2.葛藤の末に

文字数 12,810文字

「あら? 九条さんが居ないわね」

「寝坊かな? おい、見てきてくれ」

「かしこまりました」


紫月さんが執事に命じる。執事はすぐに戻ってきた。


「何度声をかけてもお返事がありませんでした。お部屋にも鍵がかかっています」

「九条さん、朝は弱いタイプだし、寝てるのかしら?」

「かもしれないね。おい、誠の食事はとっておいてくれ」

「かしこまりました」


誠さんの居ない食事が始まった。


「ねーえー、水無瀬さぁん。あんたにはここでの食事は合わないんじゃないのぉ?」


久遠寺がそう言う。


「美味しく頂いてるけど?」

「えー? でもさあ、あんたが好きなのって煮干しと牛乳でしょ? こーんなお洒落なもの、あんたみたいな貧乏舌には勿体ないんじゃなーい? 捨てたほうが有意義かもねー?」

「久遠寺さん」


紫月さんが低い声を発する。


「貴方は随分と口が汚い。もう一度、歯を磨いてきてはどうです?」

「え・・・。えー? 歯はぴかぴかに磨いてきましたよぉ?」

「不愉快な言動はやめていただきたい。できないならば無理にでも帰ってもらうよ」

「ちょ、ちょっと!! わけわかんない殺人鬼がうろついてる町から一人で帰れって言うんですか!? この私に!?」

「そうだ」


しん、と場が静まる。久遠寺は顔を真っ赤にしている。


「・・・わかりましたよ!! 歯を磨き直せばいいんでしょ!! 磨き直せば!!」


久遠寺はドスドスと足音を立てて食堂から出て行った。


「紫月さん、すみません」

「君が謝ることはない。さあ、食事を始めよう。文香さん、食事のあとは私の部屋に」

「はい、わかりました」


紫月さんの部屋は三階。こんこんこん、ノックをすると、すぐに出迎えてくれた。


「どうぞ」

「失礼します」


私はソファーの下座に座る。


「甘いものは好きかな?」

「大好きです!」

「ふふっ、良い反応だ」


紫月さんは冷蔵庫からマンゴーが描かれた瓶と、冷えたグラスを取り出し、テーブルに置いて中身を注いだ。


「どうぞ」

「いただきます」


ジュースを飲む。ねっとりと甘く、後味にマンゴー特有の青臭さが抜けていく。なのに口当たりはさっぱりとしていて、とても美味しい。


「凄く美味しいです!」

「良かった。食の好みが似ていて嬉しいよ。それより文香さん、久遠寺さんとは・・・」

「私より姪の心配をしたらどうですか」


私は被せるように言った。紫月さんはうんざりという様子で溜息を吐いた。


「もう子供じゃないんだ。干渉する義理もない」

「義理って、姪でしょう?」

「前も言ったが、寂しさを紛らわせてくれるなら誰でもよかっただけだよ。姪だから屋敷に迎え入れたわけじゃない」

「・・・なんで執事さんとは話さないんですか?」

「あいつだって私とは話したくないさ」


初めて見た、他人に皮肉を言うような顔。


「先代から九条グループを継いだのは、私の姉。異父姉弟の姉なんだよ。私と姉は父親が違うんだ。女だが長子である姉に継がせるか、長子ではないが男である私に継がせるかで一族は揉めに揉めた。私は医者として勉強させてもらうことを条件に、姉に跡継ぎの座を譲った。父はそれを許さなかった。私が九条グループの跡継ぎになることに執着していたのに、夢が叶うことは無かった」


どうしてここで、こんな話を。


「妻が姉よりも早く妊娠した時は『跡継ぎができた』と喜んだが、女の子とわかると一変して妻を責めたよ。私は、妻と娘の死の責任は父にもあると思っている。私の心因性の失明は私のせいだがね。ま、一族から見れば私も私の子供も跡継ぎの『スペア』でしかない。それを駄目にした償いをさせるため、執事として働かせているというわけだよ」


この屋敷の執事のお爺さんは、紫月さんの、実父。


「・・・私に幻滅したかい?」

「いいえ」

「本当に?」

「『君と私は似ているね』って言いましたよね。父親が嫌いって境遇まで似なくていいのに・・・」


私は唇を舌で湿らせた。


「私の両親が離婚した理由、色々ありますけど、決定打は父が私の頭を酒瓶で割って意識不明の重体にさせたからなんですよ」

「な・・・」

「一週間くらいかなあ。目が覚めたら変な声が聞こえるようになって、長期間の虐待と頭部への衝撃でおかしくなったんだろうって、何人かの医者はお手上げ状態。母だけが味方だった。だから私、児童心理学を学んで、子供の心を治療する医者になろうと思ったんです。あ、母は今はもう再婚して、新しい父親はとても良い人ですよ」


紫月さんは言葉を失っている。


「背が高かったり、父親が嫌いだったり、医者になろうとしたり、なんでそんなところが、ってところが似てますね」

「傍に来てくれ。抱きしめたいよ」


私は紫月さんの隣に座る。そして、抱きしめられるのではなく、抱きしめた。紫月さんは痛いほど抱きしめ返してくる。ふわりと漂う落ち着いた甘い香り。柔い温もり。少し早い心臓の音。この瞬間が永遠に続けばいいのに。

ドンドンドンドンドンドンッ!!

私達は慌てて身体を離した。


『旦那様!! 大変です!!』


執事だ。紫月さんがドアを開ける。


「何事だ?」

「誠様が・・・」


『きゃああーっ!』と悲鳴が聞こえた。私は慌てて声のした階下に向かう。


「文香様!! 行ってはいけません!!」


誠さんの部屋の前で、竹内が腰を抜かし、泉さんは顔面蒼白になり、久遠寺は部屋の中を見ながら後退ると、どんっ、と壁に背中からぶつかり、そのままずるずると崩れ落ち、部屋の中を指差した。

誠さんが死んでいた。

全裸で、苦悶の表情で、胸部から下腹部まで裂かれて、内臓を抜かれて。遅れてやってきた紫月さんが血の匂いに気付いたのか、震えながら部屋に近付いてくる。


「く、九条、さん、警察、呼んで、ください・・・」


泉さんが震える声で言った。

そのあと。

警察が大勢やってきて、私達は事情聴取を受けた。それぞれの親が港町まで迎えに来て、私の両親は屋敷まで来てくれた。


「文香さん、もうここには来ちゃいけないよ。さよなら」


紫月さんはつらそうに笑って、そう言った。

私は応えなかった。

結局、事件は迷宮入り。

九条グループの令嬢が殺されたと、一時期大いに騒がれた。大学でもその話題で持ち切りになった。竹内は大学を辞めた。泉さんとも疎遠になった。久遠寺は九条家であったことを武勇伝のように語り、それが両親の耳に入り、流石に咎められたらしい。相変わらず私に噛み付いてはくる。部員数が足りなくなった文芸サークルは廃部になった。

現実なんてそんなもの。

ここは映画やドラマ、漫画や小説の世界ではないのだから。


「はあ・・・」

「また溜息かいなあ、文ちゃん。どうしたん?」

「なんでもない」

「また紫月さんのことかいなあ! 会いに行ったらええやろがあ! ほら、冬休みに行ったらどうやあ? お母ちゃんお金出したるさかいな!」

「あー! もう、うっさい! もう十九歳やねんから必要以上にベタベタすんなや!」

「必要やったらベタベタしてええんやろお? やあん! 文ちゃん、可愛い!」

「ちょ、もう、おとん! なんとかしてえな!」


血の繋がらない父が苦笑する。


「父さんは父さん歴十一年くらいだから、あと九年は文香の面倒を見ると決めているんだ。文香、勉強が疎かになるくらいなら恋人に会って遊ぶのも悪いことじゃないぞ?」

「止めろや! 殺人事件があった場所に娘行かすんかい!」

「いやいや、行かせるんじゃなくて、本当は行きたいんだろう? もう十八歳超えてるんだから、自己責任で行きなさい」

「面倒見る言うたり自己責任言うたり・・・!」


駄目だこいつら。


「行けばええんやろ!! 行けば!!」


結局、私は最低限の荷物を持って、紫月さんが暮らす島の近くの港町まで来てしまった。時刻は早朝。船着き場に時刻表は無い。


「あの、すみません」


漁の帰りだろうか。少し疲れたような厳つい顔をしているお兄さんに声をかける。


「ん? どうしたの?」


見た目に反して声は優しく、明るい。


「九条家に行きたいのですが・・・」

「ああ、はいはい。奉公のお嬢ちゃんね」


なにか勘違いをされている。


「あっち、一番隅っこ、今は船ないけど、そのうち迎えが来るよ」

「ありがとうございます。あの、奉公のお嬢ちゃんって、噂になってるんですか?」

「そりゃあね、噂にもなるよ。今年の夏に切り裂きジャックの被害があった家だもん。あそこ、働き手が船頭の博文以外は皆死んじゃって、だーれも近付かないよ。そこに若い女の子が来るっていうんだから噂にもなるよ」

「働き手が皆死んだ!?」


紫月さんの、父親も?


「博文から聞いた話だけど、あそこの親父さんも可哀想にねえ。なんか跡取りになるはずだった姪っ子さんが屋敷で死んじまったってんで随分と親戚連中に責められたそうじゃない? イカれた殺人鬼に襲われるなんてどうしようもないでしょうに。親父さん目が見えないんでしょ? どうしろっていうのさ、可哀想にねえ」


紫月さんが『親父さん』と呼ばれるのは違和感がある。五十代なので親父さんで間違いはないのだが。それよりも、私の知らない情報ばかり飛び出してきて少し混乱してしまった。念のためダイヴしてみる。


(こんな辺鄙な土地で働くなんて、この子、根性あるなあ・・・)


ちょっとお喋りなだけで、善意で動いてくれているようだ。


「お兄さん、お話をありがとうございました」

「おうよ、頑張ってね」


言われた通り、港の一番隅っこで待つ。暫くすると、小動物のリスを思わせる可愛らしい女の子が大きな荷物を持ってやってきた。


「こんにちは」

「こんにちは! お屋敷の人ですか?」

「いえ、お屋敷の人の・・・。友人です」

「まあ! 私、藤野梨花です。よろしくお願いします」

「水無瀬文香です。よろしくお願いします」

「とっても背が高いですねえ」

「ありがとうございます」


藤野さんは結構話し上手だった。雑談して待っていると、見覚えのある船が、見覚えのある船頭と共にやってきた。


「あれ!? 貴方、確か・・・」

「お久しぶりです」

「もしかして旦那様に会いに来たんですか?」

「はい」

「困ったな、船に乗せないように言われているんですが・・・」

「野宿しますよ。凍死しますよ」

「やだなあ、もう! 僕がお叱りを受けないように旦那様に言ってくださいよ?」

「ありがとうございます」

「そちらが藤野さん?」

「はい! 藤野梨花です!」

「お二人共、船にどうぞ。落ちないように気を付けてくださいね」


懐かしい船に乗る。


「あの、水無瀬さん」

「はい」

「さっき『船に乗せないように』って聞こえたんですが・・・」

「気のせいですね」

「ええー・・・?」


船が島に着く。出迎えたのは厳しそうな老婆だ。


「なんです貴方は」


開口一番そう言われる。


「紫月さんのお友達の水無瀬文香です」

「旦那様にご友人は居ません。お帰り下さい」

「少しだけ紫月さんとお話しをさせてください。紫月さんに『帰れ』と言われればすぐに帰りますから」

「・・・まあ、いいわ。貴方が藤野さんね?」

「はい! 藤野梨花です! よろしくお願いします!」

「こちらにどうぞ」


屋敷に案内される。ダイヴしなくても聞こえてくるのは、藤野さんの緊張と、老婆の私への嫌悪。


「旦那様、新しいメイドをお連れしました」

「そうか」


紫月さんは、以前と全く変わらない姿だった。


「それから、ご友人をお連れしました」

「私にそんなものは居ない」

「旦那様が『帰れ』と言えば帰るそうですよ。わたくしはメイドの教育があるので失礼します。さ、藤野さん」

「はい!」


老婆は盲目の主人を残して、友人を自称する私と二人っきりにして、談話室を去っていった。私が強盗や殺人鬼だったらどうするつもりなのだろう。紫月さんのことなどどうでもいいと言わんばかりの態度に僅かに苛立つ。


「金の無心なら他をあたってくれ」


私には一度も見せなかった冷たい表情も、格好良い。会えないうちに紫月さんに相当ヤラれてしまったらしい。緊張で張り付く喉を広げるため、精いっぱい、空気を吸う。


「紫月さん」


信じられない、という顔をして、紫月さんがソファーから立ち上がった。


「文香さん・・・?」

「はい。水無瀬文香です。突然押しかけて申し訳ありません。でも連絡したら断られると思ったし、というか、連絡先も知らないまま別れてしまったし・・・」


紫月さんは今にも泣き出しそう顔をした。


「・・・私の部屋においで」

「はい」


白杖をついて歩く紫月さんに着いて行く。


「寒いだろう? 暖房をつけるよ」


そう言って、なにもないテーブルの上を探る。リモコンは棚の上にあった。


「あの、もしかしてこれですか?」


私はリモコンを取り、紫月さんの手を包んで渡す。


「・・・これだ、悪いね」


ボタンを操作する指は淀みなく綺麗なのに、何故、リモコンの位置はわからなかったのか。以前はするすると移動していたのに、何故、ずっと白杖をついているのか。私は嫌な予感がした。


「文香さん、もうここには来ちゃ駄目だと言っただろう?」

「帰れと言うなら帰ります。でも、どうしても、もう一度だけでいいから、紫月さんに会いたかったんです」

「言えるわけないだろう、帰れだなんて・・・」


紫月さんの手が空気を掻き分ける。その手を掴み、コートの上から肩に添わせる。


「いつまで、ここに?」

「冬期休暇いっぱいは。来年の一月二日までですね」

「正月も帰らないのかい?」

「紫月さんが許してくれるなら。親が『会いに行け』って煩くて。だから両親のことなら心配要りませんよ」

「ははっ、そうか・・・」


悲しそうに笑っている。

そんな顔が見たいんじゃない。

私はコートを脱ぐ。


「こら、寒いんだから着ていなさい」


脱いだコートを紫月さんに羽織らせて、コートの上から抱きしめた。


「・・・お見通し、かな」

「かもね」

「あの一件の責任は私にあると言われてね。日常茶飯事だからもういいんだよ」

「私がそれで納得すると思うんですか?」

「頼むから、なにもしないでくれ。私の立場が悪くなるだけだ」

「子供じゃないんだから分かりますよ。だからこうやって温めているんです」


からんころん、杖が転がった。冷たい腕が抱きしめ返してくる。


「久しぶりに、生きている心地がする・・・」


うっとりとそう言われたら、もう紫月さんのことしか考えられない。


「部屋が温まるまで時間がかかりそうですね。ベッドに入りましょう」

「いいのかい?」

「温め合うだけですよ。寒くて凍えそうですから」

「ふふっ、わかったよ」


二人でベッドに潜り込む。


「幸恵さんに会っただろう?」

「厳しそうなお婆さんですか?」

「そう。メイド長ということになっている。彼女は私の義母なんだ。妻の母親。だから私のことが嫌いなんだよ」


なにも言えなくて、紫月さんの手を温めるためにさする。


「いいんだよ、文香さん。君が来てくれた。それだけでもう報われた気持ちだ」

「大好きですよ、紫月さん」

「・・・私も好きだよ、文香さん」


胸の中に紫月さんを抱きしめる。幼子が母親にするように頭を擦り寄せて、甘えた声でくすぐったく笑う。この人はこんなこともできるのか。

どれくらいそうしていただろうか。

気付くと部屋は暗くなっていた。二人共眠っていたらしい。部屋は暖かい。ドンドンッとドアを乱暴にノックする音が響いている。


「紫月さん」

「んー・・・」


可愛い仕草に矢で心臓を射抜かれたような衝撃を受けた。


『旦那様! 食事の時間です!』


幸恵さんの声だ。かなり鋭くて聞いているだけで怖い。


「食事だ。行こうか」

「はい」


二人で食堂に行くと、藤野さんがせっせと料理を運んでいた。


「水無瀬さんでしたね、食事をどうぞ」

「ありがとうございます」


席に案内され、座る。静かな食事が始まった。


「旦那様、水無瀬様はいつまで滞在なさるのです?」

「一月二日」

「そうですか」

「あの、私、なにかお手伝いを・・・」

「結構です。余計なお世話ですので」


遮るように言われてしまった。


「あとで部屋に案内してやってくれ」

「はい」


食事を終え、一度紫月さんの部屋まで荷物を取りに行き、幸恵さんに案内されて滞在する部屋を与えられる。


「水無瀬様」

「はい」

「本当に旦那様のお友達なのですか?」

「はい。そうです」


幸恵さんは顔を曇らせた。


「わたくしの名前は斎藤幸恵です。幸恵とお呼びください」

「わかりました、幸恵さん」

「・・・本当に、あの人のお友達なのですね?」

「え、ええ。何故何度も聞くんですか?」


幸恵さんは溜息を吐くと、エプロンを脱ぎ、シャツのボタンを外し始める。突然の出来事に私は呆然とするしかなかった。


「な、なにを・・・」


そして再び言葉を失う。幸恵さんの背中は切り傷と痣だらけだった。切り傷は真っ赤なものからどす黒い瘡蓋まで。痣は真新しい青いものから黄色に変色した古いものまで。


「あの人から受けた傷です」

「そ、そんな・・・紫月さんがそんなことするはずない・・・」


幸恵さんが服を着る。


「あの人を決して怒らせてはいけません。あの人は一族の中でも要注意人物なのです」


私は迷わずダイヴした。


(この子は本当に友人? それとも情婦? どちらにせよ、被害はわたくしで食い止めないといけない・・・。藤野さんもこの子も、紫月さんの食い物にしてはいけないわ・・・)


嘘を、吐いていない。


「失礼します」


幸恵さんは、行ってしまった。確かめなくては。事実かどうか確かめなくては。私はキッチンに行く。紫月さんは酒を飲んでいた。


「来ると思った」


柔らかく微笑んでいる。


「紫月さん」

「なんだい?」

「・・・あの、私、さっき幸恵さんと、少し話をしました」

「彼女になにか言われたのか?」

「失礼なことを。でも耐えましたよ。偉いでしょ」


ダイヴする。


(文香さんにまで・・・。なんとかしなくては・・・)


この反応ではわからない。


「中世の主人と奴隷みたいに、鞭で打ったりなんかしちゃ駄目ですよ」


再びダイヴする。


(恐ろしいことを言うな。そんなに失礼なことを言われたのか? 許せない。細心の注意を払って、現場をおさえて注意しなくては・・・。場合によっては手をあげてでも・・・)


怪しい、けど、確定には至らない。


「あの、前に居た執事さんはどこに?」


私はとぼけて聞いてみた。


「自殺したよ」


紫月さんが酒に口をつける。


「私以上に責められてね。別段悲しいとは思わなかったな」


言葉が出ない。


「しかし文香さんのご両親はよくここに来ることを許したね」

「許したっていうか・・・」

「うん?」

「私の親は過干渉なんですよ。『溜息ばかり吐くくらいなら会いに行きなさい』って煩くて煩くて」

「溜息? ふふっ、そうか・・・」

「なに喜んでるんですか」

「ごめんね」

「諦めようとしたんですよ、何度も何度も。歳の差もあるし、紫月さんの目のこともあるし、私は医大生で勉学に励まないといけないし。それに、九条家と生粋の貧乏人の私じゃ全然釣り合わないし。紫月さんに『もう来ちゃ駄目だよ』って言われたから、その通りにして、思い出にしようと自分に言い聞かせた。でも私、馬鹿だから、会いに来ちゃった」

「眩しいくらい真っ直ぐだね、君は。若さのせいもあるのかな」

「ただ幼稚なだけです」

「まだ未成年、か・・・」

「大学卒業まで待つの? 私、医大生だからあと五年かかりますよ?」


紫月さんは唇を噛み締めた。


「あのねえ、君・・・」

「二十歳にすればいいのに。それなら来年の冬だ」

「誕生日はいつだ?」

「十一月八日」

「・・・大学卒業まで待つよ」


紫月さんは理知的で、とても穏やかだ。一族から『要注意人物』として取り扱われる要素はどこにもない。


「紫月さん、今日は一緒に寝ましょうね」

「ふふっ、そうだね」


くい、と酒を飲み干し、紫月さんが立ち上がる。二人で紫月さんの自室に行き、寝る前の準備を済ませてベッドに横になる。


「天にも昇る気持ちだ」

「紫月さん、身体冷えやすいんですね」

「君は温かいな」

「おやすみなさい、紫月さん」

「おやすみ、文香さん」


私はさっき、睡眠薬を飲む振りをした。錠剤が入ったシートをカサカサと音を鳴らして水を飲んだ。もし紫月さんが夜中になにかしていたら、これで気付ける。眠れないのはつらいが、どうしても紫月さんの謎を知りたかった。

むくり。

紫月さんが起き上がる。そして静かに部屋を出て行く。暫く待ってからは私は薄く眼を開き、耳を澄ませた。物音はしない。紫月さんの部屋は三階にあるからか、外からの動植物の声もない。そっと、ベッドから足を下ろす。洋館だから靴を履く。紫月さんは素足で寝室を出たらしい。大きくて高そうな靴が綺麗に揃えられている。私は足音を立てないよう細心の注意を払い、寝室のドアを開けた。


「あっ・・・」


紫月さんが、ドアのすぐ前に立っていた。

私を見降ろしている。

両の目は見開かれていた。

しっかりと、私の姿を捉えて。


「どこに行くんだい?」


そう言って、笑う。


「こんな夜中に出かけたら、切り裂きジャックに襲われるよ」

「し、紫月さん・・・」

「薬を飲んで、寝なさい」


紫月さんの手には大きな瓶が握られていた。ぱたん。ドアが閉められる。かちり。鍵も閉まった。紫月さんは瓶を棚の上に置くと私のポーチを勝手に開けて睡眠薬のシートを取り出す。三種類。一回一錠が二つと、一回二錠が一つ。まずい。この人、昔は医者だ。今もその関係で翻訳の仕事をしている。なら、どの薬がどんな効果を齎すのか知っていても、なんらおかしくはない。


「おやすみなさいしようね」


紫月さんはそう言うと瓶を持って私に近付いた。嫌だ。怖い。父に殴られた時の光景がフラッシュバックする。差し出された手の平の錠剤を震えながら受け取り、口に含む。紫月さんが瓶を渡す。私は逆らえない。抗えない。勢いをつけて酒で口の中の錠剤を流し込んだ。


「ふふっ。なにを怯えているんだか」

「お酒で、睡眠薬を飲んだら、死んじゃう・・・」

「ぶどうジュースだよ」

「えっ?」


紫月さんは優しく、そして妖しく笑った。


「未成年だからね」


私は、なんだか気が抜けて、力なくベッドに腰かける。


「おやすみ、俺の文香さん」


紫月さんは私に口付けると、部屋を出て行ってしまった。

翌日。

遅い時間に睡眠薬を飲んだせいか、午前中に起きられなかった。心配する紫月さんには軽い体調不良だと誤魔化した。


「文香さん、具合はどうだい?」


紫月さんが時々様子を見に来る。


「だいぶ良くなりました」

「今日はゆっくり休むんだよ」

「はい」


恋人の匂いがする寝具に包まれるのはこれ以上ないほどの安心感を得ることができた。それと同時に、昨夜の、まるで別人のような紫月さんのことを思い出して、ドキドキしてしまう。興奮と恐怖が綯い交ぜになった胸の高鳴りだ。あの目を思い出すと、ぞくりと、身体に甘い痛みが走る。太腿に手を伸ばしかけていた自分に途轍もない嫌悪感を覚えた。このままだといけないことをしてしまう。私はベッドから飛び出して、寝室から逃げた。


「紫月さん、お腹が空いたので食事をしてきます」

「そうか。甘いものも摂って疲れを取りなさい」

「はい。行ってきます」

「行ってらっしゃい」


キッチンでは幸恵さんが藤野さんに仕事を教えている。


「あの・・・」

「お食事ですか?」

「はい」

「今朝のものでよろしければ温め直しますが」

「お願いします」


幸恵さんも、別人みたい。初めて会った時に私に嫌悪感を抱いていたのは、私を紫月さんの情婦だと思っていたからだろうか。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


ダイヴしようとしたが、できなかった。自分でもわからないうちに混乱していたらしい。昨日ここまで来るために長い時間をかけたのでその疲れもあるのだろう。食事を終えると、私は紫月さんの部屋に戻った。


「おかえり」

「ただいま戻りました」

「紫月さん、昨日の夜、私にキスしたこと覚えてますか?」


ダイヴできないならこうやって探るしかない。


「えっ・・・」

「寝ぼけてたんですか? 覚えてない?」

「お、覚えてない・・・」


演技なら、大したものだ。


「結構甘えん坊なんですね」

「申し訳ありません・・・」

「あはっ、怒ってないですよ」


足音を立てて近付き、紫月さんの肩に手を置いて、そっと、頬に唇を寄せる。


「勉強しなくちゃいけないから、部屋に戻りますね」


紳士は初心な少女のように微笑む。

部屋に戻った私は、一人考える。


「紫月さんは、目が見えない振りをしている・・・?」


あの目は、切れ長の美しい目は、確かに私を捉えていた。食虫植物の棘のような睫毛に彩られた、凛とした瞳。ぶくぶくと不潔な泡が沸き起こり、脳みその隙間に染み込んでいく。不安。私は紫月さんに対して不安になっていた。それと同時に、紫月さんがどんな秘密を持っていようとも構わないとも考えるようになっていた。


「惚れた方が負け、か」


どっちが負けているのだろう。集中できないがやるしかない。私は参考書とノートを開き、勉学に励んだ。


数日後。


「見送りに来てくれなくてもいいのに」

「見えないよ」

「自虐が過ぎますよ」

「ふふっ、ごめん。君に叱られたくてね」


今日、私は、この屋敷から、この島から、自分の家に帰る。


「寂しくなるな・・・」

「春にまた会えますよ。しっかり勉強しますから」

「待ってるよ」


私は紫月さんの手を両手で包み、爪にキスをした。普段は紳士なこの人は意外と乙女だ。こういうロマンチックなことが好きらしい。


「どこで覚えたんだか・・・」

「両親がドラマが好きなので」

「ドラマ・・・。確かにこういうこともするか・・・」


紫月さんは顔を赤くしている。


「また春に、紫月さん」

「またね、文香さん」


自宅に戻り、勉強漬けの日々が始まる。


「愛の力やねえ」

「愛があればなんでもできるからね」

「うっせーな!」


食事のたびに両親に揶揄われるので頭が痛かった。私は必死に勉強し、二年生への道を掴む。紫月さんへ手紙を送る。盲人へ手紙だ。でもそれしか手段がない。手紙を送って数日後、返信が来た。


『おめでとう。君を待っています』


たったそれだけの言葉で、嬉しくて堪らなくなる。


「綺麗な字やねえ」

「うわっ!? 部屋入る時はノックせえや!」

「したでえ、何回もお。手紙に夢中で気付かんかったんは文香ちゃんやろうにい。ほれ、お菓子食べなあ。脳みその栄養にはお砂糖やて昔から言うやろお」


母は駄菓子がたっぷりと入った籠をテーブルに置くと、私の部屋から出て行った。


「まったく・・・」


時が過ぎ、春休み。


「文香さん!」

「おわ、出迎えなくても・・・」


紫月さんが抱き着いてくる。私はもうこの人のことが好きで好きで仕方がない。抱きしめ返し、髪に指を滑らせた。


「お久しぶりです、水無瀬様」


ぞく、と、その声を聞いた途端、背筋に寒気が走った。


「あっ・・・。藤野さん・・・」


藤野さんの小動物のリスを思わせる可愛らしさはどこにもなく、温度のない表情に私への拒絶を滲ませていた。


「お荷物をお部屋にお運びします」


ダイヴしなくても聞こえてくる、強い感情。


(なんでこんな人が・・・)


激しい、嫉妬。


「さあ、文香さん。私の部屋へ」

「はい・・・」


紫月さんに促され、私は荷解きもせず部屋に行く。二人で向かい合ってソファーに座る。


「今日のことを指折り数えたよ」

「紫月さん、来年からは、春は来られないかもしれません」

「わかっているよ。医大生として本格的に忙しくなるからね。そうそう、渡したいものがあるんだ」


紫月さんが立ち上がる。私はそこで気付いた。白杖をついていない。幸恵さんが来る以前のようにするすると動いている。紫月さんが鍵付きの棚から取り出したのは大きな白い箱。それをテーブルの上に置く。


「開けてごらん」


箱の中にあったのは、白いフリルが着いた水色のワンピース。


「えっ・・・!」

「知り合いの仕立て屋に作ってもらったんだ。どうかな」


ということは、一点物だろうか。


「いいんですか? こんな高そうなもの頂いても・・・」

「勿論」

「ありがとうございます!」


嬉しい。私の話を覚えてくれていたんだ。


「紫月さん」

「うん?」

「毛先、揃えましょうか」


紫月さんも笑う。


「お願いしようかな」


しゃき、しょき、と髪を切る。五十代の男性の髪とは思えないほど綺麗だ。屋敷の外に出ないからだろうけど、肌も白くて肌理が細かい。


「紫月さん、髪も肌もお綺麗ですけど、どんなお手入れしてるんですか?」

「手入れ? いや、なにも」

「えっ! やっぱり金持ちは食べてるものが違うからかな・・・」

「それはちょっと偏見では・・・」

「私は必死に髪にオイル塗り込んだり肌に化粧水叩き付けてるっていうのに・・・」

「君の髪も肌もとても綺麗だよ。自信を持っていい。努力の賜物だね」

「じゃあ、自信持っちゃおうかな」

「ふふっ・・・」


髪を切ったあとは夕食の時間までお喋りに興じる。


「そっかあ、イギリス訛りだから駄目かあ。まあ確かに、日本語を覚えたい外国人に関西弁で教えるようなものですね」

「文香さんはいつから関東に?」

「小学二年生の頃に越して来ました。母が再婚したのでその関係で」

「成程・・・」


なんだか不思議だ。私達はなにもかもが程遠いはずなのに、産まれる前からお互いを知っていたような安らぎすら感じる。こんこんこん。ドアが三回ノックされた。


『旦那様、夕食の時間です』


藤野さんだ。


「今行くよ」


二人で部屋を出て食堂に行く。用意されている食事は三人分。この屋敷では執事もメイドも主人である紫月さんと共に食事を摂っていた。ということは。


「そういえば、幸恵さんは居ないんですか?」

「ああ、彼女は・・・」

「切り裂きジャックに殺されました」


紫月さんの言葉を遮り、藤野さんがそう言った。


「・・・さあ、食事をしよう」


平成の切り裂きジャックに、幸恵さんは殺された。衝撃に言葉が出ない。私は、紫月さんと切り裂きジャックになんらかの関係があるとしか思えなかった。紫月さんにダイヴしてみる。


(危険極まりない場所に文香さんを引き留めたいと考えてしまう私は、なんて愚かなんだ・・・)


有益な情報は得られない。それどころか無関係ともいえる思考をしている。紫月さんは姪の誠さんと、義母の幸恵さんを殺されているのだ。しかも誠さんの遺体はこの屋敷で発見された。切り裂きジャックが屋敷の主の九条紫月を知らないはずがない。切り裂きジャックは一体なにを考えているのだろう。そして誰なのだろうか。私は念のため、藤野さんにもダイヴしてみる。


(嫌な女。早く帰ってくれないかしら)


藤野さんからは嫉妬の感情しか読み取れない。静かな食事が始まり、終わる。私は与えられた部屋で荷解きをする。少し混乱している。紫月さんの周りの人間がどんどん死んでいく。姪の誠さんが切り裂きジャックに殺され、執事をしていた実父はそのことを一族に責められて自殺。そして幸恵さんも切り裂きジャックに殺された。切り裂きジャックは女性しか狙わないらしいが、もし、紫月さんを不幸に陥れようとしているのだとしたら、切り裂きジャックの目論見は成功している。次は私かもしれないと考えるのは、紫月さんの恋人であると自惚れているだろうか。こんこんこん。ノックの音。屋敷の中も危険かもしれない。それでも私はドアを開ける。


「藤野さん・・・」

「水無瀬様、少しお話を」

「はい。なんでしょう?」

「中に入れてください」

「・・・どうぞ」

「失礼します」


私は藤野さんを部屋の中に入れ、ドアを閉める。


「調子に乗ってますよね、貴方」

「えっ・・・」


藤野さんは私を睨み付ける。


「深夜二時、私の部屋にお越しください。良い物を見せてあげますよ」


手描きの地図を強引に渡すと、藤野さんはそのまま去っていってしまった。なんだろう、この胸のざわめきは。一秒でも早くここから逃げろと、脳が、動物的な本能が警鐘を鳴らしている。それでも私は、深夜二時、藤野さんの部屋に行った。耳を澄ませても物音はしない。心の声も聞こえない。私が動揺しているせいかもしれない。少し考えてから、私はドアをノックした。こんこんこん、三回。出てきた藤野さんは嬉しそうに笑っていたのに、私を見ると一気に顔を歪ませた。


「なんであんたが来るのよッ!」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み