第1話
文字数 2,000文字
日本の最高学府の遺伝子研究を引き継いだベンチャー企業の研究室は、いつも信じられないほど騒がしく、研究室のイメージからはほど遠いが、盛んに意見を言い合うメンバーを主任研究員である私は好ましく思ってマネジメントしている。
夫は大手予備校の人気講師だが、授業はすべてリモートで行っていて、今は真鶴に住んでいる。
私は週末になれば東京を離れ、うきうきと真鶴まで彼に会いに行く。
シングルマザーの母は場末のスナックのママ、中二まではヤンキー爆発だった私が、どうしてこんな人生を歩んでいるかというと、それは今の夫の才能のおかげとしかいいようがない。
夫は人に勉強を教える天才だ。
真面目だがイケメンということでモテていた夫が私に告ってきたのは中二になったばかりの春だった。
いつもつるんでいた友人の沙雪ちゃんも初めての男ができて浮かれていたし、置いてきぼりになるのが嫌だった私はこの申し出を受け入れ、彼と付き合った。
「ずっと樹利亜ちゃんと一緒にいたいんだ。だから勉強して。一緒に東京の大学に行こう」
「マジすか」
呆れる私に彼は辛抱強く勉強を教え始めた。つまらないとすぐに投げ出そうとすると、絵の得意な彼は教科書や問題集にかわいらしい動物キャラをかきこんだりして私の関心をひいた。
また、意外にも演技派だった彼はこちらを泣き落そうとしたり、熱血に弁をふるったり、オネエのように振舞い私をディスったりして笑わせた。
私は呆気にとられたり、笑い転げたりしながら、勉強にのめりこんでいった。
学年でドべのトップ40に入っていた私が、彼と同じ県内トップの県立高校に合格したとき、彼は私にありがとうと頭を下げた。
ちょっと驚いて戸惑いと気恥ずかしさに襲われた私に彼は続けた。
「僕の親はいい大学を出て電力会社に勤めている。地方ではエリートだ。いい生活もできてる。だから、僕にも勉強しろと言った」
「いい親じゃん」
「うん、感謝してる。でも、僕は目標がないのに走り続けることに疑問を感じ始めていた」
「難しくなってきたぞ」
「もうちょっとだから聞いて」
「あい」
「樹利亜ちゃんのお母さんに言われて気づいたんだ。勉強をすることで、可能性が広がるってことに」
「ああ、あれか」
彼が塾の帰りに遊びに来た時、スナックを営業中だったママは二階の自宅でお茶を飲んでいた彼に丁寧に頭を下げた。
そして、この子の可能性を広げてくれてありがとう、この子にはこの小さな町を出て行っていろんなものを見てほしい、自分とは違う人生を歩んでほしいと思っていたけどやり方がわからなかったから、勉強を教えてくれた裕太郎くんにはほんとに感謝していると、泣きながら頭を下げたのだ。
急な母の登場、そして号泣にドン引きする二人。
酔っぱらっていた母はすぐに下のお店に戻った。私にとっては日常の風景だったが、まともな家に育った彼にはあれが衝撃だったらしい。
「僕は、樹利亜ちゃんみたく勉強ができるのに勉強が嫌いな子に勉強の楽しさを教えてあげたい。いろんなことをして、いろんな人と出会って、いろんな話をするために、いろんな知識が必要なんだ」
そんなもんかね~。
彼に出会わなければそう言って鼻で笑っていただろうが、今は彼の言っていることがわかる。
私は彼の目を見て、しっかりと頷いた。
「裕太郎、ありがとう」
西日のさしこんだ教室の隅で、にっこりと笑った彼の顔を今もまだしっかりと覚えている。
つらいときや投げ出しそうなとき、疲れ切ったときに何度も引っ張り出して、取り出して眺めた笑顔だ。
沙雪ちゃんから三女のことを愚痴るラインが入る。
あの子にも裕太郎君みたいな人がいたらねえ
裕太郎のこと、かっこいいけど地味で炭酸の抜けたサイダーみたいに甘ったるい男って馬鹿にしてたくせに
あんただって最初は言われたから付き合っただけだったじゃん
だから、何の話よ
沙理よ! あのヤリマン。一年に五人も男変えたのよ
あんたも高校のときは一か月ごとに男変えてたじゃん
やってない彼氏もいたもん。沙理は絶対に全員とやってる!
小さく笑ってスマホを伏せてデスクに置く。
今日も研究は進まない。
何年もかけて積み上げてきたのに、ひょっとしたら解は得られないかもしれないと不安になる。
不安は研究員を順番に蝕み、メンバーの誰かが常に不安定だ。それをケアするのも仕事。
管理職に就けば研究以外のことにも目を配らなければいけなくなる。
それでも私は投げ出さない。
勉強を教えてくれた彼に恩返しするために、誰かを救うための研究を私は続けていたいから。
Let's start study!
私に気合いを入れるように、自分を気合いを入れるように繰り返し言っていた彼の言葉が今日も私を鼓舞してくれる。
夫は大手予備校の人気講師だが、授業はすべてリモートで行っていて、今は真鶴に住んでいる。
私は週末になれば東京を離れ、うきうきと真鶴まで彼に会いに行く。
シングルマザーの母は場末のスナックのママ、中二まではヤンキー爆発だった私が、どうしてこんな人生を歩んでいるかというと、それは今の夫の才能のおかげとしかいいようがない。
夫は人に勉強を教える天才だ。
真面目だがイケメンということでモテていた夫が私に告ってきたのは中二になったばかりの春だった。
いつもつるんでいた友人の沙雪ちゃんも初めての男ができて浮かれていたし、置いてきぼりになるのが嫌だった私はこの申し出を受け入れ、彼と付き合った。
「ずっと樹利亜ちゃんと一緒にいたいんだ。だから勉強して。一緒に東京の大学に行こう」
「マジすか」
呆れる私に彼は辛抱強く勉強を教え始めた。つまらないとすぐに投げ出そうとすると、絵の得意な彼は教科書や問題集にかわいらしい動物キャラをかきこんだりして私の関心をひいた。
また、意外にも演技派だった彼はこちらを泣き落そうとしたり、熱血に弁をふるったり、オネエのように振舞い私をディスったりして笑わせた。
私は呆気にとられたり、笑い転げたりしながら、勉強にのめりこんでいった。
学年でドべのトップ40に入っていた私が、彼と同じ県内トップの県立高校に合格したとき、彼は私にありがとうと頭を下げた。
ちょっと驚いて戸惑いと気恥ずかしさに襲われた私に彼は続けた。
「僕の親はいい大学を出て電力会社に勤めている。地方ではエリートだ。いい生活もできてる。だから、僕にも勉強しろと言った」
「いい親じゃん」
「うん、感謝してる。でも、僕は目標がないのに走り続けることに疑問を感じ始めていた」
「難しくなってきたぞ」
「もうちょっとだから聞いて」
「あい」
「樹利亜ちゃんのお母さんに言われて気づいたんだ。勉強をすることで、可能性が広がるってことに」
「ああ、あれか」
彼が塾の帰りに遊びに来た時、スナックを営業中だったママは二階の自宅でお茶を飲んでいた彼に丁寧に頭を下げた。
そして、この子の可能性を広げてくれてありがとう、この子にはこの小さな町を出て行っていろんなものを見てほしい、自分とは違う人生を歩んでほしいと思っていたけどやり方がわからなかったから、勉強を教えてくれた裕太郎くんにはほんとに感謝していると、泣きながら頭を下げたのだ。
急な母の登場、そして号泣にドン引きする二人。
酔っぱらっていた母はすぐに下のお店に戻った。私にとっては日常の風景だったが、まともな家に育った彼にはあれが衝撃だったらしい。
「僕は、樹利亜ちゃんみたく勉強ができるのに勉強が嫌いな子に勉強の楽しさを教えてあげたい。いろんなことをして、いろんな人と出会って、いろんな話をするために、いろんな知識が必要なんだ」
そんなもんかね~。
彼に出会わなければそう言って鼻で笑っていただろうが、今は彼の言っていることがわかる。
私は彼の目を見て、しっかりと頷いた。
「裕太郎、ありがとう」
西日のさしこんだ教室の隅で、にっこりと笑った彼の顔を今もまだしっかりと覚えている。
つらいときや投げ出しそうなとき、疲れ切ったときに何度も引っ張り出して、取り出して眺めた笑顔だ。
沙雪ちゃんから三女のことを愚痴るラインが入る。
あの子にも裕太郎君みたいな人がいたらねえ
裕太郎のこと、かっこいいけど地味で炭酸の抜けたサイダーみたいに甘ったるい男って馬鹿にしてたくせに
あんただって最初は言われたから付き合っただけだったじゃん
だから、何の話よ
沙理よ! あのヤリマン。一年に五人も男変えたのよ
あんたも高校のときは一か月ごとに男変えてたじゃん
やってない彼氏もいたもん。沙理は絶対に全員とやってる!
小さく笑ってスマホを伏せてデスクに置く。
今日も研究は進まない。
何年もかけて積み上げてきたのに、ひょっとしたら解は得られないかもしれないと不安になる。
不安は研究員を順番に蝕み、メンバーの誰かが常に不安定だ。それをケアするのも仕事。
管理職に就けば研究以外のことにも目を配らなければいけなくなる。
それでも私は投げ出さない。
勉強を教えてくれた彼に恩返しするために、誰かを救うための研究を私は続けていたいから。
Let's start study!
私に気合いを入れるように、自分を気合いを入れるように繰り返し言っていた彼の言葉が今日も私を鼓舞してくれる。