第1話

文字数 1,784文字

 朝、いつも通り出勤すると、会社がなかった。雑居ビルの最上階、ワンフロアを事務所兼倉庫にしている通販会社だ。昨日まで中央に並んでいた事務机は空っぽで、椅子には誰も座っておらず、まとめて壁側に押しやられている。もう一方の壁側に積み上げられた商品の詰まったダンボール箱はなくなり、2,3個空のダンボール箱が横倒しになっている。
 夜逃げという昭和レトロな言葉が浮かび、頭を横に振る。
 エコロジーな製品に絞って石鹸や洗剤を販売してきた。大きな利益を生まない代わりに取り返しのつかない損も出さない、手堅い経営だった。特に石鹸は天然素材にこだわった品質の良いもので、環境保全の意識が高い消費者に支持され、販売数は安定していた。
 最近、無漂白紙のシンプルな包装の隅にペンギンのイラストを丸で囲んだ印を押すようになった。些細な事だけれど、ペンギン印のエコ石鹸として親しまれ、売れ行きも上がった。ハンコの手押し作業で昨夜は遅くまで残業した。ペンギンのハンコを提案したのは私なので、誇らしく苦にならなかった。
 私はペンギンが好きだ。ペンギンは飛べない鳥として、短い足でよちよち歩くユーモラスな姿を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、それはペンギンの一面に過ぎない。ペンギンは海の中を飛ぶように泳ぐ。大抵のペンギンでも時速7~11キロメートル、最も速いジェンツーペンギンは時速35キロメートルを出すことができる。
 海の中を泳ぐペンギンの映像を初めて見た時、衝撃を受けた。空を飛ぶ鳥は、翼を羽ばたかせたり、広げたまま滑空したり、大気の抵抗や流れを利用する。一方、ペンギンは、水中の抵抗を最小限にするため、嘴から足先まで流線型を描き、フリッパーと呼ばれる骨同士が融合して堅くオール状になった翼で推進し舵を取り、弾丸のように水中を進む。以前、エイプリールフールにペンギンが空を飛ぶフェイク映像が流れたことがあったけれど、ペンギンが青暗い海の中を泳ぐ姿は空というより、宇宙を飛んでいるようだった。
 ペンギンは主に南半球に生息している。南極を思い浮かべる方が多いだろう。けれど、南アメリカやアフリカ南部、オセアニアと広く6属18種類が分布している。そのうち12種類も水族館や動物園で飼育している国がある。日本だ。
 日本を選んだのはそのせいだ。冬は北海道の動物園や水族館でペンギンの雪中散歩を楽しみ、東北の水族館のウィンターペンギンパレードに飛び入り参加した。季節を問わず、九州の水族館のふれあいペンギンビーチにはよく紛れ込んだ。特に夏のビーチは最高だった。柵や網で囲われているものの水族館に隣接する海辺にペンギンたちが放たれ、われわれも本来の姿で思いっきり波と戯れた。
 変だ、ただのペンギン好きの一個人がペンギンの散歩やパレードを見物したり、ペンギンと親しんだりというより、まるで仲間たちといっしょに雪の中や海辺にいたような…記憶が曖昧だ、いや鮮明になっていく。
 雑居ビルの最上階、窓ガラスに駆け寄ったつもりが、日本の中年男性にしては手足の長いほうなのに、よちよちとペンギンのような歩みになった。窓ガラスに近づくほど、そこに薄っすら映っているのは一匹のペンギンだとわかった。そして、窓の外には念力で浮遊するペンギンたちがいた。昨夜まで一緒に働いていた同僚もいる。詳細に観測すると地球に生息するペンギンとは異なっている。宇宙を渡るスペースペンギンだ。人に有効なステルス機能を使っているので、人の姿のままでは視認できなかったのだ。
 念力による通話が直接脳内に届く。
「残業ゴ苦労…」
 そうだ私は昨晩遅くまで地球での残務整理を行っていた。最後の石鹸にこだわりのペンギン印のハンコを愛惜をこめて押した。
「全員集合…次ノ目的地ヘ」
 空は旅立つのにふさわしく、青く澄み渡っていた。
 雑居ビル最上階のワンフロアに人の動く気配はない。ただ、窓の一隅だけが開いていて、物言わぬ風が吹き込んでいる。そこにあったはずの通販会社の痕跡はなくなった。ペンギン印のエコ石鹸は徐々に出回らなくなり、一部の消費者に惜しまれながらひっそりと消えていくだろう。
 スペースペンギンは漆黒の宇宙を超速で飛んでいく。小さくなって消えていく青い惑星に棲む、18種類のうち10種類も絶滅危惧種である自分たちによく似たペンギンとの別れを惜しみながら。
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