第1話

文字数 1,996文字

「風邪、ひくよ」

 (ゆう)は差し出された紺色の傘を見上げて、次いでその傘を差し出す男に目をやった。
 松木岳(まつきがく)先輩だった。
「別にいいです」
 ついさっき彼氏に別れを告げられた悠は、そっけなく答える。
 その様子に松木は少し困ったような顔を見せたが、バス停を指差してもう一度言った。
「風邪ひくから」
 仕方なく悠は砂浜から立ち上がり、そちらに歩き出した。


 海岸沿いのバス停のベンチに座った悠は、しばらくバス停の屋根と壁に切り取られたどこにでもある風景を眺めていた。銀色の糸のように落ちてくる雨がアスファルトに吸い込まれていく。ようやく涙が止まった。
 コの字型に並んだベンチ。悠の斜め前に座っていた松木が「それじゃあ」と立ち去ろうとしたので、咄嗟に呼びとめた。
「話、聞いてくださいよ」


 目尻にかけて少し下がった眉は、気弱そうな印象を受ける。元彼との馴れ初めや喧嘩した話などを心の赴くまま松木に吐露しながら、悠は松木をなんとなく観察した。

 今まで付き合ってきた人たちの中にはいなかったタイプ。

 松木は吹奏楽部の先輩で多分まったく話したことがない。もう三か月も同じ部活に所属しているというのに。パートは女子ばかりのフルートで、肩身が狭そうだなと思った記憶がある。
「でね、そこの海にナマコがいたから持ったんです。そしたら、めっちゃ引かれた。思ってたのと違うって。別に女の子がナマコ持てるくらいいいですよね!?」
 別れるに至った理由を聞いた松木は、盛大に吹き出した。そのあと悪いと思ったのか口元を押さえて腰を捻って笑い続ける。ようやく笑いが止まった松木は涙目で悠を見た。
「たしかに絵面はやばいかも。男でも触りたくないようなのを、平坂さんみたいな可愛い子が持ってたらびっくりするよ。でも、そんなことで別れる男もどうかと思う。別れて正解だったんじゃない?」
「え、今わたし口説かれてます?」
「まさか」
 松木はまたははっ、と笑った。
「俺も男なのに、なんでフルート? て言われるよ」
 高校吹奏楽部ではフルート奏者のほとんどが女子だ。悠の高校だけでなく、他校を見てもそうなのだからフルートは女子の楽器というイメージがあるのは(いな)めない。
「わかるぅぅうーー」
「えっ、情緒」
 突然また泣き出した悠に松木は慌てて鞄の中を漁り、ティッシュを取り出した。
「別に好きな楽器やったって、いいですよね。わたしも、コントラバス、だからちょっと、わかります。自分の、好きなことに他人に、ケチ、つけられたくないんですぅぅ」
 声をつっかえさせながら頷いた悠は、目元にあてられたティッシュに気づき顔を上げた。
「だよね」
 目の前に膝をついて悠の目元を拭く松木の顔が、そこにある。
 目が合った。
 まっすぐ悠を見て笑いかけた松木の顔が、胸に焼きつく。

「平坂さんのそういう所、俺はいいと思う。好きなものを好きと言える真っ直ぐさ、羨ましいな」

松木の右手が悠に伸びて、幼い子どもをあやすような手つきでぽんぽんと二回、頭を撫でた。悠は顔が熱くなるのを感じて目を伏せた。
「松木せんぱ――」
「岳、いた」
 悠の声は息を切らした女の声に消された。松木の手が、頭から離れていく。
咄嗟に袖を掴んだ。なんとなく離れていかないでほしいと思った。
 けれど、悠は声の主に顔を向けると意外な人物がいたこと驚きに、掴んだ袖を離してしまった。
「まき、先輩?」
「あれ? 悠ちゃんもバス待ち?」
「遅かったな真紀。おかげでバス一本逃しただろ」
 立ち上がった松木は不機嫌そうな声で真紀にそう言った。親しそうに。

「ごめんて。てか、後輩の前では岳も真紀先輩とお呼び!」
 松木の頭にチョップをくらわす真紀が笑う。
「松木先輩とまき先輩って」
 悠が呟くと松木はチョップされた頭を擦り、そっぽを向きながら答える。

「ただの幼馴染、だよ」
 その横顔がとても不機嫌だから、悠には解ってしまった。

「あ、バス来た。悠ちゃんも乗るんだよね」
「いえ、わたしは……雨宿り、してただけなので」
 真紀が空を見上げて目を細めた。
「止んで良かったね。じゃあまたね」
「はい」
 バスが停車しドアが開くと真紀が乗りこみ、その後ろに松木も続いた。
「平坂さん、じゃあね」
「はい。また部活で」
 バスのステップを上がる松木を目で追った。後ろから二番目の座席に座る二人を待って、バスが動き出す。
 だんだんと小さくなるバスの後ろ姿を見つめながら、徐々に視界が滲むのを止められなかった。
――ああ、松木先輩は。


 うああああああああぁぁんんんんん


 道路を挟んだ向こう側を歩くおじさんがぎょっ、とした顔で振り返っても構わなかった。

 新しい恋は今始まったのに、こんな、こんな辛いことってない。始めから叶わないって思い知る恋なんて。
 でも、もう手遅れだ。あの笑顔を知ってしまったら。

 悠はバスが向かったのとは反対方向へと体を向け、少しだけ降り止んだ雨と雨の狭間を歩き出した。


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