第1話

文字数 1,993文字

 初夏の朝陽に照らされた太平洋は水面をキラキラと輝かせ、穏やかに揺れていた。
 海岸沿いの道路はところどころ歩道と車道を分ける白線が消えかかっていたが、道の真ん中を堂々と走る梨香の自転車には関係のない話だった。
 梨香は重いハンドルをしっかりと握り、バランスを崩さないよう前方を向いたまま後ろの繭子に声をかけた。
「ねえ、チャリのニケツってさ、道路交通法違反らしいよ」
 繭子は膝に置いた分厚い洋書から目も上げずに、へえ、と声を漏らした。
「こないだ昔の新聞見てたらそう書いてあった」
 梨香は向かい風に負けぬよう声を張り上げた。
「違反すると、どうなるの」
 小さいがはっきりとした声が梨香の背中を伝わる。梨香は繭子が本を閉じたのを背中で感じ取った。
 繭子は自転車を揺らさない様に最小限の動きで膝の上のカバンに本をしまう。
 梨香は目の前に迫るカーブに意識を向けながら、先日見つけた記事を思い出そうとした。
「えーっと、たしか罰金?」
「バッキン」
 繭子は初めて聞く言葉のように繰り返した。
「……5万、いや、10万とかだったかな」
 梨香はそれらしい数字をあげてみたが、実際のところは全く覚えていなかった。
 それどころか、違反の場合の罰則が罰金だったかどうかも怪しかった。
「それって1回につき10万?」
 繭子はさして興味のなさそうな声できいた。
 せり出た岩肌に沿うように作られたカーブは先が見えず、そこで世界がぷっつりと終わってしまうように思えた。
 二人分の体重を乗せたハンドルは少し傾けるだけですぐに倒れそうなほど重いが、梨香はブレーキには指もかけない。
 まるで体の一部のように自転車のハンドルをほんの少し内側に引っ込め、スピードを落とすことなく道を曲がり切った。
 一気にひらけた視界に青々とした山とどこまでも続く海岸線が飛び込んできた。
 「う~ん。そうじゃないかな、たぶん」
 梨香は回数のことなど思いもつかず、適当に答えた。
 海風に晒され朽ち果てた民家の軒先から紫陽花が山の方へと列を作るように伸びており、二人を導くように真っ青な道が出来上がっていた。
「困ったね。それじゃあ私達破産しちゃうよ」
「1回分の罰金も払えないでしょ」
 繭子は一瞬黙って、目の前に広がる海を眺めた。
「払えなかったら、どうなるの?」
「捕まるんじゃない?」
「まあ大変」
「手錠、かけてもらえるのかな」
「うわ、それはアツい」
「ジドリまったなしですわ」
 途端に自転車が大きく左右に揺れた。
「うおっと」
 梨香は体重を右に左に移動させ、ハンドルも細かく左右に切ってなんとかバランスを保った。
 繭子がくつくつと体を揺らして笑っている。どうやら「ジドリ」がツボにはまったらしい。
 車体が大きく蛇行しても、梨香は決してブレーキはかけない。
 一方、繭子はそんなことはまるで気にせず、まだ笑い続けている。
「いいね。自撮り、しようよ。そんでエスエヌエスにでもあげよう」
 SNS。
 久々に聞いたその言葉はもはや何かの呪文のようで、思わずぶっ、っと噴き出した。
 エスエヌエス、と小さく呟くとなんだか唇がくすぐったくなった。
 「そんなことしたら、きっとすぐエンジョウして、あっという間に有名人になれるね」
 繭子の柔らかい声は風に攫われて遠くへと消えていった。
 「そうだね。そしたらまた捕まるかも」
 そう言った瞬間、視界の端にとらえていた茂みから何かが飛び出してきた。
 梨香は反射でブレーキをかける。
 見ればそれはぼろぼろの制服を纏った警察官だった。
「あら、お巡りさん」
 繭子は驚いたような、悲哀の交じったような優しい声でそう言うと、カバンの中からベレッタを素早く抜き、どうする、と目だけで梨香に問いかけた。
 警察官であったそれは今や体中のそこかしこから皮膚が剥がれ落ち、手足はところどころ骨や肉がむき出しになっている。
 人を食らうために変化した牙からは涎がだらだらと滴り、私たちを見つめる瞳に理性は残っていなかった。
 梨香は今にも飛びかかってきそうなそれから目を離すことなく、ペダルに再び足をかけ、こういった。
 「警官とJKの逃走劇ってのも悪くないと思うんだけど、どう?」
 繭子は横乗りをやめ、サドルにしっかりと座り直した。
「いっちょ『映え』ちゃいますか」
 梨香は笑って危うく腰から力が抜けそうになりつつ、ペダルに思い切り体重をのせ、自転車を漕ぎだした。
 こちらにとびかかってくるバケモノの脇をすり抜け、ぐんぐんと加速する。
 頬に当たる風が強くなるとぐぁぐぁという唸り声が遠ざかっていき、やがて波の音しか聞こえなくなった。

 ふと、梨香の背中にむずがゆい振動が伝わる。
 シャツ越しに感じる懐かしいそのリズムは、古いアニメのエンディング曲で、繭子が小さく鼻歌を歌っているのだった。
 いつしかそれは波の音に負けない大合唱となり、観客のいない世界に響き渡った。

 
  
 
 
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