天にて結ばれる三姉妹の恋

文字数 13,802文字

 私は今、自宅の庭で二人の妹に告白されている。
 先に言っておくが、私はその二人の姉だから、この告白はつまり同性かつ近親に向けられた好意だという事になるだろう。姉妹愛と表現するには柔らか過ぎ、家族愛と表現するには控えめ過ぎる私達の間柄を考えれば、いずれこうなるであろう事は分かっていた。
 問題は私が二人の妹の内、どちらを選ぶのかである。
「それじゃあ、お姉ちゃん、私と朱梨、一番好きだと思う方の手を取って?」
 そう言って、沙織は左手を差し出し、それに続いて朱梨も右手を差し出してくる。
 差し出された二人の手の甲は互いに背中合わせとなっていて、一方の手を取れば必然的にもう一方の手を無視する形となって、どちらかに敗北者としての暗い影が落ちるという二者択一の構図を描いていた。
 正直なところ、私は朱梨も沙織も同じくらい好きであった。同じ屋根の下で暮らしてきたからこそ、二人には互いに持っていない魅力的な部分がある事を知っている。
 朱梨は優しくて、料理やお菓子作りも上手だし、さりげないメイクの変化で不意にドキッとさせてくる。ただ、自分の過ちに厳し過ぎる一面もあるせいか、時々悩みや不安を一人で抱え込む癖がある。いつもは明るくて笑顔の彼女が心の抱える不安から弱っている姿を見ると、姉として傍にいてあげたくなるのだ。
 沙織は正義感が強くて、細やかな気配りが上手だし、器用な手先としなやかな指先の動きでよく私の視線を奪い取ってくる。ただ、嫉妬深いところが玉に瑕で、私の事で朱梨と喧嘩する時なんて、普段の凛とした彼女からは想像もつかないほど言葉遣いが悪くなるものだ。それでも最後にはちゃんと仲直りをするという、なんとも憎めない可愛い妹である。
 ああ、どちらかを選ぶと言わず、二人とも私の一番だよと言えたのなら、どれほど楽になれる事か。もちろん、そんな都合の良い選択は常識的にも社会的も倫理的にも不適切だ。
 もし、二人から同時に告白されていなければ、私はただ目の前に現れた一人の妹の言葉を受け入れるだけで済んだのに。語弊を恐れずに言えば、私はどちらでも良かったのだ。
 朱梨が先に告白してきたら、私はそれを受け入れていたし、沙織が先に告白してきた場合でも、やはり私はそれを受け入れていた。朱梨と沙織の好意を知った上で、私は一人の姉としても、一人の女性としても二人を等しく愛しており、どちらかに優劣を付ける事なんてできなかった。だから、私から行動する事はなく、二人が告白してくる時を待っていたのだ。
 まさか、朱梨と沙織の二人から同時に告白される事になるとは思ってもみなかった。もしかすると、私が卑怯者だったから、神様が私に試練を与えたのかもしれない。
 それなら私も、この選択を天の神様に委ねてみようか。
 私は二人に「朱梨も沙織も好きだし、自分にはどちらか一人を選ぶ事なんてできない」と伝えた上で、「コインの裏と表でどちらの想いを受け入れるべきかを決めようと思うけど、どうかな?」と、思い付いた解決方法をそのまま提案してみた。
 それを聞いた朱梨と沙織は互いに顔を見合わせて、やや戸惑うような様子を見せる。
 二人がそう反応するのは当然だ。私だって、この解決方法があまり褒められた事じゃないと自覚していた。だけど、私達姉妹の間で複雑に絡み合った三人の気持ちへそれぞれの答えを同時に与えるためには、私情を挟まない方法を取るしかないのだ。
 やがて、沙織の方が口を開いて、「今ここで、お姉ちゃんが私達のどちらかを選んでくれるのなら、それでも良いけど……」と私の提案を受け入れたのだった。
 朱梨は黙っていたが反対する気配を見せなかったので、私は「じゃあ、コイントスに使えそうな物を持ってくる」と言って、急いで玄関のある方へと回り込んだ。二人の気持ちが変わらない内に全てを終わらせようと、玄関の扉を開けた私は二階にある自室へと直行して、机の中から手頃なコイン一枚と一本のペンを取り出した後、階段を駆け下りる勢いのままに玄関から外へと飛び出すと、庭で待つ二人の前へと戻ってくる。
 まずは沙織と朱梨に表か裏を被らないように選んでもらい、それを自身の手にメモしてもらう。二人がそれぞれ表と裏のどちらを選んだのかは私に分からない。二人の選択を知らない状態でコイントスをしなければ、その結果に作為的な操作を疑われる可能性があったからだ。もちろん、使うコインにもちゃんと裏表がある事も確認しておく。
 そうして準備が整うと、私はコインを構えて、思いっ切り親指で真上に弾いた。
 きっと、これで朱梨と沙織、そして私自身の運命が決まると思うあまり力を入れ過ぎたのだろう。頭上高く跳ね上がったコインは私の想像以上に遠くまで行き、真上に弾いたはずが大きく逸れて、二階に見える私の部屋のベランダに入り込んでしまったのだった。
 私は二人を庭に待たせて、コイントスの結果を見るために再び玄関へと向かう。二人の姿が見えなくなり、玄関扉の前に立って取手を手前に引いたものの、上手く扉が開かなかった。
 当たり前だが鍵は掛けていなかったので変だなと思い、僅かに開く扉の隙間から内側を覗き込むと、プッシュプル型の取手の間に一本の傘が差し込まれており、それがちょうどスライド式の錠のようになっていて、扉の開閉を妨げていたのだった。
 私はこうなってしまった原因に思い当たる。
 さっき、玄関から外へ出る際に勢いよく扉を閉めたものだから、その衝撃で傍にあった傘立てが倒れて、運悪くもその内の一本の傘が取手の間に入り込んでしまったのだろう。実際、玄関扉の隙間から見える土間には傘立てと数本の傘が散乱していた。
 急いでいる時に想定外の不運に見舞われた私は焦りながらも、扉の隙間から少しだけ入る手の先を使って、扉と取手の間に挟まっている傘を取り外そうと試みる。
 数分ほど試行錯誤した結果、なんとか玄関の扉を開ける事に成功した私は、散らばっていた他の傘をそのままに階段を駆け上がって自室へと入る。それからベランダに出て、私の弾いたであろうコインの行方を探し始めて間もなく、自分の足元に光る物を発見した。
 それは確かに私の弾いたコインであり、表を上に向けている状態であった。
 私はそのコインを拾い上げて、ベランダの上から庭で待っている二人に声を投げかける。
「コインは表だったよ、表を選んでいたのは朱梨と沙織のどっち?」
 二人はどこか気まずそうに目配せをした後、朱梨の方が私を見上げる。
「お姉ちゃん、表は私だよ」
 これまで色々とあった私達姉妹の複雑な関係に、一つの答えが示された瞬間であった。
 私が朱梨と付き合う事に決まったその日の夕食時の事、食卓で肩を並べていた朱梨と沙織は時々お互いに何かを言いたそうに目を合わせて、私の様子を窺っているようであった。朱梨は自分が選ばれてしまった事で沙織に対する負い目、沙織は朱梨が選ばれた事で彼女への嫉妬があるのであろう。それに加えて、二人に共通している感情の中に、告白を受けた時ですらどっちつかずの態度を取った私に対する不満もあるはずだ。
 二人には申し訳ない事をしたと思う。こうでもしなければ、私はあの場で付き合う相手を決める事ができなかったのだ。それにもし私が自分の言葉でどちらか一方を明確に選んでいたとしても、この食卓でこうした微妙な空気になる事は避けられなかったに違いない。
 私が今、特に心配しているは沙織の事だ。
 彼女は本当に繊細で嫉妬深く、今日まで数え切れないほど私の事で沙織と激しい喧嘩をしてきた。さすがに手を出した事はないものの、感情をぶつけるような口喧嘩をした時には自制の利かなくなる場面があったと沙織本人も言っており、いつか一線を越えてしまうのではないかと、姉である私はいつも冷や冷やしている。
 夕食を食べ終わると、私は朱梨に呼び出された。
 きっと例の告白について話したい事があるのだろうと身構えつつ、私は朱梨の後に付いて二階へ行き、彼女の自室へと入る。ちなみにこの部屋の隣には一枚の壁を挟んで沙織の部屋があり、彼女は夕食を済ませると真っ先に自室へ戻っていた。
「あのね、お姉ちゃんにお願いしたい事があるの」
 隣の部屋にいる沙織へ聞こえないよう気を遣っているのか、朱梨は控えめな声量で続ける。
「さっきの告白を無かった事にして欲しいの」
 私は思わず「えっ?」と驚きの声を上げたが、すぐに彼女の心情を察して納得した。
 朱梨は心を痛めているのだ。コイントスという偶然の結果によって自分が選ばれたその一方で、沙織が辛い立場に置かれてしまった事実に。また、その事で嫉妬深い沙織が自分に敵意を向けてくるかもしれないという恐れも少なからずあるだろう。
 今や私の恋人となった朱梨のお願いなら聞いてあげたいところだが、いくら優柔不断な私であっても、言われるがままについさっき決まった事をなかった事にする真似はできない。
「そう言いたくなる朱梨の気持ちは分かる。だけど、結果はどうであれ、私達姉妹の中で答えを出す良い機会だし、私はそれを受け入れるつもりだよ。まあ、あれは強引な方法だったとは思っているけど、こうでもしないと、私は二人のどちらかを選ぶなんて一生出来そうになかったんだ。私はそれだけ、朱梨も沙織も比べられないほど同じように好きなんだ。でも、安心して欲しい。こうして朱梨と付き合うと決まったからには、私は朱梨を一番の恋人として絶対に幸せにすると、この場で約束するよ」
 朱梨は感情の置きどころに迷うような表情を見せたが、それも数秒の事であって、すぐに喜びを抑え切れないという風に微笑んだのであった。
 何とも言えない雰囲気の沈黙が生まれたその時、隣の部屋から壁越しに「どうして、朱梨が……!」と叫ぶ沙織の声が聞こえてくる。そこから先の言葉は声を小さくしたのかまったく聞こえず、床を踏み鳴らすような音が微かに伝わってきたのみであった。
 少しの間、私は隣の部屋からの物音を聞き逃さないよう耳を澄ます。沙織がこちらの部屋に乗り込んできて朱梨と喧嘩を始めるのではないかと、私は警戒していた。
 しばらく待っても、沙織が自室を出ようとする気配は感じられなかった。彼女の性格を考えれば、私と朱梨の話を盗み聞きしているとは思えず、恐らく朱梨に対する嫉妬心からつい大声で独り言を零してしまったのだろう。
 急に飛び込んできた沙織の声には朱梨も驚いたようで、その顔には困惑とも不安とも取れる表情が浮かんでいた。壁越しに隣の部屋の方を見る彼女も、私と同じように沙織が喧嘩を吹っ掛けに来るのではないかと緊張しているようである。
「大丈夫、私がちゃんと話をしてくるよ」
 そう言って私が部屋から出ようとした時、不意に「待って」と朱梨から呼び止められる。
「たぶん今、沙織は機嫌が悪いから、話をするのは明日にした方が良いと思う。明日、もう一度三人で話し合って、その時にお姉ちゃんが今私に言ってくれた事を沙織にもしっかり伝えてくれたら、きっと分かってくれるはずだから」
 朱梨の言う事には確かに一理あった。
 沙織は機嫌が悪い時、つまり心が嫉妬の気持ちでいっぱいになっている時には、姉である私の声すら耳に入らない事が多々ある。こちらの部屋まで聞こえるほど大きな声で叫ぶほど余裕のない沙織のところへ行って、私が大事な話をしたとしても、彼女の心に響かないだろう。
 それなら、ここは朱梨の言う通りにして、一旦時間を置いた方が良い。
「そうだね。じゃあ、また明日に改めて三人で話そう」
 私は朱梨の部屋を出て、そのまま向かい側にある自分の部屋へと戻っていった。
 それからは朱梨と沙織のどちらとも顔を合わせる事なく、就寝の時間を迎えた。
 ふとお手洗いに行きたくなって目を覚ました時、時刻は夜中の零時を過ぎていた。お手洗いの場所は一階にあるため、自室を出た私は静かに階段を下り、薄暗い廊下を歩いていく。
 リビングの扉の前を通り過ぎようとしたところ、私は妙な気配を感じて立ち止まる。
 少しばかり隙間の空いていたリビングの扉の向こうから人の話し声が聞こえたのだ。リビング内の電気は付いていないにも関わらず、そこに誰かがいるとなると、それは幽霊か泥棒なのではないかと怖くなった。その気配の正体を確認しないまま、お手洗いに行ける訳もない。
 私は扉の隙間を慎重に押し広げて、リビングの中をそっと窺う。
 私の視線は食卓付近を通り越して、奥にあるキッチンカウンターの前に浮かぶ二人の人影へと吸い寄せられた。薄暗い廊下を歩いてきたので私の目は暗闇に慣れつつあり、またリビングの窓から入ってくる外の淡い明かりもあって、その人影は朱梨と沙織だと分かった。ただ、どちらが朱梨でどちらが沙織なのかまでは見分けられない。
 とりあえず幽霊でも泥棒でもなかった事に安心したものの、こんな夜中にリビングで電気も付けずに言い合いをしているらしい二人の様子が気になった私は、その会話に注意を向ける。
「……沙織が嫉妬深いのは知っているけど、さすがにそれは言い過ぎじゃない? 自分がお姉ちゃんに選ばれなかったからって」
「いい加減にして! そもそもお姉ちゃんが選んだのは私でしょ!」
「ちがっ、お姉ちゃんは私を……」
「それはあんたが本当の事を隠して、そういう風にお姉ちゃんを騙したからであって、あの告白の時に選ばれていたのは私だったでしょ、って言ってんの!」
「でも、お姉ちゃんから見たら……」
「お姉ちゃんから見たら、何? あんたと私でどこか違うところでもあるの?」
 話の状況や影の動きを見ていると、なんとなく朱梨と沙織を見分けられそうだ。
 二人はあの告白についてお互いの言い分をぶつけ合っているようだが、私が間に入って止めるべきだろうか。今までの喧嘩とは空気感が異なるせいか、私は若干の胸騒ぎを覚える。でも今更私が出て行っても状況が好転するようには思えない。
 そう私が躊躇している間にも、二人の言い合いは続いていく。
「ほら、分かり切っているじゃん。だから、私が邪魔になったから消そうって訳ね」
「そんなつもりはないよ」
「じゃあ、どうして私に嘘を吐いたのよ! あんたはいつもそう、喧嘩すれば自分が被害者で私が悪者、お姉ちゃんにもそういう印象を与えるようにずる賢く立ち回ってばっか! 今回の事だって最初からそう企んでいたんでしょう!」
「分かった、私が抜け駆けをしようとした事は認める。でも、それ以上の企みなんてない。私が悪かったから、一旦落ち着いて、もう一度よく話し合おうよ? ねえ……」
 朱梨と思われる人影が手を伸ばした瞬間、沙織と思われる人影が咄嗟に動き出す。
 沙織が朱梨に体をぶつけたかと思うと、それを受けた彼女は前傾姿勢になって、そのまま崩れ落ちるように倒れてしまった。うつ伏せになった朱梨はぴくりとも動かず、彼女を見下ろす沙織の左手からは細く尖った物が鋭い影を伸ばしている。
 夜の静けさが支配するリビングの中、フローリングの床にぽたり、ぽたりと水滴の落ちる音が鳴り響く。いや、それはほとんど錯覚に近かったかもしれない。きっとこれも錯覚なのだろうが、ほんのりと鉄の臭いが漂ってきて、軽く目眩のような感覚に襲われる。
 私は無意識の内に大きく後退ってしまったのだと思う。
 床の軋む音が廊下に響いて、それを聞きつけたリビングの人影がこちらを振り返る。
「おねえ、ちゃん?」
 その人影が私に近寄ってくる。
 私は身の危険を感じて逃げようとした。
 しかし、恐怖のあまり覚束ない足の動きになり、廊下の壁際で転んでしまい――。

  D.C.

 ふと気が付くと、私は自宅の庭の隅で家の壁を背にして座り込んでいた。
 私は何故自分が自宅の庭で寝ていたのか分からなかった。目を覚ます直前まではとても悪い夢を見ていたような気がするものの、耳鳴りと頭痛が酷く、それ以前の記憶がはっきりと思い出せない。何か切っ掛けのようなものがあれば全てを思い出せそうなのだが。
 ひとまず自宅の中へ戻ろうと立ち上がったが、その視線の先に信じられない光景を見つけてしまい、思わず近くの植え込みの陰に身を隠す。
 庭の目立つところには三人の人物が立っていた。
 二人は私のよく知っている妹、朱梨と沙織である。それからもう一人、彼女も私のよく知る人物、というより鏡越しに何度も目にした事のある私自身そのものであった。
 しかも、彼女達の立っている場所や時間帯など、それらの状況には見覚えがあった。
 あれはそう、私が日中に朱梨と沙織から同時に告白された時の状況とまったく同じだ。愛する二人の妹から同時に告白されて困った私は、コイントスで恋人にする相手を決めると提案して、その結果によって朱梨を選び、その夜にあの衝撃的な光景を目の当たりにする。
 私は瞬時に全ての記憶を思い出した。
 最初、自分は夢の中にいるのではないかと疑ったものの、あの夜リビングで目にした妹の人影から逃げようとして転んだ後の記憶が一切なく、今もまだ後頭部に残る鈍い痛みを感じている事から、これは紛れもない現実であるのだと受け入れるしかなかった。
 何故自分が過去にいるのか、どうやって自分のいた元の世界へ帰るのか、その他にも多くの謎はあったが、ただ一つ確かな事はあの悲惨な未来を変えるまたとない機会だという事だ。
 私はこの先に起こる出来事を知っている。今日の夜中のリビングにて、沙織が朱梨を刺し殺した原因は他でもない、これから過去の私が行うコイントスのせいだ。あの結果によって朱梨が選ばれてしまったから、嫉妬に狂った沙織があんな凶行に及んでしまったのだ。
 それならば、コイントスの結果を変えて、沙織が選ばれるようにすれば良い。
 たった今、過去の私がコインとペンを手に、朱梨と沙織に表か裏を選ぶよう指示している。
 確か、過去の私は力強くコインを弾いてしまい、それが二階にある自室のベランダへと落ちるはずであった。私はコイントスの結果を変えるために先回りをしようと、庭を経由しない別方向から自宅の玄関側へと回り込む。
 過去の私が二階へ上がってくる時間を稼ぐため、家の中に入った私は玄関扉の近くにある傘立てをわざと倒して、その中の一本の傘を扉の取手の間に差し込んでおく。二階へ上がり、自室のベランダに辿り着くと欄干より身を低くして、庭に立つ彼女達に見つからないよう注意しつつ、問題のコインが降ってくるのをじっと待った。
 緊張で逸る心臓の鼓動を抑えるよう意識していたところに、ようやく空を切る音と共にコインが姿を現した。丁度良く私の目の前に落ちたそのコインの結果を見た私は我が目を疑う。
 コインはなんと裏向きになっていた。
 おかしい。過去の私はコイントスの結果、表向きになっていたからこそ朱梨を選ぶと決まったはずである。それなのに、目の前のコインは裏向きであり、この結果に従うのであればあの時沙織が選ばれていなければ過去の記憶と辻褄が合わないのだ。それに沙織が選ばれる事によってあの悲惨な未来を回避できるのであれば、この向きをわざわざ変える必要はない。
 不可解な状況を紐解く手掛かりを得ようとする一心から、私は庭に立つ朱梨と沙織の様子をひっそりと窺ってみる。二階から見下ろす形になるとはいえ、ここから二人までの距離はさほど遠くなく、静かな環境で集中すれば二人の声を聞き取る事ぐらいは可能であった。
 朱梨と沙織はお互いに顔を見合わせて、くすくすと笑い合っている。
「やっぱり、お姉ちゃんってば、私と朱梨が入れ替わっている事にまったく気付かないね」
「うん、まあしょうがないよね? お姉ちゃんが私と沙織を見分ける時は、だいたい性格と雰囲気の違いを頼りにしているみたいだし、それ以外に違うところなんて全然無いんだもの」
「でも、ちょっと悲しくない? 可愛い妹二人に告白されるっていう大事な場面でも、お姉ちゃんは私と朱梨を見分ける事ができていないんだよ? お姉ちゃんが私達のどちらか一人を選べないのって、やっぱそれが理由なのかなあ」
「そうかもね。それはそうと、沙織はこれからどうする?」
「私は別に、このコイントスで決着を付けるのも構わないけど、朱梨はどうなの?」
「う~ん、そうね、私達が入れ替わっている事を打ち明けて、告白をやり直した方が良いと思うな。だって、もしコインが表だったとして、それで沙織が選ばれても、お姉ちゃんから見たら私が選ばれた事になる訳でしょ? それって、ちょっと意味が分からないし」
「確かにそうかも。じゃあさ、せっかくお姉ちゃんはお姉ちゃんなりに一生懸命答えを出そうとしてくれているみたいだし、一旦このまま話を合わせておいて、少し時間を置いてから、実は私達は入れ替わっていたのって伝えて、この告白を無かった事にしてもらうのはどう?」
「そうだね、それが良いと思う」
 私は過去の私が知らなかった事実を知って驚愕した。
 まさか、あの告白の時に朱梨と沙織が入れ替わっていたなんて、今の今までまったく気付かなかった。そうなると、あのコイントスの結果も見え方が変わってくる。つまり表を選んでいたのは朱梨ではなく、朱梨の振りをした沙織だったという事なのだ。
 ならば、このコイントスで選ばられる相手を沙織にしなければならないので、このコインの向きを変える必要が出てくる。そう思った私はコインをひっくり返して表向きにした。
 そこでつと、私は一つの疑問に突き当たる。
 コインが表向きになれば、過去の私の記憶と辻褄が合うし、私の恋人に沙織が選ばれる事も確定する。だが、コインが表だった結果、あの悲惨な未来を迎えたのも事実であるとするのなら、このコインは裏向きにしておくべきでないのか。しかし、裏向きにすれば実際には沙織の振りをした朱梨が選ばれてしまい、やはり沙織の嫉妬による凶行を防げないのではないか。
 過去を変えるという複雑な行為に、私の頭は酷く混乱していた。
 このコインを表にするべきか、それとも裏にするべきか、確信的な結論を出す事ができない私はついに限界を感じて、さらに細工をしておいた玄関扉を開けて家の中へと入ってくる過去の私の気配を察したために、その場から離れるしかなかった。
 このままでは沙織が朱梨を殺してしまう未来は変えられないだろう。
 いや、そもそもよく考えてみれば、あの夜リビングで殺されたのは本当に朱梨だったのだろうか。私は姉でありながらも妹の朱梨と沙織の入れ替わりに気付く事ができなかった。日中の明るい庭でも二人を見分けられなかったのなら、夜中の電気を付けていないリビングの中で二人を正確に見分ける事などできるはずがないのだ。
 現状において確定している事実は、このコイントスの結果で選ばれたのは朱梨の振りをした沙織である、その夜に朱梨と沙織のどちらかが殺される、というこの二点のみである。
 そう考えると、根本的に沙織が朱梨を殺す動機はない。何故なら、コイントスの結果で選ばれた沙織が朱梨に嫉妬する理由はなく、朱梨を殺したところで何の得もないからである。
 私は過去の記憶を今一度よく思い返して、夕食後に朱梨と話した内容、そしてあの夜リビングで聞いた二人の会話の内容に真相へと繋がる手掛かりはないかと探った。そういえば、さっきベランダの上から聞いた二人の話では「私達が入れ替わっていた事実を伝える」と言っていたが、過去の私はその話を一度も聞かされていない。
 それを踏まえた上で、夕食後に朱梨と話した内容を思い出すと、彼女がその事実をあえて黙ったまま私から言質を引き出して、『あのコイントスで選ばれたのは朱梨であり、それを姉である私も受け入れている』という既成事実を作り出そうとしていたように思える。そこから繋げて考えれば、あの夜にリビングでの二人の会話において、おそらく沙織のものと思われる発言の中に「だから、私が邪魔になったから消そうって訳ね」という言葉があったのも、なんら不自然ではないと頷ける。朱梨はこの日の一連の出来事を上手く利用して、自分で認めたように抜け駆けをし、姉である私を自分のものにするつもりだったのだ。これらの事を頭に入れてから過去を振り返れば、沙織が朱梨を殺したというよりも、朱梨が沙織を殺したという方が動機付けの観点から見てもしっくりくる。
 私は思い違いをしていたと悟り、多少の危険を犯してでも沙織に警告をしようと決めた。今日の夜中、沙織と朱梨が二人きりにならなければあの悲惨な未来を回避できるはずだ。
 夕食後、朱梨と過去の私が朱梨の部屋へ入ったのを確認して、私は沙織の自室へと入る。
 ノックも無しに入ってきた私に、沙織は驚いたようであった。
「あれ、お姉ちゃん、朱梨の部屋にいたんじゃないの? もう話は終わったの?」
 私は声量を抑えて会話をするように仕草で伝えてから、まず自分が未来からタイムスリップしてきた姉であると説明した。当然ながらそれでは信じなかったため、姉である私しか知らない妹の情報――例えば朱梨と沙織の背中には同じ位置に小さなほくろがある事など――を言い当ててみせて、「朱梨の部屋にも過去の私がいるから確かめてみる?」と提案すると、頭では拒絶しながらも心では信じてくれたようであった。
「未来の自分が過去の自分と出会ったら駄目なんでしょ? なら、別にそこまでしなくてもいいよ。それで、未来のお姉ちゃんが私に何を伝えに来たの?」
 私は隣の部屋で過去の私と朱梨が話している内容、それから今日の夜中にリビングで起こるであろう出来事の全てを包み隠さずにすっかり打ち明けた。沙織が朱梨に殺されるかもしれないとの話に差し掛かったところで、沙織は途端に顔色を変える。
「どうして、朱梨が……!」
 急に大声を出してきた彼女の口を、私は慌てて片手で塞いだ。
「静かに、隣には私と朱梨がいるんだよ? 今こっちに入って来られたら困るんだから」
 私は体の動きを止めて、朱梨の部屋に耳を澄ました。
 もしかしたら、沙織の大きな声と私の物音を聞いて不審に思った過去の私や朱梨が、こちらの部屋に入ってくるかもしれなかったからだ。しばらく待っても、朱梨の部屋から二人の出てくるような物音はなく、その心配はなさそうだと一安心した。
 私は彼女の口から手を離す。
「信じられないかもしれないけど、今ここに私がいるのはその事が原因なの。とにかく、私から言える事はただ一つ、朱梨と二人きりにならないようにして欲しい、それだけ。朱梨がどんな行動を取っても焦らなくていい、きっと明日になれば、全部上手くいくと思うから」
 沙織はしばし考え込むように黙った後、「分かった」と言って頷く。
「でも、嬉しいな。お姉ちゃんが私のために、私を助けるためにここまでしてくれたんだって考えたら、もっと好きになっちゃうよ」
 しおらしく上目遣いになった沙織を見て、私の心はつい揺れ動いてしまう。
「私と朱梨は二人で生まれてきたのに、どうしてお姉ちゃんだけは一人だったのかな。だけど私がお姉ちゃんの立場だったら、二人の内一人を選ぶ事なんてできない気持ちはちょっとぐらい分かるし、それだったらいっその事、私と朱梨が一人で生まれてくれば良かったのかもしれないね。そうしたら、お姉ちゃんもこんなに迷う事なんてなかったのに」
 その沙織の言葉には何も言わず、私は一言「今夜は気を付けてね」と伝えて部屋を出た。
 私は朱梨と過去の私に見つからないように残りの時間を過ごして、夜中の零時になる前にリビングのキッチンカウンターの奥にある物陰に隠れておき、沙織と朱梨が現れないようにとひたすら願うしかなかった。
 リビングの窓から滲み出す仄かな外の明かりでは、室内に充満する夜の不穏な暗闇を十分に照らし出す事はできない。何も起こらなくても不思議ではなく、その一方で何が起こっても不思議ではない、そんな音の消え入る夜中の零時を過ぎようとしていた頃の事だった。
 リビングの扉を開けて、二人の人影が入ってきた。
 朱梨と沙織であった。二人は室内の電気を点けないまま、キッチンカウンターの手前まで来ると向かい合って立ち止まり、何秒間かの沈黙を経て口を開く。
「こんな夜中に呼び出して、何の話なの?」
「どうしても、朱梨の口から聞いておきたい話があってね」
 あれだけ朱梨と二人きりになってはいけないと警告したのに、どうやら沙織の方から彼女をリビングに呼び出してしまったようであった。沙織は正義感が強いから、朱梨の思惑を知ってそれが許せなくなったのかもしれない。
 でも、この状況はもしかしたら、私が……。
「まず確認しておきたい事があるの。あの告白の時に二人で決めた話、覚えている?」
「えっ、う、うん」
「じゃあ、それを聞いたお姉ちゃんはなんて言ったの?」
「それは……、なんていうか、結果はどうであれ選んだ相手を変えるつもりはない、みたいな事を言っていたと思う」
「そう、じゃあお姉ちゃんは私達が入れ替わっていた事実を知った上で、私を選んだのね」
「違う!」
「違うって何が?」
「お姉ちゃんはこう言ったの、『朱梨を一番の恋人として絶対に幸せにする』って。そう約束してくれたんだから、お姉ちゃんが選んだのは私なの!」
「……はあ、やっぱり、そういう事だったのね。朱梨は今、私に嘘を吐いた。告白の時に私と朱梨が入れ替わっていた事を打ち明けて、告白そのものを無かった事にするよう、お姉ちゃんにお願いするって、そう私と決めていたのに。それなのに朱梨はそうしなかった」
「違う、私はちゃんとお姉ちゃんに話したの、それでも私を……」
「まだ嘘を吐くの? ちゃんと話したって、自分に都合の悪い事実をわざと隠したまま、お姉ちゃんが自分を選ぶように誘導した事が、ちゃんと話したって言えるの?」
「まさか、聞いていたの?」
「ふん、私が知らない訳ないでしょ? それにこれも聞いたわ、『朱梨が私を殺す』って」
「こ、殺す? そんな、私、そんな事は言ってない!」
「ええ、言う訳ないでしょうね。私が眠ったところで殺すつもりだったんでしょうし」
「待って、沙織、またいつもの悪い癖なんでしょ? 沙織が嫉妬深いのは知っているけど、さすがにそれは言い過ぎじゃない? 自分がお姉ちゃんに選ばれなかったからって……」
「いい加減にして! そもそもお姉ちゃんが選んだのは私でしょ!」
「ちがっ、お姉ちゃんは私を……」
「それはあんたが本当の事を隠して、そういう風にお姉ちゃんを騙したからであって、あの告白の時に選ばれていたのは私だったでしょ、って言ってんの!」
「でも、お姉ちゃんから見たら……」
「お姉ちゃんから見たら、何? あんたと私でどこか違うところでもあるの?」
 やっぱりそうだ。過去の私が体験したあの悲惨な未来、それは全て私自身のせいなんだ。
 過去の私が取った行動と、未来から戻ってきた私が取った行動を踏まえて、今日一日の流れを一つ一つ辿っていけば分かる事だ。玄関の扉が傘で開かなかったのも、コイントスの結果が表だったのも、沙織の部屋から彼女の叫ぶ声が聞こえたのも、そして朱梨と沙織がリビングで言い争いを始めるのも、全て私の選んだ運命だった。
 二人を止めようとしてもすでに手遅れだ。今この状況を見ているのは私だけじゃない。リビングの扉からこちらを覗き込むもう一人の私がいる。
「ほら、分かり切っているじゃん。だから、私が邪魔になったから消そうって訳ね」
「そんなつもりはないよ」
「じゃあ、どうして私に嘘を吐いたのよ! あんたはいつもそう、喧嘩すれば自分が被害者で私が悪者、お姉ちゃんにもそういう印象を与えるようにずる賢く立ち回ってばっか! 今回の事だって最初からそう企んでいたんでしょう!」
「分かった、私が抜け駆けをしようとした事は認める。でも、それ以上の企みなんてない。私が悪かったから、一旦落ち着いて、もう一度よく話し合おうよ? ねえ……」
 過去の私も、未来の私も思い違いをしていた。
 嫉妬に狂った沙織が朱梨を殺した訳でもなく、ずる賢い企みから朱梨が沙織を殺した訳でもない。そんな思い違いをした私が二人を精神的に追い詰めて、結果として沙織に朱梨を殺させてしまったのだ。沙織は何も悪くない。彼女は私のせいで自分が殺されると思い込み、朱梨の言動に怯えて、不意に手を伸ばして距離を詰めてきた朱梨がついに自分を殺しにきたのだと早とちりをしてしまい、咄嗟にキッチンカウンターの上にあった果物ナイフを掴み取って、ただ必死に自己防衛を行っただけであった。
 元を辿れば、そもそも告白の時に入れ替わっていた沙織と朱梨を見分けられず、二人の内どちらかを自分自身の言葉で選ぶ事のできなかった私が全ての元凶だったのだ。
「おねえ、ちゃん?」
 沙織がリビングの扉の方へと向かって歩み寄っていく。
 今の彼女はリビングの向こう側にいる私をどちらの私だと思っているのだろうか。過去の私か、それとも未来の私か。彼女は途中で片手に握っていた果物ナイフを落とす。
「ごめんね、お姉ちゃん、私、死にたくなかったの。死んだら、お姉ちゃんに会えなくなる」
 廊下にいる私は今、転んだ拍子に壁へと頭をぶつけて気絶している頃だ。
 今なら過去の私に見られる心配はない。この誤ってしまった運命にケジメを付けよう。
 私はキッチンカウンターから出て、床に落ちている血塗れの果物ナイフを拾い上げて、沙織の背後に忍び寄る。沙織との距離が後一歩のところまで近付くと、彼女の名前を呼ぶ。
 こちらを振り返った彼女の左胸へ、私は一思いに果物ナイフを突き立てる。
「大丈夫、私もすぐに沙織に追い付くよ。そして、朱梨にも謝って、今度こそ二人に告白の返事をする、ちゃんと自分の言葉で伝えるから。朱梨と沙織には、私の告白を聞いて欲しい」
 私の言葉が最後まで聞こえたのかどうかは分からない。
 沙織は安らかな笑みを浮かべて息を引き取った。
 最後に私は、朱梨と沙織の血を吸った果物ナイフを自分の左胸にさしこんだのであった。

                                       了 
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登場人物紹介

●清水葵(しみず あおい)……

 主人公。三姉妹の内の長女。妹思い。

 中性的な容姿と性格をしている。スタイルは平凡だが、要領が良く所作にキレがあるため、他人からは魅力的で恰好良い女性に映る。三姉妹の中で一番頭が良い。

●清水朱梨(しみず あかり)……

 ヒロインの一人。三姉妹の内の双子の妹。

 おおらかな性格。他人の過ちには寛容だが、自分の過ちには厳しい。料理上手。一人で抱え込む癖があり、一度そう思い込んだ事を簡単に変える事ができない。孤独と不安が苦手。三姉妹の中で一番女子力が高い。

●清水沙織(しみず さおり)……

 ヒロインの一人。三姉妹の内の双子の妹。

 嫉妬深い性格。自分の思い通りにならない事には不快感を示すが、変えようがない決定事項には従う。気配り上手。嫉妬深さから口や性格が悪くなる事はあるものの、実際の行動によって他人を危害を加えるような真似は絶対にしない。ただ、咄嗟の判断を苦手をしており、一度焦りを感じた時には冷静な対処をする事ができない事もある。三姉妹の中で一番手先が器用。

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