第1話

文字数 2,528文字

 評価について。
 このネット媒体で文章をあげさせてもらうようになって一週間くらい経つのだが、正直、これほど精神にこたえるものだとは思わなかった。プレビュー数やお気に入りの数を見るたびに、一喜一憂しなければならない。「なんでこの記事はプレビュー数が増えないのかな?」などと考えだすとキリがない。本当に精神に良くない。
 ぼくはTwitterもインスタもやっていないので、いわゆる「いいね」の快楽などは知らないままに生きてきた。昔、先輩のツイートがバズって一万いいねくらい行った時、感想を聞くと、「脳汁がだぽだぽ出るよ」とよくわからない表現で語ってくれたのだが、その意味が今なら分かる気がする。本当に、脳とか、脊髄とか、そのレベルで「お気に入り」に執着してしまいそうな自分がいる。
 以前あげた、「20代で文章を書くことについて」という文章を多くの人に見ていただくことができた。お気に入りも、三つは運営側のサクラだとしても、七ついただくことができた。これほど嬉しいことはない。ぼくが部屋の隅っこでうじうじと考えていたことが、7人もの人に共感していただけるというのは、ちょっと信じがたいことである。一緒にオンライン飲み会でもして、ぼくの文章をたくさん褒めてほしい。いや、できればだが。
 しかし、こうやって一度「お気に入り」をいただくと、何度も欲しくなってしまう。そして、もらえなかった作品がひどくつまらないもののように思えてくる。人の評価を気にしてどうするのだ、とも思うのだが、こればかりはどうしようもない。
 正直、実際に人から「面白かったよ」と言われるよりも、ネットで「お気に入り」にしてもらう方が嬉しい。ぼくは、現実の文芸サークルに作品を見せに行くこともあるのだが、そこで「いいと思いました」とか言われても、正直、「本当に思っているのかな? 気を遣っているだけなんじゃないかな?」と疑ってしまう。対面だと、自ずと人は気を遣うから、ちょっと信用に欠けてしまう。その点、ネットの投稿は、見ず知らずの人が、別に押さなくても何の不利益もない「お気に入りボタン」をわざわざ押してくれたという点で、かなりの信憑性がある。対面で知っている人に評価してもらうよりも、遠隔で見ず知らずの人に評価してもらう方が信頼できるというのは、なんだか奇妙な感じだ。
 しかし、その一方で、「ネットの評価って信頼できるのかな?」と思うこともある。例えばツイッターやYouTubeのコメント欄を見ていると、「なんでこのコメントにいいねがつくのだろう?」というものが結構ある。Twitterでバズっているものなど、「これって、実は大したこと言っていないよね」というものが結構ある。ネットには、深いことを言っているようで実はそうでもないものが溢れていて、それが過大評価されているような気がするのだ。
 実際、霜降り明星の粗品さんは、YouTubeの「Twitterをバズらせよう!」という企画の中で、「結局バズるのは薄いツイートです」というようなことをおっしゃっていた。広い範囲の人に、まんべんなく伝わる薄い内容のものほど、バズりやすいのだと。それはひとつの真理のように思われる。
でも、バズっているものの中には、本当に面白いものや、本当に深いものがあるのも確かである。その差を可視化するものがないのは、不便といえば不便である。自分の投稿がバズっても、本当に共感してもらえたのか、ただ薄い内容だったからなのかがわからない。投稿した本人は、疑心暗鬼になることだろう。
 ぼくも、自分の読んだ文章を読み返してみる。正直、それほど内容と呼べるものはない。それでも、人気のあるものも、ないものもある。なぜこれは人気なのだ? 何か共感をよんだからか? それとも薄い内容だったからか? 他のものはなんで人気がないのだ? こういうことを考えていると胃が痛くなってくる。
 しかしまあ、文章の評価なんて、本当は曖昧なものである。時間や場所によってコロコロ変わるし、絶対的なものなどどこにもない。ある文学賞を受賞した作品が、他の文学賞の候補に挙げられて、ボロカスに批判されたりしている。才能のある人の作品でさえそうなのだから、ぼくみたいな凡人もしかりである。よかろうが悪かろうが、大したことはない。
 ぼくがそれを痛感したのは、高校生の頃である。ぼくが地元の滋賀県の高校に通っていた頃、文芸部で小説を書いていた。一年生の二月だったか、ぼくは処女作を発表した。冬休みのほとんどを費やした力作で、二万字にもおよぶものであった。しかし、部内での評価は散々なものであった。「文章がくどい」「何を言いたいのかわからない」「無駄に長い」などと散々な言われようであった。実際、それを滋賀県の県大会に応募したのだが、三位にも入らなかった。「あんなに頑張ったのになあ」と思いつつも、まあ、次で頑張ればいいや、と前向きに捉えていた。
 しかし、その数ヶ月後、ある徳島県が主宰する賞で、その小説が最優秀賞に輝いたという知らせが入った。地方予選で負けて、甲子園で優勝するようなものである。大阪桐蔭でもこんなことはできまい。部内は騒然となった。なぜあんな小説が評価されるのか、と部員が熱心に議論していた。「いや、ちょっとくらい褒めてくれても良くない?」と思ったが、誰も相手にしてくれなかった。ある部員など、滋賀県と徳島県における文学観の違いを、近江ちゃんぽんと徳島ラーメンの違いから分析するという訳のわからない理論を打ち立てていたが、結局よくわからなかった。それで、いざ授賞式に行けば、めちゃくちゃに褒められるので余計に訳がわからない。ぼくはいろいろ考えたが、最終的には、どちらの意見も眉唾ものだと思われた。あれほどけなされる筋合いはないし、かといって、あれほど褒められるようなものでもない。結局、正しく文章を評価している人など誰もいないのではないかと思われた。
 それからは、自分の文章を心から信じたことはないように思う。評価されようと大したことのないものなのだから、どうせなら好きなことを書いたほうがいいのである。まあ、お気に入りは増えた方が嬉しいけれど。
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