ジャック・オーランタンが笑った

文字数 2,884文字


 働けど、働けど、暮らしが楽にならない。
 この世には大勢、そういう人たちがいる。
 僕も、そのうちの一人だ。
 手のひらをじっと見つめる。
 男のものにしては、細い指をしている手だった。
 栄養が行き届いていないためか、やけに爪の色が薄い。
 指の毛が目立ってるな、とか、ささくれ一個見いつけた、などと、どうでもいいことばかりに目がいってしまう。
 疲れている手だった。パワーの欠片さえ感じさせない。
 どんなに眺めても、僕の手のひらに、いいことなんか見つけられなかった。

「次は柏森。柏森でございます。お降りの方は、ボタンを押してお知らせください」
 バスの車内アナウンスが聞こえた。ハッと気づく。ぼんやりしていて乗り越すところだった。あわてて座席の横にあるブザーを押す。
 すると、別の手がサッとあらわれて、ボタンを押す僕の指に重ねたのだ。
「あっ」
 息を呑む気配がした。
 視線を巡らすと、頬を赤く染めた女性がうつむいていた。
「ごめんなさい。間違いました」
 手を引っこめ、小さな声で謝る彼女。今にも泣き出しそうだ。
「い、いえ。別に。気にしないでください」
 僕も、あたふたとうなずいたのだけど。手に触れた温かさに、胸がどきどきして。気の利いた言葉ひとつ、かけることができない。
 無言でいるうちに、バスは交差点を通り越し、僕の勤めるオフィスビルの前に着いた。
「あの、これで失礼します」
 彼女が軽く頭を下げる。
「どうも」
 そして、僕たちは同じバス停で降りた。



 それから毎日、バスの中で彼女の姿を見かけるようになった。いや、見かけるようになったのではなく、意識してさがすようになったのだ。
 彼女に派手さはなかった。
 艶やかなセミロング、やさしい曲線を描いた体、伏し目がちな瞳。
 彼女の姿を見つけるたびに僕の胸は高鳴り、できるだけ注視しないように気をつけた。
 というのも、一度だけ目が合ったとき、彼女をうつむかせてしまったからだ。以来、彼女と目を合わせないようにしている。

 彼女を知ってから、三か月の時がたつ。 
 その間、僕たちに変化があったのは、季節と服装だけ。僕の手のひらも相変わらず、いいことが見つけられないままだ。
 同期の北村に声をかけられたのは、そんなときだった。
 食堂で昼飯の親子丼を食べていたら、
「ハロウィン・パーティーをやるって話があるんだけど。おまえも来る?」
 と誘われたのだ。
「ハロウィン・パーティー?」
 わけがわからず訊き返すと、北村は身を乗り出した。
「おう。あのハロウィンだよ。トリック・オア・トリート! というやつ」
「なんだよ、それ。子供のイベントじゃないか」
 僕は、ゆるゆると頭を横に振った。
「おまえなあ」
 北村はワックスで左に流した前髪をつまんだ。
「研究室に引きこもってばかりいるから、世間の動きを知らないんだな。ハロウィンはお子さまだけじゃなく、大人女子にもうけるイベントなんだぞ。クリスマスに迫るほどの勢いで、ただいま絶賛市場拡大中なんだ」
「ふうん、それで?」
「隣のビルの八階フロアに商社が入ってるだろう?」
「うん、知ってる」
「今週末ハロウィンのイベントを開催するんだってさ。自社で取り扱う商品をパーッと出して、モニターとして消費者をご招待ってわけ」
「へえ、さすが商社。よく考えたなあ」
「それがさ、まいっちゃうことに、俺も招待されているんだよ。知り合いが働いているから」
「よかったな」
「けど、大勢連れて行くって約束しちまったんだ。な、頼む。市原、おまえも行ってくれよ」
 これでわかったぞ。
 僕は確信を持って答えた。
「またかっこつけて気軽に引き受けたんだな。北村、その知り合いというのは女の子なんだろう」
「はは、ばれたか。だって、いいとこ見せたいじゃん」
 気まずそうに笑う北村。
 やつが前の彼女と別れてから、すでに半年だ。次の恋を追いかける準備ができたのだろうか。
 だとしたら、親しい友人として応援しないわけにいかないよな。
「やっぱり」
 僕は素知らぬ顔で返事をした。
「仕方ないなあ。いいよ、わかった、付き合うよ。パーティーとなったら食事が出るだろうし。一人暮らしの身としては、ただ飯は助かるしな」
 丼に残っていたご飯を、一気に口の中へかきこんだ。



 北村が知人をさがしに行ってしまったので、僕は一人、ブルゴーニュ産のワインをちびちびやりながら、チーズをかじっていた。
 パーティーということで一応スーツを着てきたけれど、よく見たら魔女やミイラ男、モンスターなどが闊歩している。会場のあちこちで「ハッピー・ハロウィン!」だの「トリック・オア・トリート!」の声があがっていた。
 みんないい年をした大人なのだが、なんだか楽しそうだ。こういうの、たまにはいいかもしれない。僕もつまらないスーツより仮装した方がよかったかな。
 つと天井を見あげる。バルーン製の大きなジャック・オーランタンが僕を見下ろしていた。

 おい、ジャック・オーランタン。
 そこから眺める僕たちは、君の目にはさぞ面白おかしく映っているんだろうね。
 なあ、どうなんだい?

 思わず、「ふはっ」と苦笑する。つぶやきながら視線を戻した。
「答えるわけないか」
 ところが次の瞬間、絶句した。
 僕の目の前に人間サイズのジャックがいて、僕を見つめていたのだ。
「あっ」
 僕と目が合うなり、ジャックはうつむいて、手に持っていたバスケットを脇に抱え直した。そして、じりじり二、三歩さがったあとに、右手をいきなりバスケットの中に突っ込み、僕の胸に何かを押しつけてきたのだ。
 それを見てみると、ジャック・オーランタン柄の袋に入ったクッキーだった。
 ああ、なんだ。
 ハロウィンのお菓子か。
 不覚にも動揺してしまった。あわてて礼を言う。
「ありがとうございます」
 しかし、顔をあげたときには、ジャック・オーランタンの姿はもうなかった。周囲を見まわしたけれど、それらしい姿はない。どうやら僕が目を離したすきに去ってしまったらしい。
 びっくりした。なんだったんだ、今の。
 とつぜんのことで戸惑ってしまったが、ジャックの仕草に心当たりがあった。

 やわらかな曲線を描いた体。
 今にも消え入りそうな声。
 恥ずかしそうにうつむいた姿。

 手のひらをじっと見つめる。
「ケケケ、やっとわかったのかよう」
 手のひらの上で、ジャックが笑ったような気がした――。



 週末の明けた月曜日、バスの中で彼女を見つけた。
 彼女はいつものように伏し目がちで、手すりにつかまり立っていた。
 バスの通路を進み、彼女の隣に立つ。
 どくん、どくん。
 鼓動が大きくなっていく。
 すでに心臓が爆発しそうだ。
 けど、彼女にできて、僕にできないことはない。
 びびるな。
 いつまで今の状態に甘んじているつもりなんだ。
 すうっと息を吸う。
「トリック・オア・トリート!」
 思いきって声に出したら、彼女がハッとして僕を見あげた。
 目が合う。
 そして、やっぱりすぐにうつむかれてしまったのだけど。
 僕の耳に、か細い声がかえってきた。
「ハッピー・ハロウィン……」

 何かが始まりそうな予感がした。

(了)
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