もしかして、これが「悲しい」だろうか。青年は忘れていた感情を思い出した。

 青年のナイフは首元を横に切り裂いた。周囲に鮮やかな血しぶきが舞う。青年は声をあげることなくその場に倒れた。倒れた振動で小石が数個老人の元に転がった。
 その時動かなかった老人の指先がぴくりと動いた。続いてほんのわずかだが両目が開く。
「……ば、か……や、ろ……」
 流れた涙は自分の血だまりの中に吸い込まれた。



俺の父さんは不愛想です。俺の父さんは優しい人です。
俺の父さんは病気になりました、俺の父さんは頼みごとをしました。俺は頼みを聞いてあげました。そして俺は父さんとずっと一緒にいることに決めました。
でも、なぜだが。
俺の父さんは泣きました。
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