第1話 橋本良子の話
文字数 4,997文字
「なんで怒ってるの?」と彼が尋ねる。
「そりゃあ、怒るわよ。」と彼女が答える。「なんで私じゃなくて妹に会うわけ?」
「妹って、里佳子ちゃん?」
「そう。今日、渋谷で里佳子に会ったんでしょ。」彼女はテーブルの向かいの席に座っている彼を睨む。
「渋谷で?」
「そう、里佳子が、今日、渋谷のタワーレコードで偶然会って、e&iでおごってもらったって言ってたよ。」
e&iというのは二人がいる渋谷のこの小さな洋食屋のことだ。彼女の前にはロイヤルミルクティーが、彼の前にはコーヒーが置かれている。彼女が頼んだオムライスはまだ来ない。
「里佳子ちゃんには会っていないけど。」彼は困惑した表情を浮かべながら静かにそう言う。そしてコーヒーを一口飲む。
「本当に?」と彼女は彼に尋ねる。そして急に悲しくなる。
「だって、僕が里佳子ちゃんに会っていないことは君が一番良く知っているでしょ。」と彼は優しく言う。
「…うん。」と彼女は答える。「でもね、でも、ひょっとしたら、会ったかもしれないと思ったの。」
「そう考えるのは君らしいけどね。」と彼は笑いながら言う。
「でも、なぜ里佳子はあなたに会ったなんて嘘をついたのかしら。」
「詳しく話してよ。」と彼は彼女に言う。
「うん。大丈夫。ありがとう。それじゃあ。」
電話の受話器を置いた、ちょうどその時、妹の里佳子が「ただいま。」と言いながら、玄関の扉を開けて入って来た。
彼女は「おかえり。」と声をかけた。
里佳子は靴を脱ぎ、左手に持っていたロフトの大きな黄色い紙袋を下に置くと、彼女に近寄ってきて、「ただいま、きんたろー。」と嬉しそうに言いながら優しく抱きついた。
「だから、それ、止めてよ。」
「つまんなーい。」と里佳子は不服そうに言って、2階の自分の部屋に行くために階段の一段目に足をかけた。
「ちょっと、これ忘れてるよ。」彼女は里佳子が置きっぱなしにしていたロフトの紙袋を持ち上げ、妹に渡そうとした。
「おっと、危ない。」里佳子は紙袋を受け取ると、にっこり笑って彼女にこう言った。
「あのね、今日、辻本勝彦君に会ったよ。」
「え。」びっくりして息がつまった。
「渋谷のタワーレコードで偶然会って、オムライスをおごってもらっちゃった。」
「渋谷って、e&iで?」
「そう、お姉ちゃんの言った通り、オムライスが本当においしかったよ。チキンライスの鳥肉も大きくて。」
「…そう。」彼女は考え込みながら答えた。そしてこう尋ねてみた。
「元気そうだった?」
「うーん、そうだね、元気だったよ。」と里佳子はクスクス笑いながら言った。「とっても。」
そう言って、里佳子は紙袋を上機嫌で振りながら、階段を上がっていった。バタンと部屋のドアを閉める音が聞こえた。
残された彼女はポカンと階段の上を見つめた。
そんなことはあるはずがなかった。
妹が辻本勝彦に会うはずがなかった。
何故なら。
「僕はもう死んでいるからね。」と彼女の目の前にいる彼はつぶやく。
「…うん。」と彼女は言う。
「もう、ずいぶん経つね。10年か。」彼は静かに言う。
「ひどいよね。私をあんなに泣かせて。」
「ごめんね。」と彼は言う。「本当にごめんね。」
彼女はまた悲しくなる。そしてわざと明るく言う。
「だから、幽霊のあなたが現れたと思ったの。」
「君らしいね。」と彼は微笑む。「でも、違う。」
「ねえ、3人で多摩動物公園に行ったこと、覚えてる?」と彼女は懐かしくなって彼に尋ねる。
「うん、覚えてるよ。里佳子ちゃんにすごく懐かれた。」
「勝彦君のズボンにずっと巻き付いていたものね。あれから私に1週間くらいずっと動物園が楽しかった話をしていたんだよ。」
「ああ、そう言ってたね。」
少しの沈黙の後、彼が彼女にこう尋ねる。
「ひとつ確認しておきたいんだけれど。里佳子ちゃんは僕が死んでいることを知らないんだね。」
「うん、言ってない。あなたが死んだ時、あの子は小さかったから言えなかったの。喧嘩してお別れしたことにしたの。」
「ふむ。」
「あの時、あの子、怒っちゃって、しばらく口をきいてくれなかったのよ。」と彼女は言う。
「僕が振ったことになってるの?」
「まさか。」と彼女は言う。「私が振ったの。だから、怒られたの。」
「なるほど。僕に対してはそんなに悪いイメージはないわけだ。」
「うん。」
「それじゃあ、やっぱり、里佳子ちゃんは嘘をついていないんじゃないかな。」
「え。どういうこと?」と彼女は尋ねる。
「つまり、君の謎を作ったのは君の嘘ということ。」
「どういうこと?」
「彼女は辻村勝彦に会ったと言ったんでしょ。」
「でも、あなたは会ってないんでしょ。」
「僕は会ってない。」
「だから、あの子が嘘をついたんでしょ。」
「いや、里佳子ちゃんは君を驚かすためにわざと本当のことを言ったんだと思う。」
「本当のこと?」
「そう、本当のこと。あの時と一緒だよ。人面犬の時と。」
「人面犬の時? 」彼女は考える。
「あ。」彼女は思い出す。
彼女の頼んだオムライスはまだ来ない。
「人面犬?」
「そう、めちゃくちゃ怖かった。」
クラスメイトの猫田しのぶが人面犬を見たと彼女に言ったのは、高校一年生の4月の昼休みの人影まばらな教室でのことだった。二人でお弁当を食べ終わった後に、しのぶが彼女に突然その話を始めたのだ。
「嘘でしょ。」
「昨日の夜中に本当に見たんだもの。」
「あたしをからかってるの?」
「ねえ、りょーちん。」としのぶは真面目な顔で彼女を見つめた。「私が中学校の時からの大親友に嘘をついたことがある?」
「結構ある。」
「そうそう、何度もだましてゴメーンねって、コラ!」
「結構、私、しのぶちゃんに嘘つかれてる。」
「でも、これは本当。人面犬を見たの。お願い、信じて。急に街角から、口ひげを生やした男の人の顔をした犬がひょこひょこ出てきたの。すごく怖かった。」
「本当なの?」彼女はだんだん怖くなってくる。本当なのかしら。
「僕も昨日の夜、その人面犬、見たよ。」
その時、よく通る声が教室の後ろの方から聞こえてきた。二人が振り向くと彼女たちの席の列の一番後ろの席に座っている男の子がニコニコ笑っている。
「辻本…。」としのぶが小さい声でつぶやく。
その男の子、辻本勝彦は二人と同じ中学校の出身だった。彼女は同じクラスになったことはなかったが、しのぶとは小学校の頃からの同級生で、彼女の家の近所に住む幼馴染だった。
二人は昨日の夜一緒にいたのかしら。何故だか彼女の胸がキュッとなった。
「あれ、何なの。」としのぶが彼に尋ねた。
「人面犬。」
「そうだけど、なんで、ああなったの。」
「それは、つまり、本来はひとつの生物に寄生して複製するんだけれど、誤って人間と犬の両方に寄生してしまったので合わさって複製されてしまったからでしょ。」
「ふーん。」
「なんだ、あの前は見ていないの。」
「見てない。たまたま見て、気持ち悪かったんですぐ消した。」
「何の話?」彼女はしのぶに尋ねる。
「辻本はオタクだっていう話。」としのぶがそっけなく答えた。
「どういうこと?」
「ねえ、橋本さん。」と彼は彼女に声をかける。
「…なに。」彼女はドキドキしながら答える。
「問題です。全く別の場所にいる二人が同じ時刻に同じ人面犬を見ました。なーぜだ。」
答えはすぐ分かった。
「あ、テレビで見たんだ。」
「あーあ、つまんない。」としのぶが不平を口にした。「せっかく、りょーちんを驚かせようと思ったのに。」
「こんなことで橋本さんは驚かないよね。」と彼は彼女に言った。
「驚くのよ、この子は。」としのぶが言った。
それは本当だよ、辻本君、と彼女は思った。
「あれは、テレビで深夜にやっていたSF映画の中に出て来たんでしょ。」
「そう、フィリップ・カウフマンの『ボディースナッチャー』。宇宙からの寄生生物が人間の体をのっとっていく話。その中に人面犬が出て来たのを、猫田がテレビでたまたま見た。」
「あの時、しのぶちゃんは確かに嘘をついていなかった。」
「でも、テレビで見たという事実はわざと伝えなかった。」
「里佳子も私にわざと伝えていないことがあるということ?」
「さっきも言ったでしょ。君の謎を作ったのは君の嘘だって。整理してみるとこういうこと。つまり、僕は死んでいるが里佳子ちゃんはそのことを知らない。里佳子ちゃんは辻本勝彦に会ったが、僕は彼女に会っていない。そこから導き出されるのは。」
彼女は考える。そして理解する。
「え、嘘でしょ。」
「いや、多分、それが答えだ。」
「つまり」と彼女はゆっくりと言う。「辻本勝彦という人があなたの他にもう一人いるということ?」
「うん、そこまで珍しい名前じゃないと思うけどね。」
「渋谷のタワーレコードで会ったというのは偶然?」
「おそらく。」
「でもでも、このe&iに里佳子を連れて行ったのはおかしくない?」
「その人が連れて行ったんだっけ。里佳子ちゃんが言ったのはご馳走してもらったということでしょ。」
「うん。」
「ご馳走してもらったということは連れて行ったということじゃない。里佳子ちゃんに僕と一緒にe&iに行ったって言ったことはないの?」
「…多分、ある。」
「彼女がe&iに連れてきて、そのもう一人の辻本君におごってもらったんじゃないの。」
「なーんだ。」彼女は納得する。
「要するに、君が言わなかったことと、里佳子ちゃんが言わなかったことが重なって謎が作り出された。」
「名探偵の名推理ね。」
「そんなたいしたもんじゃないよ。では、謎が解けたところで。」
そう言って彼はカップに残っていたコーヒーを飲み干す。
「もうそろそろ起きる時間だよ。」
「え、でもでも。」と彼女は言う。「まだ、オムライスが来てないもん。」
「やれやれ、夜中に食べると太るよ。」
「むう。」と彼女はむくれる。「平気だもん。」
「里佳子ちゃんと食べに行きなよ。もしくは、」彼は笑いながら言う。「旦那さんと。」
「あなた以外の人と行ってもいいの?」彼女はおそるおそる尋ねる。
「勿論。」と彼は微笑む。「美味しいものは好きな人と食べるのがいいのさ。」
彼女も微笑む。
「生まれてくる君の娘が大きくなって一緒に行くのもいいね。」
「女の子かしら。」
「女の子だよ。」
「里佳子が男の子が生まれたら、金太郎という名前にしようって言うの。」
「大丈夫だよ。女の子だから。」
「良かった。」
そして、彼女はふと思う。「ねえ、里佳子はもう一人の辻本勝彦君のことが好きなのかしら?」
「さあ、どうだろう。起きたら訊いてみたら。」
「うん、そうする。」
「それじゃあ、お別れの時間だ。」彼は言う。「おはよう。」
「ふふ、おはようが別れの言葉なの。」
「ああ、悪くないだろ。」
「うん、悪くない。」
「おはよう。」と彼は言う。「おはよう。良子。」
目が覚める。
朝の光がカーテンの隙間からもれてくる。時計を見るとまだ6時前だ。不思議だなと良子は布団をひきつけ、天井をぼんやり見ながら思う。
夢の中だけでも会いたいと思っていた時には一度も現れず、それから何年もたって、結婚して、妊娠して、子供を産むために実家に戻ってきた時に昔の恋人の夢を見るなんて。
きっと、里佳子は笑いながら言うのだろう。昨日はびっくりした?本当はね、私が会った辻本勝彦君っていうのはね…。
良子はもう一人の辻本勝彦君について考えてみる。どんな男の子だろう。里佳子の大学の同級生なのだろうか。私の辻本君よりかっこよかったら、ちょっと嫌だな。そう考えてクスクス笑った。
そして10年ぶりに渋谷でオムライスを食べようと思った。夢の中で食べそこなったあのオムライスを。
「そりゃあ、怒るわよ。」と彼女が答える。「なんで私じゃなくて妹に会うわけ?」
「妹って、里佳子ちゃん?」
「そう。今日、渋谷で里佳子に会ったんでしょ。」彼女はテーブルの向かいの席に座っている彼を睨む。
「渋谷で?」
「そう、里佳子が、今日、渋谷のタワーレコードで偶然会って、e&iでおごってもらったって言ってたよ。」
e&iというのは二人がいる渋谷のこの小さな洋食屋のことだ。彼女の前にはロイヤルミルクティーが、彼の前にはコーヒーが置かれている。彼女が頼んだオムライスはまだ来ない。
「里佳子ちゃんには会っていないけど。」彼は困惑した表情を浮かべながら静かにそう言う。そしてコーヒーを一口飲む。
「本当に?」と彼女は彼に尋ねる。そして急に悲しくなる。
「だって、僕が里佳子ちゃんに会っていないことは君が一番良く知っているでしょ。」と彼は優しく言う。
「…うん。」と彼女は答える。「でもね、でも、ひょっとしたら、会ったかもしれないと思ったの。」
「そう考えるのは君らしいけどね。」と彼は笑いながら言う。
「でも、なぜ里佳子はあなたに会ったなんて嘘をついたのかしら。」
「詳しく話してよ。」と彼は彼女に言う。
「うん。大丈夫。ありがとう。それじゃあ。」
電話の受話器を置いた、ちょうどその時、妹の里佳子が「ただいま。」と言いながら、玄関の扉を開けて入って来た。
彼女は「おかえり。」と声をかけた。
里佳子は靴を脱ぎ、左手に持っていたロフトの大きな黄色い紙袋を下に置くと、彼女に近寄ってきて、「ただいま、きんたろー。」と嬉しそうに言いながら優しく抱きついた。
「だから、それ、止めてよ。」
「つまんなーい。」と里佳子は不服そうに言って、2階の自分の部屋に行くために階段の一段目に足をかけた。
「ちょっと、これ忘れてるよ。」彼女は里佳子が置きっぱなしにしていたロフトの紙袋を持ち上げ、妹に渡そうとした。
「おっと、危ない。」里佳子は紙袋を受け取ると、にっこり笑って彼女にこう言った。
「あのね、今日、辻本勝彦君に会ったよ。」
「え。」びっくりして息がつまった。
「渋谷のタワーレコードで偶然会って、オムライスをおごってもらっちゃった。」
「渋谷って、e&iで?」
「そう、お姉ちゃんの言った通り、オムライスが本当においしかったよ。チキンライスの鳥肉も大きくて。」
「…そう。」彼女は考え込みながら答えた。そしてこう尋ねてみた。
「元気そうだった?」
「うーん、そうだね、元気だったよ。」と里佳子はクスクス笑いながら言った。「とっても。」
そう言って、里佳子は紙袋を上機嫌で振りながら、階段を上がっていった。バタンと部屋のドアを閉める音が聞こえた。
残された彼女はポカンと階段の上を見つめた。
そんなことはあるはずがなかった。
妹が辻本勝彦に会うはずがなかった。
何故なら。
「僕はもう死んでいるからね。」と彼女の目の前にいる彼はつぶやく。
「…うん。」と彼女は言う。
「もう、ずいぶん経つね。10年か。」彼は静かに言う。
「ひどいよね。私をあんなに泣かせて。」
「ごめんね。」と彼は言う。「本当にごめんね。」
彼女はまた悲しくなる。そしてわざと明るく言う。
「だから、幽霊のあなたが現れたと思ったの。」
「君らしいね。」と彼は微笑む。「でも、違う。」
「ねえ、3人で多摩動物公園に行ったこと、覚えてる?」と彼女は懐かしくなって彼に尋ねる。
「うん、覚えてるよ。里佳子ちゃんにすごく懐かれた。」
「勝彦君のズボンにずっと巻き付いていたものね。あれから私に1週間くらいずっと動物園が楽しかった話をしていたんだよ。」
「ああ、そう言ってたね。」
少しの沈黙の後、彼が彼女にこう尋ねる。
「ひとつ確認しておきたいんだけれど。里佳子ちゃんは僕が死んでいることを知らないんだね。」
「うん、言ってない。あなたが死んだ時、あの子は小さかったから言えなかったの。喧嘩してお別れしたことにしたの。」
「ふむ。」
「あの時、あの子、怒っちゃって、しばらく口をきいてくれなかったのよ。」と彼女は言う。
「僕が振ったことになってるの?」
「まさか。」と彼女は言う。「私が振ったの。だから、怒られたの。」
「なるほど。僕に対してはそんなに悪いイメージはないわけだ。」
「うん。」
「それじゃあ、やっぱり、里佳子ちゃんは嘘をついていないんじゃないかな。」
「え。どういうこと?」と彼女は尋ねる。
「つまり、君の謎を作ったのは君の嘘ということ。」
「どういうこと?」
「彼女は辻村勝彦に会ったと言ったんでしょ。」
「でも、あなたは会ってないんでしょ。」
「僕は会ってない。」
「だから、あの子が嘘をついたんでしょ。」
「いや、里佳子ちゃんは君を驚かすためにわざと本当のことを言ったんだと思う。」
「本当のこと?」
「そう、本当のこと。あの時と一緒だよ。人面犬の時と。」
「人面犬の時? 」彼女は考える。
「あ。」彼女は思い出す。
彼女の頼んだオムライスはまだ来ない。
「人面犬?」
「そう、めちゃくちゃ怖かった。」
クラスメイトの猫田しのぶが人面犬を見たと彼女に言ったのは、高校一年生の4月の昼休みの人影まばらな教室でのことだった。二人でお弁当を食べ終わった後に、しのぶが彼女に突然その話を始めたのだ。
「嘘でしょ。」
「昨日の夜中に本当に見たんだもの。」
「あたしをからかってるの?」
「ねえ、りょーちん。」としのぶは真面目な顔で彼女を見つめた。「私が中学校の時からの大親友に嘘をついたことがある?」
「結構ある。」
「そうそう、何度もだましてゴメーンねって、コラ!」
「結構、私、しのぶちゃんに嘘つかれてる。」
「でも、これは本当。人面犬を見たの。お願い、信じて。急に街角から、口ひげを生やした男の人の顔をした犬がひょこひょこ出てきたの。すごく怖かった。」
「本当なの?」彼女はだんだん怖くなってくる。本当なのかしら。
「僕も昨日の夜、その人面犬、見たよ。」
その時、よく通る声が教室の後ろの方から聞こえてきた。二人が振り向くと彼女たちの席の列の一番後ろの席に座っている男の子がニコニコ笑っている。
「辻本…。」としのぶが小さい声でつぶやく。
その男の子、辻本勝彦は二人と同じ中学校の出身だった。彼女は同じクラスになったことはなかったが、しのぶとは小学校の頃からの同級生で、彼女の家の近所に住む幼馴染だった。
二人は昨日の夜一緒にいたのかしら。何故だか彼女の胸がキュッとなった。
「あれ、何なの。」としのぶが彼に尋ねた。
「人面犬。」
「そうだけど、なんで、ああなったの。」
「それは、つまり、本来はひとつの生物に寄生して複製するんだけれど、誤って人間と犬の両方に寄生してしまったので合わさって複製されてしまったからでしょ。」
「ふーん。」
「なんだ、あの前は見ていないの。」
「見てない。たまたま見て、気持ち悪かったんですぐ消した。」
「何の話?」彼女はしのぶに尋ねる。
「辻本はオタクだっていう話。」としのぶがそっけなく答えた。
「どういうこと?」
「ねえ、橋本さん。」と彼は彼女に声をかける。
「…なに。」彼女はドキドキしながら答える。
「問題です。全く別の場所にいる二人が同じ時刻に同じ人面犬を見ました。なーぜだ。」
答えはすぐ分かった。
「あ、テレビで見たんだ。」
「あーあ、つまんない。」としのぶが不平を口にした。「せっかく、りょーちんを驚かせようと思ったのに。」
「こんなことで橋本さんは驚かないよね。」と彼は彼女に言った。
「驚くのよ、この子は。」としのぶが言った。
それは本当だよ、辻本君、と彼女は思った。
「あれは、テレビで深夜にやっていたSF映画の中に出て来たんでしょ。」
「そう、フィリップ・カウフマンの『ボディースナッチャー』。宇宙からの寄生生物が人間の体をのっとっていく話。その中に人面犬が出て来たのを、猫田がテレビでたまたま見た。」
「あの時、しのぶちゃんは確かに嘘をついていなかった。」
「でも、テレビで見たという事実はわざと伝えなかった。」
「里佳子も私にわざと伝えていないことがあるということ?」
「さっきも言ったでしょ。君の謎を作ったのは君の嘘だって。整理してみるとこういうこと。つまり、僕は死んでいるが里佳子ちゃんはそのことを知らない。里佳子ちゃんは辻本勝彦に会ったが、僕は彼女に会っていない。そこから導き出されるのは。」
彼女は考える。そして理解する。
「え、嘘でしょ。」
「いや、多分、それが答えだ。」
「つまり」と彼女はゆっくりと言う。「辻本勝彦という人があなたの他にもう一人いるということ?」
「うん、そこまで珍しい名前じゃないと思うけどね。」
「渋谷のタワーレコードで会ったというのは偶然?」
「おそらく。」
「でもでも、このe&iに里佳子を連れて行ったのはおかしくない?」
「その人が連れて行ったんだっけ。里佳子ちゃんが言ったのはご馳走してもらったということでしょ。」
「うん。」
「ご馳走してもらったということは連れて行ったということじゃない。里佳子ちゃんに僕と一緒にe&iに行ったって言ったことはないの?」
「…多分、ある。」
「彼女がe&iに連れてきて、そのもう一人の辻本君におごってもらったんじゃないの。」
「なーんだ。」彼女は納得する。
「要するに、君が言わなかったことと、里佳子ちゃんが言わなかったことが重なって謎が作り出された。」
「名探偵の名推理ね。」
「そんなたいしたもんじゃないよ。では、謎が解けたところで。」
そう言って彼はカップに残っていたコーヒーを飲み干す。
「もうそろそろ起きる時間だよ。」
「え、でもでも。」と彼女は言う。「まだ、オムライスが来てないもん。」
「やれやれ、夜中に食べると太るよ。」
「むう。」と彼女はむくれる。「平気だもん。」
「里佳子ちゃんと食べに行きなよ。もしくは、」彼は笑いながら言う。「旦那さんと。」
「あなた以外の人と行ってもいいの?」彼女はおそるおそる尋ねる。
「勿論。」と彼は微笑む。「美味しいものは好きな人と食べるのがいいのさ。」
彼女も微笑む。
「生まれてくる君の娘が大きくなって一緒に行くのもいいね。」
「女の子かしら。」
「女の子だよ。」
「里佳子が男の子が生まれたら、金太郎という名前にしようって言うの。」
「大丈夫だよ。女の子だから。」
「良かった。」
そして、彼女はふと思う。「ねえ、里佳子はもう一人の辻本勝彦君のことが好きなのかしら?」
「さあ、どうだろう。起きたら訊いてみたら。」
「うん、そうする。」
「それじゃあ、お別れの時間だ。」彼は言う。「おはよう。」
「ふふ、おはようが別れの言葉なの。」
「ああ、悪くないだろ。」
「うん、悪くない。」
「おはよう。」と彼は言う。「おはよう。良子。」
目が覚める。
朝の光がカーテンの隙間からもれてくる。時計を見るとまだ6時前だ。不思議だなと良子は布団をひきつけ、天井をぼんやり見ながら思う。
夢の中だけでも会いたいと思っていた時には一度も現れず、それから何年もたって、結婚して、妊娠して、子供を産むために実家に戻ってきた時に昔の恋人の夢を見るなんて。
きっと、里佳子は笑いながら言うのだろう。昨日はびっくりした?本当はね、私が会った辻本勝彦君っていうのはね…。
良子はもう一人の辻本勝彦君について考えてみる。どんな男の子だろう。里佳子の大学の同級生なのだろうか。私の辻本君よりかっこよかったら、ちょっと嫌だな。そう考えてクスクス笑った。
そして10年ぶりに渋谷でオムライスを食べようと思った。夢の中で食べそこなったあのオムライスを。