ジャック・オーランタンが笑った
文字数 2,884文字
働けど、働けど、暮らしが楽にならない。
この世には大勢、そういう人たちがいる。
僕も、そのうちの一人だ。
手のひらをじっと見つめる。
男のものにしては、細い指をしている手だった。
栄養が行き届いていないためか、やけに爪の色が薄い。
指の毛が目立ってるな、とか、ささくれ一個見いつけた、などと、どうでもいいことばかりに目がいってしまう。
疲れている手だった。パワーの欠片さえ感じさせない。
どんなに眺めても、僕の手のひらに、いいことなんか見つけられなかった。
「次は柏森。柏森でございます。お降りの方は、ボタンを押してお知らせください」
バスの車内アナウンスが聞こえた。ハッと気づく。ぼんやりしていて乗り越すところだった。あわてて座席の横にあるブザーを押す。
すると、別の手がサッとあらわれて、ボタンを押す僕の指に重ねたのだ。
「あっ」
息を呑む気配がした。
視線を巡らすと、頬を赤く染めた女性がうつむいていた。
「ごめんなさい。間違いました」
手を引っこめ、小さな声で謝る彼女。今にも泣き出しそうだ。
「い、いえ。別に。気にしないでください」
僕も、あたふたとうなずいたのだけど。手に触れた温かさに、胸がどきどきして。気の利いた言葉ひとつ、かけることができない。
無言でいるうちに、バスは交差点を通り越し、僕の勤めるオフィスビルの前に着いた。
「あの、これで失礼します」
彼女が軽く頭を下げる。
「どうも」
そして、僕たちは同じバス停で降りた。
*
それから毎日、バスの中で彼女の姿を見かけるようになった。いや、見かけるようになったのではなく、意識してさがすようになったのだ。
彼女に派手さはなかった。
艶やかなセミロング、やさしい曲線を描いた体、伏し目がちな瞳。
彼女の姿を見つけるたびに僕の胸は高鳴り、できるだけ注視しないように気をつけた。
というのも、一度だけ目が合ったとき、彼女をうつむかせてしまったからだ。以来、彼女と目を合わせないようにしている。
彼女を知ってから、三か月の時がたつ。
その間、僕たちに変化があったのは、季節と服装だけ。僕の手のひらも相変わらず、いいことが見つけられないままだ。
同期の北村に声をかけられたのは、そんなときだった。
食堂で昼飯の親子丼を食べていたら、
「ハロウィン・パーティーをやるって話があるんだけど。おまえも来る?」
と誘われたのだ。
「ハロウィン・パーティー?」
わけがわからず訊き返すと、北村は身を乗り出した。
「おう。あのハロウィンだよ。トリック・オア・トリート! というやつ」
「なんだよ、それ。子供のイベントじゃないか」
僕は、ゆるゆると頭を横に振った。
「おまえなあ」
北村はワックスで左に流した前髪をつまんだ。
「研究室に引きこもってばかりいるから、世間の動きを知らないんだな。ハロウィンはお子さまだけじゃなく、大人女子にもうけるイベントなんだぞ。クリスマスに迫るほどの勢いで、ただいま絶賛市場拡大中なんだ」
「ふうん、それで?」
「隣のビルの八階フロアに商社が入ってるだろう?」
「うん、知ってる」
「今週末ハロウィンのイベントを開催するんだってさ。自社で取り扱う商品をパーッと出して、モニターとして消費者をご招待ってわけ」
「へえ、さすが商社。よく考えたなあ」
「それがさ、まいっちゃうことに、俺も招待されているんだよ。知り合いが働いているから」
「よかったな」
「けど、大勢連れて行くって約束しちまったんだ。な、頼む。市原、おまえも行ってくれよ」
これでわかったぞ。
僕は確信を持って答えた。
「またかっこつけて気軽に引き受けたんだな。北村、その知り合いというのは女の子なんだろう」
「はは、ばれたか。だって、いいとこ見せたいじゃん」
気まずそうに笑う北村。
やつが前の彼女と別れてから、すでに半年だ。次の恋を追いかける準備ができたのだろうか。
だとしたら、親しい友人として応援しないわけにいかないよな。
「やっぱり」
僕は素知らぬ顔で返事をした。
「仕方ないなあ。いいよ、わかった、付き合うよ。パーティーとなったら食事が出るだろうし。一人暮らしの身としては、ただ飯は助かるしな」
丼に残っていたご飯を、一気に口の中へかきこんだ。
*
北村が知人をさがしに行ってしまったので、僕は一人、ブルゴーニュ産のワインをちびちびやりながら、チーズをかじっていた。
パーティーということで一応スーツを着てきたけれど、よく見たら魔女やミイラ男、モンスターなどが闊歩している。会場のあちこちで「ハッピー・ハロウィン!」だの「トリック・オア・トリート!」の声があがっていた。
みんないい年をした大人なのだが、なんだか楽しそうだ。こういうの、たまにはいいかもしれない。僕もつまらないスーツより仮装した方がよかったかな。
つと天井を見あげる。バルーン製の大きなジャック・オーランタンが僕を見下ろしていた。
おい、ジャック・オーランタン。
そこから眺める僕たちは、君の目にはさぞ面白おかしく映っているんだろうね。
なあ、どうなんだい?
思わず、「ふはっ」と苦笑する。つぶやきながら視線を戻した。
「答えるわけないか」
ところが次の瞬間、絶句した。
僕の目の前に人間サイズのジャックがいて、僕を見つめていたのだ。
「あっ」
僕と目が合うなり、ジャックはうつむいて、手に持っていたバスケットを脇に抱え直した。そして、じりじり二、三歩さがったあとに、右手をいきなりバスケットの中に突っ込み、僕の胸に何かを押しつけてきたのだ。
それを見てみると、ジャック・オーランタン柄の袋に入ったクッキーだった。
ああ、なんだ。
ハロウィンのお菓子か。
不覚にも動揺してしまった。あわてて礼を言う。
「ありがとうございます」
しかし、顔をあげたときには、ジャック・オーランタンの姿はもうなかった。周囲を見まわしたけれど、それらしい姿はない。どうやら僕が目を離したすきに去ってしまったらしい。
びっくりした。なんだったんだ、今の。
とつぜんのことで戸惑ってしまったが、ジャックの仕草に心当たりがあった。
やわらかな曲線を描いた体。
今にも消え入りそうな声。
恥ずかしそうにうつむいた姿。
手のひらをじっと見つめる。
「ケケケ、やっとわかったのかよう」
手のひらの上で、ジャックが笑ったような気がした――。
*
週末の明けた月曜日、バスの中で彼女を見つけた。
彼女はいつものように伏し目がちで、手すりにつかまり立っていた。
バスの通路を進み、彼女の隣に立つ。
どくん、どくん。
鼓動が大きくなっていく。
すでに心臓が爆発しそうだ。
けど、彼女にできて、僕にできないことはない。
びびるな。
いつまで今の状態に甘んじているつもりなんだ。
すうっと息を吸う。
「トリック・オア・トリート!」
思いきって声に出したら、彼女がハッとして僕を見あげた。
目が合う。
そして、やっぱりすぐにうつむかれてしまったのだけど。
僕の耳に、か細い声がかえってきた。
「ハッピー・ハロウィン……」
何かが始まりそうな予感がした。
(了)