第1話

文字数 1,999文字

 ツジモトカツヒコ様
 いつも楽しくラジオを聴いています。ラジオネームを「3月ウサミ」と申します。
 次回、山崎ひばりさんのリクエスト特集をやっていただけるということで、今まで送ったことはなかったのですが、初めてメールします。
 実は私は、ひばり先輩の高校の合唱部の後輩の者です。
 ひばり先輩は、私より学年がひとつ上で、三年生の時にソプラノのパートリーダーを務めていました。
 カツヒコさんが、今日の放送でひばり先輩の歌声をとてもとても褒めてくださって、自分のことのように嬉しいです。
 本当にありがとうございます。

 リクエストする曲は、先輩の数あるヒット曲ではなく、カバーアルバムにおさめられている「Java jive」という曲です。
 この歌には個人的にとても思い入れがあるのです。この思いを伝えたくて、勇気を出してメールを送ることにしました。

 高校時代に、私は一度だけひばり先輩と一緒にお出かけをしたことがあります。
 先輩とは読書の趣味が似ていて、まだ肌寒い春の日曜日に、二人が好きな作家の新刊の小説を買いに渋谷に行きました。
 ちょうど作者による発売サイン会があるということで行ったのです。
 無事に小説を手にして、作者の方にサインもしてもらった後、私たちは、先輩のお気に入りだというレストランで昼食にオムライスを食べました。
 オムライスはドリンクとセットになっていて、先輩はコーヒーを、私は紅茶を頼みました。
 オムライス(とても美味しいオムライスでした)を食べ終わると、コーヒーと紅茶が運ばれてきました。
 先輩は砂糖もミルクも入れずにカップを口元に運び、一口飲みました。
「先輩、コーヒーはブラックで飲むんですか?」と私は尋ねました。
 先輩のいつもふわふわした優しい雰囲気と、ブラックコーヒーが持つ大人のイメージとにギャップを感じて思わず訊いてしまったのです。
「うん。」と先輩は可愛らしく頷きました。そして、「「3月うさみ」ちゃんはお砂糖とミルクを入れるの?」と私に尋ねました。
「私、コーヒーを飲んだことないんです。お子ちゃまなんで。」と私は少し恥ずかしかったので茶化して答えました。
 先輩は優しく微笑んで、私に向かって「じゃあ、一口飲んでみる?」と言って、カップがのったソーサーを私の前に置きました。
 私は、先輩が飲んだカップに口をつけるという行為にドキドキしながら、カップを持ち、口をつけて、コーヒーを一口飲みました。
 口の中にとんでもない苦味が広がって、私は慌てて飲み干しました。あまりに慌てたので、おもわず咳き込んでしまいました。
「大丈夫?」と先輩は私の顔を心配そうに覗き込みました。
「大丈夫です。」と私は恥ずかしさに顔を赤くしながら答え、カップをソーサーにのせて先輩に返しました。
「どうだった、初めてのコーヒーの味は?」と先輩が私に尋ねました。
 正直に苦くて美味しくないと言うわけにもいかず、私は一言「すごい味。」と答えました。
 先輩は私の答えにクスクス優しく笑いながら、「ごめんね、無理に飲ませてしまって。」と謝りました。
 私は素直に「私はコーヒーよりも紅茶の方が好きみたいです。」と言いました。
 すると先輩は小声で私だけに聞こえるように歌を口ずさみました。
 I love coffee, I love tea.
 I love the java jive, It loves me.
 Coffee and tea and the java and me.
 A cup, a cup, a cup, a cup, a cup, boy.
 先輩は綺麗な声でその一節を歌い終えると、「私たちの歌だね。」と言って微笑みました。
 そして、その歌は「Java jive」というアメリカの昔の歌だと教えてくれました。

 この歌、「Java jive」はひばり先輩が歌うカバー曲を集めたアルバム「マイ・フェイバリット・ソングス」の中に入っているのですが、そのライナーノートには先輩の文章でこう書かれています。
「この歌を歌うと、高校の後輩と一緒に渋谷に行った時に飲んだコーヒーのことを思い出します。コーヒーを飲めなかったあの子は飲めるようになったかな?」
 私もこの歌を聞くと、あのレストランで飲んだコーヒーの苦味、そして先輩が優しい笑顔で私に向かってそっと歌ってくれた素敵で贅沢な時間のことを思い出します。そして、あの瞬間が如何に奇跡的で美しい時間だったったのかということを思い、涙が溢れてきます。
 ひばり先輩が亡くなって、もう3年になりますね。
 今でも、先輩のことを忘れずに好きでいてくれる人がたくさんいて、こうして先輩の歌声が聴けるということを心の底から嬉しく思います。今回の特集を本当に感謝して、楽しみにしています。ありがとうございます。
 ちなみに、私、コーヒーは未だに飲めません。ひばり先輩、ごめんなさい。
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