第1話

文字数 1,988文字

21時11分。うたた寝から目を覚ますと、時計の針はもうそんな数字を指していた。枕にした腕は、自分の額の脂でテカテカと光っている。もう3日は家に帰れていない。風呂は一昨日から。4か月前に覚悟して入社したつもりではあったが、広告代理店の【残業】の辛さを完全に舐めていた。真っ暗な部屋の中、スポットライトのように一つだけ照らされた机を離れ、金曜日夜の酔っ払いで溢れた街を窓際から見下ろした。新宿三丁目のオフィスビル2階に向かって吹く風は、ぬるい夏の湿っぽさと嫌な人間臭さを含んでいた。顔にそれを浴びるだけで、むしろ気分が悪くなりそうだ。すぐに窓を閉じて、一番入り口に近い自分の席に戻った。目の前の煌々としたパソコンの画面に、思わずため息が出る。2時半までに一通り仕事終わらせて近くの銭湯に行きたい。で、明日は、明日こそ家に帰ろう。
残業のお供は、お気に入りの配信者の弾き語りだ。曲のリクエストを3回送ってやっと気づいてもらえた。「ケイゴさん、いつもありがとう。じゃあ、歌っちゃいますね」その気怠げなイントロを合図に仕事を再開した。一人で画面に向かうもの同士、彼女と鼓舞しあえているような気がする。仕事を始めてから数十分経ったくらいで、音楽が途切れた。「そろそろ終わりにしようかな。皆、見てくれてありがとう。じゃあ、ばいば~い」画面には、ライブ配信が終了しましたの文字と一緒に、オススメの動画が並ぶ。そこに、『今夜だけの生配信!【ペンギン】ショー』なるタイトルの動画が目に止まり、思わず再生した。数秒の広告から画面が切り替わり、少しボヤけたガラスの奥に10数匹のペンギンと餌を持った従業員が映る。どうやら花火大会帰りの客を狙って、この水族館は今日だけ夜遅くまで営業しているらしい。ついでに、広告付きの生配信も。なんて悪どい商売だろうか。そう思いつつも、画面を開いたまま携帯をパソコンに立てかけてしまった。ペンギンもこうして残業しているのか。夏の夜、赤の他人のために残業をしているペンギン。健気で痛々しいその姿を眺めているうちに、なんだかシンパシーを感じて目の前がぼやけた。「可哀想に。こんな夜にまで。広くて自由な海に帰りたいよなあ」ぽつりと、一粒の涙が机に落ちる。その瞬間、ふわっとペンギンたちが宙に浮き、割れたシャボン玉のように姿が消えた。何が起きたのかよく理解できなかった。戸惑う従業員と殺風景な水槽を残し、来場者たちのざわめきが大きくなる。コメントが流れていくスピードと比例して、自分の鼓動が急激に速まっていくのを感じた。今、何を見たんだろうか。なんだか怖くなって画面を閉じた。僕がペンギンをどこかに飛ばしたのだろうか。なんて、あり得ないような想像すらしてしまうほどのタイミングだった。これが俗に言う【念力】なのだろうか。らしくもない非現実的な考えが浮かんできて止まらなくなる。心臓の音が、時計の針の音に紛れ始めた頃、汗の滲む手で携帯を手に取った。SNSでは、既に配信の録画が拡散され、大きな話題になっていた。この目で見たのは、嘘ではなかったらしい。
夢中で携帯を見始めてどのくらい時間がたっただろうか。携帯を置いてふと見上げた天井の端にある防犯カメラが目に入った。カメラの奥にいる誰かが、僕を見ているのだろうか。そんなことを考えてしまう。さっきまでの自分のように、僕の頑張りを認めているだろうか。あぁ、きっと誰かは僕を。
結局、その日に銭湯には行けなかった。
パッとしない濁った光が窓から差し込んできた頃、サラッとした髪のアルコール臭い男がオフィスに入って来た。「はい、宮原ぁ。お疲れさん。資料できてるよなあ?ちょっと見せてみろ」この男の顔を見た時、心臓が止まるような恐怖を覚えた。6月から持ち歩いている退職届は、もう鞄の底でぐしゃぐしゃになってしまった。「はぁ。出来てさえいねえじゃねえか。この無能がよ」何十時間かけた僕の資料たちが、空中に抛られた。ああ、昔にこの光景は見たことがある。両親が僕の高校受験のことで言い争った時、クッションが破けて羽毛が舞った時だ。大好きな2人が怒鳴り合う様子をドアの隙間から悲しそうに見つめる少年の涙には、誰も気づいてくれなかった。そういえば最近は、泣くことなんて無くなった。最後に泣いたのはいつだったっけ。何故か美しくさえ思えるその紙の白を、僕はぼーっと眺めていた。全てが地について、やっと我に返る。「すみません。すぐやります」すべての資料を拾い上げて立ち上がると、ふとあの防犯カメラが視界に入った。その瞬間、体に緩い電流が流れた。カメラにピントが合わなくなり、体全身の力が抜けた。僕の体はふわっと浮いて、後頭部が後ろへと引っ張られた。薄れゆく意識の中、真っ黒なレンズの奥で涙が落ちたのを僕は見た。気がした。いや、きっとそうだと思いたいだけだった。
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