プログラムド・ラヴ

文字数 6,354文字

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 プラチナにも似た光を放つ涙を落ち窪んだ目尻から伝わせ、ぼくの奥さんは死んだ。五年も前のことだ。三十(さんじゅう)で亡くなった。胃癌と懸命の命のやり取りをした結果だった。医者だってぼくだって、できるだけ手を尽くしたし、またそうだって信じているのだけれど、結局のところ、「幸せだったよ」という一言が、奥さんの最後のセリフになってしまった。「幸せだったよ」という言葉は忘れられないものになった。「幸せだよ」ってもっともっと言ってほしかった。「幸せだよ」ってたくさん伝えてあげたくもあった。ぼくはそれくらい彼女を深く想っていたし、未来永劫そうなんだって疑いもしなかった。その気持ちはいまも変わらない。

 だからこそはかないんだ。せつないんだ――(さき)。ぼくの寿命の一部を、あるいは半分を――いや、すべてをきみに捧げることができたのであれば、それはそれでちょうどよく、帳尻が合って具合もよかった。ぼくにはその選択肢すらもたらされなかった。だからこそ悔しいと思うんだ。ほんとうにぼくはきみになにもしてあげられなかった。きっとそうだ。そうなんだよね? むしろそうだって言ってほしい。なにを言っているのかわからないよね? わかりづらいよね? ぼくにもよくわからないんだ。いまでもぼくの心の中はそんなふうにぐちゃぐちゃごちゃごちゃしていて、あるいはなにかがくすぶっていて、その思いに決着をつけかねているんだ。情けないよね、ほんとうに。

 とにかく恋しいよ、咲。だからこそぼくは、ぼくにやれることをしようと考える。ぼくにできることは限られていて、だからこそ、やってみようと思うんだ。誰のためにでもない、ぼく自身のために。


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 ぼくは多くの時間を奥さん――咲にまつわることに使うようになった。ぼくは咲がぼくの前にまた姿を現してくれることを願っていて、だから彼女のことを「つくりたい」だけだ。作るんだ。創るんだ。そこには自慰的な意味合いしかないのかもしれない。だけど、とにかく幸せだった日々を取り戻したい。その行為は誰にも否定させない。奥さんに先立たれた。だったらフツウ、生き返ってほしいって思うよね?


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 うまく製造するヒトたち――その道のプロにお願いして、生前の写真とぼくの印象から、咲にそっくりのアンドロイドを作ってもらった。フツウなら脳を司る部分までをも仕上げてもらえるのだけれど、というか仕上げてもらうのが一般的なのだけれど、その必要はないとぼくは断った。じつは個人でアンドロイドのインプット作業をするのは、人権団体の強力さもあって、法律的にグレーの部分もなくはない。でも、咲に殊の外似せたボディを手に入れることができた以上、ぼくは彼女を自分の手でいじりたかった。


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 ぼくは「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤をくり返し、ときに後頭部をがしがし掻きむしりながら――だけどすぐに冷静になって、ベッドに横たわっている「SAKI」の頬を撫でる。SAKI。ぼくが二人目の「咲」につけた名だ。固有名詞がないよりはあるほうがいいと考えた。そんなのあたりまえだ。名前を持たない個なんて悲しすぎる。そんなのあってはいけないとすら思う。だから、SAKI。ぼくが最もきれいだと考える単語、名前、言葉の並び。


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 その日、今日も今日とてパソコンを操作していると、すぐそばのSAKIが起き上がった。ベッドの上でゆっくりと上半身を起こしたのだ。ぼくは「わっ」と驚いた。「そのうち動くはずですよ」と業者のニンゲンが言っていたとはいえ、まさかほんとうにそうなるとは正直思ってもみなかった。SAKIは裸だ。そのボディは皮膚からして人工物だ。けれど、ぼくは顔を覆ってしまう。アンドロイドとはいえ女性の身体をしげしげと見つめることなんてなかったんだ。だからとにかく恥ずかしい。赤面した。顔から火が出るとはこのことだ。タオルケットでせめて胸を隠してほしいとお願いした。

 SAKIが唐突に、「あなたはムゥ様ですね?」と言った。溶けた氷のように滑らかで、ガラスみたいに透き通った声。そういえばぼくはムゥだったなと思い出した。

「うん、ムゥだけど、それがどうかした?」
「ムゥ様、あなたご本人が、私にプログラムをされたのですね?」

 SAKIのためにパソコンを使い倒していたことは事実だ。なので、彼女が言うことはごもっとも、疑う余地のない正解だ。ただ、うまくできたかどうかはわからない。だから「答え合わせ」をしてみないことにはなんとも……。
 
「なにか不具合とか、不愉快なことはある?」
「不具合? そして不愉快? あるはずが?」
「えっ、そうなの?」ぼくは目をしばたいた。「ごめん。ぼく自身、きみみたいなヒトに巡り合うのは初めてで、だから至らない部分は少なからずあると思うんだ。だからえっと、ほんとうにごめん」

 するとSAKIは目を丸くして。「それは誤解です。とりあえず、私はご主人様のことが嫌いではありません」と言った。ならよかったと、ひとまずぼくは胸を撫で下ろした。

「SAKIはどうして自分がSAKIなのか、わかる?」
「ですからわかります。それもこれも、ご主人様のおかげです」
「ご主人様はやめてほしいな」ぼくは苦笑した。「だって、ご主人様じゃないんだから」
「でしたら、私にプログラムしていただいたことと、齟齬が生じます」
「えっ、そうなの?」
「私はあなたの奴隷ですから」
「だったらぼくのミスだなぁ」
「でも、それが真実です」
「困ったなぁ」

 SAKIは肩をすくめ、小さく笑った。「ですけど、ご主人様がご主人様らしくあられるのだとすれば、私はご主人様のことを、もっと適切に思うかもしれません」

「ほんとうに?」
「はい。間違いありません」

 なにかがうまく回るとか、そんなことがわかったはずでもないのに、ぼくはうれしくて、それはもう気持ちのいいくらいばんざいをした。


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 SAKIをあちこちに連れて歩いた。まずは目新しいところからということで劇薬のような銀座に連れて行った。スカイツリーなんかにものぼり、かと思えば赤い電車に端から端まで乗ってみた。彼女は横浜が好きだと言った。どうしてかと訊ねると「山下公園がきれいだから」という案外ミーハーな答えが返ってきた。その夜は近くのホテルで一緒になって眠った。セックスはしなかった。それでよかった。どこに行くのも楽しいとSAKIは言ってくれた。ときに破顔してくれた。ほんとうに、幸せを感じたんだ。


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 夫婦になるための届け出を大田区の役所に提出した。アンドロイドとの結婚が認められている昨今だ。だからなんの問題もなく手続きは完了した。

 さまざまな事情があって、テレワークが推進されている世の中だ。ぼくもその恩恵に与かる格好で家で絵を描いたり物を作ったりしている。どうしてこれまでわざわざ出社していたのだろうと不思議になるくらいフツウに暮らしてる。じゅうぶんにやっていけるだけの稼ぎも得られている。個人事業主に転職しようかと考えているくらいだ。


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 ダイニングテーブルを挟んで向かい合い、今夜は珍しく宅配のピザなんかを食べている。ぼくが「おいしいね。たまにはこういうのもいいね」と言うのを聞いて、そしたらSAKIが「いま、とても考えているの」などと言った、どこか浮かない顔をして。

 気も心も小さなぼくは、その声色と表情だけでそれなりにどきりとして、だから「な、なにを考えているの?」とどもってしまった。

「私はあなたにふさわしくないと思う」
「そんなことないよ。実際、ぼくはきみがいるだけで幸せ――」
「それって、ほんとうの幸せ?」
「そうだよ。ぼくはきみがいるから幸せなんだ」
「だったらお願いよ、ムゥ。私をいじって」
「な、なんの話?」
「私はいま、あなたのことが、好きじゃない」

 全身が粟立ち、背筋を冷たいものが滑り落ちた。

「そんなこと、言われたって、ぼくは――」
「あなたは私に肝心なプログラムを投じていない」

 そのとおりだ。どうしてもできなかった。踏みとどまるしかなかった。それだけはいけないと思った。それだけは自然と生じなければならない感情だと考え、だからその部分についてはノータッチだ。触れてはいけない部分だろう? そんな操作、あってはならないことだろう?

 その旨を伝えた。
 SAKIは苦笑のような表情を浮かべた。

「プログラムって便利よね。心からそう思うわ」
「それはそうかもしれないけれど……ぼくの気持ち、わかってもらえないかな?」
「わかるわよ。あなたが苦しんでいることも理解できる」
「きみは苦しんでいないの?」
「心苦しくは思ってる。でも、それ以上の感情はないわ」
「そう……」
「おかしいわよね。いまのままだと、私はあなたの望む私にはなれないんだから」
「……だよね」

 SAKIが見せたのは明らかな憐れみの顔。

「きっとね、私は欠陥品なんだって思うの」
「そんなことないと思うけど」
「でもだって、ふとした瞬間に、あなたのことを忘れそうになるもの」
「そうなの?」
「そうなのよ」SAKIは悲しげに眉尻を下げた。「くり返すわ。あなたがこのままでいるということは、私もこのままでいるということよ」
「悲しいことを言うんだね」
「事実だから」
「うん、うん、それはそうだよね」
「そうなの。ほんとうにそうなの」

 ぼくの内面はどろりと溶けた悲哀で満ちた。だけど次の瞬間にはパッとひらめき、思い切ってSAKIのことを試してみようと考えた。すべては彼女のために――そのくらいの強い意志を持った行動だ。「ひどいことをするかもしれないよ?」と訊いたら、「それでもいいわ」と答えた。つらい、つらいから、でも、ぼくは右手で口元を押さえることで涙すらも抑え込もうとした。

「ぼくはもうたくさん失ってきたつもりなんだけどなぁ」
「あなたの頭上に輝く星が卑劣さを増していることは認めるわ。だけどあなた個人は死んでいない」
「うん、うん……」
「決断してね、ムゥ。私はあなたが大好きよ」

 SAKIは「好きじゃない」と言ったいっぽうで、「大好きよ」とも言った。
 激しく矛盾している。
 揺らぎのようなその思考に、彼女自身は気づいているのだろうか。


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 ぼくはプログラムを書いた。悲しい。だけど、迷うのはよくない。もう決めたことだ。ぼくはSAKIにプログラムを流し込んだ。ベッドに横たわる彼女――そのうなじのジャックに有線で接続し、プログラムを投入した。彼女はセックスのときみたいに「あっ」と官能的な声を漏らし、身体をびくんびくんと跳ねさせた。


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 次の日の朝のことだ。ぼくよりも先に起きていたSAKIが、キッチンに顔を見せたぼくに微笑み言った。

「こんにちは、ご主人様」

 SAKIのぼくに対する優先度を著しく下げた。
 反対に、ぼく以外の異性への優先度を上げた。

 これがその結果だというわけだ。


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 ぼくはSAKIと別れることを決めていた。お手伝いさんみたいに扱うつもりはないからだ。言い方はアレなのだけれど、里親を見つけるような感じで、SAKIのもらい手を見つけようとした。

 まもなくして、大きな家の子息のお嫁さんになることが決まった。SAKIがとてもよくできた女性だからだ。先方の一目惚れでもあった。そこにヒトやアンドロイドといった区切り、垣根、境界線はない。最近のアンドロイドは物をよく学ぶと評判だ。SAKIもご多分に漏れずで、実際……うん、ほんとうに魅力的な女性なんだ。


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 SAKIと過ごす最後の夜。SAKIはぼくの好きなものばかりをこしらえてくれた。でも、それもすべて、「お世話になったから」程度の意味しかないはずだ。SAKIはもはやぼくに対してなんの感情も抱いていない。ぼくがそうプラグラムを書いたのだから。

 ぼくがシャワーから出てくると、SAKIはもうベッドで眠っていた。最後の夜なのにこんなものかとひそかに笑いたくなったけれど、それもいいよねとキツいながらも割り切り、受け容れた。

 せめて安らかなその寝顔を、目に焼きつけておきたい。

 そんなふうに思いながら、冷蔵庫から缶ビールを持って来た。壁に背を預け、飲むと、喉の奥で細かい泡が弾けた。SAKIに目をやる。ほんとうに安らかな寝顔。

 ――ぼくは癌だ。胃癌だ。奇しくもかつての奥さんと同じ病気にかかった。ステージ4を宣告されたのはずいぶんと前のようであるような気がするけれど、意外と時間は経っていない。患部であろう箇所がひどく痛むようになったのは気のせいかな? 病状については両親にだけ伝えた。SAKIが望めば、彼女も知るところになるだろう。長患いはしたくない。そんなの誰も望まないし喜ばない。ぼくの人生だ。だからぼくが決める。


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 ぼくと結婚した実績があるから、SAKIはバツイチになってしまったわけだけれど、先方との結婚式はそれはもう盛大に営まれた。ヴァージンロードを歩かせてもらったのはぼくだ。どうあれぼくだ。それはもう誇らしい気持ちにさせられた。SAKIはとても晴れやかな顔をして、ぼくに「ありがとう」を言ってくれた。白亜の建物。天窓から差し込む白い光。純白のウエディングドレス。SAKIが新郎と誓いのキスをする場面を見て、ぼくは誰よりも大きな拍手を送った。悲しくなんてなかった。虚しくもなかった。ほんとうによかったなとだけ思ったんだ。


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 その夜、ぼくは包丁を使って首筋を掻っ切った。


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 彼が死んでも悲しくなかった。
 お世話になっていたような感覚はあるけど、それ以上の感情は芽生えなかった。
 自分はなんて冷たいのだろうくらいは思ったけれど、事実を受け容れることは難しくなかった。
 
 なのにだ。ある日突然、キツくなり、心が引き裂かれるような思いに駆られ、ふとした瞬間に嗚咽が止まらなくなり、周りを心配させた。心配させたけれど、仕事に向かう夫のことは柔らかに丁寧に見送った。それだけは心掛けたし、そうでなければいけないと思った。

 だけどそのとき、その日だけはどうしようもなくなり、私は着の身着のまま涙も拭かず、つっかけのまま家から飛びだした。泣きじゃくりながら走った。誰かに手を引かれ、誰かに背を押されるようにして、走った。

 ムゥ、ムゥ、ごめんなさい。
 ごめんなさい、ムゥ。

 私、気づいたよ?
 ちゃんと、気づいたよ?
 あなたが好きだって、気づいたよ?


*****

 ムゥの家のお墓。花は買ってこなかった。そんな場合ではなかった。そもそも財布なんて持ってはいない。

 白い墓石を眺めていると、いよいよ涙が止まらなくなった。

 わかってる、いまならすべてがよくわかるよ、ムゥ。
 あなたは私に「愛」をプログラムしたんだね。
 でも、その対象から自分だけは省いたんだ。

 ねぇ、ムゥ。
 どうしてそんなことをしたの?
 癌を患っているからそんな真似をしたの?
 長く生きられないからって、私に気を遣ったの?

 きっと、そう、そうだよね。

 だけど、そうだとしても、とても悲しすぎるよ。
 どう考えたって、とってもとっても、悲しすぎるよ。

 胸の痛みに堪えかねて、私はその場に両膝から崩れ落ちた。なにせ私はアンドロイドだからと思い、「壊れてしまえ、壊れてしまえ」と自分の頭を両手でしっちゃかめっちゃかにぽかぽか叩いた。

 でも、次の瞬間、機械仕掛けの私にも思い出があることに気がついたから。
 その思い出を失っていいわけがないと強く思ったから。

 ぐしゃぐしゃの顔のまま、青い空に向けて、「ありがとう!」と叫んだ。天国のムゥは笑ってくれただろうか。ううん、優しいあなたなら笑ってくれるはず――だよね?
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