第1話

文字数 2,053文字

 僕は無職だ。
 最後の仕事を辞めてもう一年以上になる。
 幾度となく職を変えながら何とか社会にしがみついていたが、いつしかそれも限界を向かえ、とうとう心が、体が言うことを聞かなくなったのだ。

 僕は自分に自信がない。
 何かを始めても壁に当たるとすぐにくじけてしまう。
 趣味と称していろいろなことに手を出してきたが、三日坊主と言わないまでも、自然とその道から離れ、結局は何も残らなかった。

 こんな自分に誰がした。僕が何か悪いことをしただろうか。例えば前世で何かとんでもないことをしでかして、その罰として与えられたのが今の人生なのだと言われたら納得しそうなものである。

 こんなことを考え始めたのは、二十六歳の頃。僕が保育士をやっていた頃のことだ。当時の僕は、漫画家になるという夢を諦め、地に足をついた目標を持って人生を歩もうと必死だった。朝番として七時には園の鍵を開け、事務仕事を終わらせるために夜遅くに園の鍵を閉めて帰る日々。自分ではがんばっていると思っていたし、がんばれていると思っていた。けれど、上司に当たる先輩はそうは思ってくれなかったのである。

「もっと考えて」

 これが先輩の口癖だった。
 これでもかこれでもかと考えて、それで出した結論に対して、この言葉を何度浴びせられただろう。答えのない迷宮に迷い込んだ気分だった。
 朝から晩まで仕事。家に帰っても仕事。気休めに遊ぶ時間などなく、寝る時間もどんどん短くなって。次第に夢の中までも仕事で多い尽くされていった。

 ある月末。次月の保育計画の書類を書くことになった際。どうしても園児個別の計画が立てられず先輩に助言を求めたことがある。しかし――。

「もっと考えて」

 結果はいつも通りの返答。助力を得ることはできず、立ち尽くすしかなくなってしまった僕に先輩は呆れ顔を見せつつ「明日の朝までに考えてきて」と言った。
 翌朝、何とか搾り出した計画を書いて先輩に提出しようとしたら「今は忙しいから受け取れない」という。仕方なく昼休憩の前に渡そうとしたら「今から休憩だから」と言ってまたしても受け取ってもらえず。夕方になってようやく提出したら「こんな時間に出されても修正は明日以降になるよ?」と言われた。
 意味がわからなかった。言われた通りにしても結局はダメだったのだ。

 いつの頃からか、通勤にかかる時間が長くなっていることに気が付いた。徒歩十五分のところが二十分になり三十分になり、四十分になり……。そしてある時、道半ばで僕の足は止まった。ゆっくり歩いているのに息が切れる。心臓は激しく脈打ち、周囲の音もやたらと大きく聞こえた。僕は人目も気にせず耳を押さえてその場にうずくまった。と言うより人目を気にしている余裕すらなかったのだ。

 何とか携帯電話を取り出し、職場へと連絡を入れる。

「すいません。急に動けなくなっちゃって――」

 この時電話に出てくれたのが話のわかってくれる相手だったのは幸いだった。その足で病院にかかり、出された診断はパニック障害。三ヶ月の休職をもらって休養に当てた。しかし、この間も毎晩のように悪夢にうなされた。終わらない仕事。先輩からの叱咤。後輩の陰口。いろんなものが夢の中で僕を襲った。

 こうして休職期間が終わった後も、僕の心と体は復帰することができず、保育士の道を閉ざすこととなった。

 それから数年。僕は派遣社員として様々な職場で働いた。家電営業、病院内の薬品配送、老人ホームでの介護。とにかくやれそうだと思ったものは何でもやった。しかしそのどれもが上手くいかない。家電営業はノルマがきつく。病院内の薬品配送は人事変更によりお役御免。老人ホームでは利用者にグーで殴られ。散々な目に合った。

 そして現在。先に記した通り僕は無職だ。
 これは最近になってようやく発覚したことだが、僕は発達障害のグレーゾーンだったようだ。世の中とのすれ違いが多いのはここに理由があったのだと、今は納得している。が、せっかくこうして筆を取ったのだから、この場を借りて言いたいことを言わせてもらおう。

 僕は保育士の先輩が許せない。例えあなたがどんなに仕事ができる人だったとしても、助けを求めてきた新人を冷たくあしらうのはどうかと思う。そして、女性が多い職場だからと言って男の僕をのけ者にしていたことは絶対に忘れない。あなたのその行動がなければ、少なくとも僕がここまで神経をすり減らし、自らの死すら願うような挫折を味わうことはなかっただろう。
 あなたは今、何をしているのだろうか。今でも保育士を続けているのか。結婚して職場を離れているのか。それはわからない。けど、きっと僕のことなんて忘れて、それなりに幸せな人生を歩んでいるのだろう。
 あなたが覚えていなくても僕の心はあなたに殺された。あなたには伝わらないし、伝えるつもりもない。

 けれど僕の言葉はここに残る。それが僕のなりの彼女への復讐だ。
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