第1話

文字数 5,060文字

          一、      
「きゃっ…痛いっ…」
 後ろから突然上がった悲鳴に僕は振り返った。
 見ると凍結気味の歩道で滑って転倒したパンツスーツの女性が足首を抑えている。そして、さらに悪いことに排水用の蓋にヒールの踵が挟まっていた。
 ラッシュアワーの中、誰もが彼女に一瞥をくれても助けようとはしない。
 僕は自分でもお人好しだとは思ったが、顔をしかめながら蹲っている彼女の横に行き声をかけた。
 「大丈夫ですか?」
 彼女は痛そうに足首を抑えながら言った。
 「はい…、足首が痛くて…、ヒールも挟まっちゃってるし…」
 「ちょっと痛いかもしれませんが、我慢して下さいね」
 僕は彼女の細い足首を軽く掴んだ。痛みのせいか女性の口から呻きが漏れる。慎重にハイヒールを脱がせ、挟まっているヒールを傷つけないようにそっと抜いた。
「大丈夫ですか?」
僕は彼女の顔を覗き込みもう一度言った。
 歳の頃二〇代の半ばか、細面の顔に少し濃いが綺麗に化粧をしている。きつめだが綺麗な顔立ちだ。僕は彼女から立ち上る香水の香りに少しドギマギとした。今29歳、あまり女性に縁が無い僕には刺激が強い。
 「ええ…、ありがとうございました…、助かりました」
 彼女は立ち上がり、脱げたヒールを履こうとしたが、痛みのせいかまたしゃがんでしまった。
 「大丈夫じゃないね。骨折でもしていたら大変だ。病院、行きましょう」
 僕は道路脇に停まっていたタクシーに大声で声をかけた。
 「ちょっと!お願いします!」
 空いていた窓から運転手が顔を出した。
 「この女性が骨折してるかも。近くの外科までお願いします」
 運転手は親切にも降りてきて、僕と二人で彼女に肩を貸し、タクシーに乗せた。
 「本当にすいません…」
 「僕は構いませんよ。それより会社に電話された方が…?」
 はっとした彼女は、携帯を取り出し慌てて電話を掛けた。
 「あ、鶴居です、すいません、通勤途中に滑って脚を痛めてしまって、今親切な方に病院に連れて行っていただいてる途中で…、はい、すいません、また連絡します」
 電話を終えた彼女は僕に目を移し頭を下げた。
 「本当にいろいろありがとうございます。私、鶴居といいます」
 彼女は僕に名刺を差し出した。名前は『鶴居亜樹』、職場はジークロ営業部になっていた。
 ジークロと言えば、大手の衣料メーカーだ。
 「僕は沖名隆と言います。脱サラして民芸品の工房やっています」
 僕も手作りの名刺を渡した。
 「へえ、竹細工とか木工品を作られているんですね。何かロマンチックですね」
 彼女は足が痛んでいるのにも関わらずニコッと笑った。笑顔が意外に幼い。
 タクシーが病院に到着し、僕は待合室まで付き添った。
 「ありがとうございます。本当にお世話になりました。今度工房にお礼がてらお邪魔させていただきますね」
 彼女は頭を下げ、病院を出ていく僕を見送った。
 これが僕と彼女、亜樹との出会いだった。
            二、
 それから一週間を過ぎた日曜日、僕の工房に亜樹が少し足を引きずりながら訪ねてきた。
 「こんにちは、沖名さんいらっしゃいますか?」
 作務衣姿で玄関先まで出た僕は最初誰だか分らなかった。亜樹は白のニットにフレアスカート姿、そして何より化粧が薄く、まるで高校生みたいだったからだ。
 「もしかして…鶴居さん?見違えて分かりませんでした。それで足の具合は…」
 「幸い、捻挫で済みました。あの、上がらせてもらってもいいですか?」
 「あ、ああ、どうぞ。汚くしてますが」
 僕は業者用の応接に通した。僕がお茶を入れている間、彼女はソファーに座り興味深そうに並べている細工物を見ていた。
 「ここは家兼用で借りてるんです。家賃がちょっと高いけど」 
僕は亜樹の前にお茶を出し座った。
 亜樹はニコッと笑い、お茶を一口飲んだ。
 「ところで沖名さん、さっき私ってわからなかったんですか?」
 「いや、えーと…」
 「いいんですよ。私、童顔で舐められちゃうから仕事では濃い化粧するんです。でもオフは面倒だからナチュラル。子供に見えたんでしょ」
 悪戯っぽく笑う亜樹の顔は余計に幼く見える。
 「あ、そんなことより…、沖名さん、本当にこの間はありがとうございました。大変助かりました」
 亜樹は頭を下げ、持って来ていた紙袋を差し出した。
 「そんな、お気遣いなく」
 「いえ、あのままだったらどうなっていたことか」
 紙袋の中をそっと見ると、有名な煎餅店の包みだった。
 「民芸品の工房とお聞きしたので気取らないお菓子がいいかなって」
 「ありがとうございます。煎餅大好きですよ」
 「ところで…、沖名さん、私気になると止まらなくなる質で…、失礼を承知でお伺いしてもいいですか?」
 亜樹の真剣な顔にたじろぎ乍ら僕は頷いた。
 「あの、民芸品で生計成り立つんでしょうか?」
 確かに不躾で直球の質問だ。僕は苦笑しながら亜樹に言った。
 「まあその辺で売っているお土産とかでは生活はできませんね。手作りは手間かかるし。まあ家具とかも作ってますから民芸品は趣味みたいなものですよ」
 「そうなんですね。お一人でしてるんですか?」
 「ええ。サラリーマンより気楽ですが。でも稼ぎは少なくなりました」
 亜樹はまた応接を見渡し、ため息をついた。
 「でもいいですよねえ。私もこういう民芸品好きなんです。心休まるというか…。実は私も民芸品ではないですが趣味で作ってるんです」
 亜樹はバッグから小さい正方形のものを出した。
 「これは、手作りのコースターですね。色合いもいい」
 「レース糸で編み込みしました。コットンや毛糸を使うときもあります。形もいろいろ作れますよ」
 「器用なんですねえ」
 僕は感心しながらコースターを手に取った。編み込みのずれも見当たらない。見事な腕だ。
 「それで、編み物好きなので…お礼の品として…」
 亜樹は少し顔を赤くしながら、またバッグに手を入れた。地味だけどお洒落な編み込みのマフラーが出てくる。
 「これ、受け取ってもらえます?」
 「鶴居さんが…編んでくれたんですか?」
 「はい…」
 かわいらしく微笑む亜樹にドキドキしてくる。
 「ありがとうございます。大切に使います」
 「また、遊びに来てもいいですか?」
 「もちろんです。そうだ、僕の民芸品扱う店のオーナーに鶴居さんのコースター見せますよ。置いてくれるかもしれない」
 「い、いえ。趣味のものですから…。今回本当に有難うございました」
 亜樹は何回も僕にお礼を言って、連絡先の交換をし、帰っていった。
             三、
 それから、亜樹は毎週僕の工房に来るようになった。但し、付き合っているわけでは無い。キスどころか手を繋いだこともない。
でも、お互いが何となく好きなことは分かっている。僕に勇気があればいいのだが、この歳だと結婚を意識した付き合いになってくる。そう思うと一歩が踏み出せなかった。
亜樹も時々僕をじっと見て何か言いたそうにするが、口から言葉が出ることはなかった。
そのうち亜樹は、民芸品の作り方を教えて欲しいと言ってきた。元々手先が器用なので今では売り物として耐えうるものを作れるようになっている。
でも、僕が以前亜樹が持ってきたコースターの作り方を教えて欲しいと言ったら、男の人が作るものじゃない、と笑って教えてくれなかった。
「いい商品になると思うんだけどなあ」
「だめだめ。嫌ですよ」
僕は、亜樹が時折工房でコースターを作っているのを覗こうとするのだが、亜樹は絶対見せてくれなかった。笑いながら『企業秘密』と言ってバッグに隠してしまう。
それと、亜樹のコースターに似た感じのものをどこかで見たような気がするのだが思い出せなかった。
亜樹が来るようになって半年、僕たちの間に何の進展もなかったが、嬉しい事が二つあった。
一つは亜樹が作った民芸品が売れるようになってきたことだ。僕が作ると鄙びたものになるが、亜樹が作ると、何となくお洒落なものになるのだ。ショップは女性客が増えたと喜んだ。  
そしてもう一つは、僕にとってだけだが、工房の家賃が結構下がったことだ。
せこいと思うかもしれないが、生活に直結しているのでありがたい。理由は大家である『クレイン』という何をしているかよく知らない企業がこの間様子を見に来て、この工房が結構老朽化している、家賃を下げましょう、と言ってくれたのだ。
僕は、亜樹と知り合ってから何となくいいことが続くような気がしてならなかった。
そして最近、この女神を手放しちゃいけない、と真剣に思うようになってきた。やはり、告白というものは男からするものだ。稼ぎが少なく亜樹に迷惑をかけるかもしれない、と怖気づく自分を奮い立たせ、今度のディナーの時告白しようと心に決めた。
             四、
僕はディナーの時に亜樹に渡すプレゼントを買おうとデパートへ向かった。
デパートなど久しぶりでどこの階に何が売っているのかなどほとんどわからない。
いろんな売り場を回ってピンときたものを買おう、と一階から順に見ていくことにした。
一階は宝石や化粧品のテナントが多い。化粧品のにおいと宝石のきらめきに頭がくらくらしてくる。
貧乏人の僕には宝石など買えず、化粧品など分からない。僕は早々に一階を後にした。
二階紳士服、三階婦人服、関係のない売り場が続く。四階は財布やスカーフなどの小物と、寝具売り場だった。
小物なら財布とも相談できる、僕はそう思い売り場を見て歩いた。どれもブランド物だがどうもピンとこない、可愛くて、それでいてちょっと勝気な亜樹に合いそうなものはなかなかない。
ブラブラと見ているうちに寝具売り場まで来てしまった。ここは関係ないなあと踵を返そうとした時、どこかで見たものがあった。
それはカーテンだった。
丹念に織り込まれた上品なレース、見れば見るほど亜樹のコースターに似ていると感じる。
ブランド名を見てみると、それは僕の工房の大家である企業と同じだった。
株式会社クレイン…、待てよ、クレインは日本語で…確か鶴。
亜樹は、この会社と何か関係があるのだろうか?家賃が下がったことも何か関係が…。
僕はたまらず亜樹の携帯に電話をかけた。
「もしもし、隆さん、どうしたの?」
「いや、亜樹ちゃん…、君、クレインって会社と何か関係あるのかい?」
「え?ど、どうしてそんなことを…」
「見ちゃったよ、カーテン…」
「そっか…、今日、仕事終わった後工房行っていい?」
「分かった、待ってるよ」
僕は結局何も買わず工房に戻った。
亜樹が来るまでの間に、僕の頭は一つの結論に達していた。
 「こんばんは。入るね」
 亜樹がパタパタと速足で工房に入ってきた。今日の顔は、最初に出会った時の、化粧が綺麗に映えている顔だ。
 「隆さん…私…」
 「亜樹ちゃん、まあ座りなよ」
 「はい…」
 「亜樹ちゃん、君はクレインの社長の縁者…もしかして娘さん…か?」
 「うん…」
 「家賃を下げてくれたのも君が?」
 「うん…父にお願いして…」
 「あのコースターは、レースカーテンのデザインをアレンジして作ったんだね。だから売り物にしてはまずいと…なぜ言わなかったの?」
 「うん…、黙っててごめん。言い出しにくくて。でも、民芸品が好きなのは本当だし、ここが好きなのも、隆さんが好きなのも本当だよ…」
 「亜樹ちゃん…」
 「隆さん、質素な感じが好きだし、もし社長の娘だなんて言ったら嫌われちゃうと思って…」
 「僕は亜樹ちゃんが好きだ…でも、正直、恐れ多くて付き合えない…、こんなに貧乏だし…君の親が反対するよ」
 「貧乏が嫌なら工房になんて来ないよ!隆さんと居られるなら家を出てもいい!」
 亜樹は僕に抱き着いてきた。
 「父も…最初はレースの職人で貧乏だったの…、でも、頑張って会社作ったんだよ。父は隆さんの事知ってるよ、腕のいい職人だって。だから家賃も下げてくれたの。私、ずっと隆さんが告白してくれるの待ってたの、見合いも全部断ったんだから…、私じゃダメ?」
 僕は亜樹を抱きしめ返した。
 「ダメなわけないじゃないか!こんなに僕のこと考えてくれて、いろいろしてくれて…、どうやって恩返ししたらいいか分からないくらいだよ!」
 亜樹は僕から体を離し、じっと見た後口づけをした。
 「最初に助けてくれたのは隆さんだよ、だから恩返ししただけ。でも、私は正体見られてもどこにも行かないからね」
 そう言って亜樹は、幼くて美しい笑顔を向け、もう一度僕に口づけをくれた。
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