第1話

文字数 8,122文字

 「ああ…あと一時間半!」
 沙月(さつき)は独り言とため息を吐き出し、フロントガラス越しに広い空を見上げた。寒気に張り詰めた水色の空に、飛行機が航跡を雲に変えながら音も無く飛ぶ。エンジンがかからず暖房も使えない車内から出ると、一月の刺すような海風が吹きつけた。
(こういう日の夕陽って、怖いくらいキレイなはずなのに。こんなとこで故障って…。)
朝から自分がヘッドライトを消し忘れていたせいで起きたバッテリー上がりなのだから、誰にも文句は言えない。間が悪く、ロードサービスは混み合っていて待たされることになった。
 沙月は、恨めしそうに愛車のフィアット500へもたれかかった。ルーフの向こうに風力発電の白いプロペラが立ち並び、緩やかに回っている。砂丘とプロペラ機が真紅に染まる様をカメラに収めたくてはるばるドライブしてきた沙月だが、夕暮れまでにベスト・ビューポイントにたどり着けそうにない。
(シュンが一緒だったら、ライトの消し忘れなんて100%ないのにね。)
 運転免許を持っていない俊介(しゅんすけ)は、助手席専門だ。ドライブ中は、古びた愛車の世話を細やかに焼いてくれる。
―さっちゃん、ミラーずれてない?室内灯つけっぱなしだよ!あ、半ドアだ!
愛車の世話だけじゃない。ナビゲーション確認は勿論のこと、運転手の沙月へグッドタイミングでお茶を差し出し、眠くなりそうな時にはフルーツキャンディーを口に入れてくれるという、すばらしい助手なのだ。
(健康的なお弁当まで作ってくれちゃって…あたしがジャンクな外食好きなの知ってるくせに、まるでお母さんよ。)
 1年前、会社内の他部署から誘われた合コンで初めて顔を合わせ、そこそこイケメンで草食系の俊介と出会った。熱心にアプローチしたのは沙月の方だ。自分が無い物ねだりをしてるのはわかっているけれど、最近は物足りなさを感じる事が多くなっていた。
―今週は独りで出かけたい場所があるの。久しぶりにそれぞれで週末をすごそうよ。
3日前にメッセージを送った直後、俊介の返信は真っ暗に落ちこんでいた。
―わかった。でもぼく、もしかしてさっちゃんに何か悪いことしちゃった?

「あのねえ…それが悪いとこなの!悪いことしてないんだから堂々としていなさいよ!だからあたしは、もう一歩先まで踏み切れないんでしょ!」
スマートフォンの画面を見つめながら沙月が大声でつぶやいていると、いつの間にグレーのワゴン車が近くに停まっていて、作業服姿の男が窓から身を乗り出していた。男の驚き顔に気づき、沙月はあわてて取り繕った。
「あ!もしかして、ロードサービスの方ですか?」
しかし、男はイヤイヤと手を横に振った。
「洒落た車が停まってるなぁと思って、通りかかったヒマなおっちゃんだよ。しかし驚いたな、近づいただけでオレ、どなられたかと!」
「ごめんなさい、大きな独り言でした!」
 決まり悪そうに頭を下げ、沙月は修理業者を待っている事情を説明した。
「ああ、この辺なかなか来てもらえないんだよ。俺も今ケーブル積んでないしなあ。」
作業服姿の男はすまなそうに肩をすぼめたが、海岸から駐車場へ近づく人影を見つけ、オーイ!と手を振った。
「いいとこにまたヒマ人が来たな、あ、おばちゃん達も散歩かい!」
犬を連れた男が現れ、反対側からは老夫婦がゆっくりと歩いてやってくる。
呼び声に気づいた人々は、こちらへ集まってきた。みな顔見知りらしく、親しげに挨拶を交わしている。
「かわいい車に、きれいなお姉さん見かけたからってぞろぞろ集まってきちゃった!」
唯一の女性がアハハと笑って沙月に近づいた。女性の夫らしき老紳士は、目深に被った帽子をちょっと上げ、沙月に挨拶した。
「こういうハイカラな外車はここらじゃ見かけないもんな。」
作業服の男にケーブルを積んでる車がないか聞かれると、皆は申し合わせたように肩を落とした。
「息子夫婦も孫も車で出ちゃったから、一台も無いわよね。」
「うちは軽トラックならあるがつなぐやつないし、大体あれもエンジンすぐかかんないかもしれん…。悪いね、協力できなくって。」
沙月は恐縮し、皆に頭を下げた。
「すみません、気を使っていただいちゃって!大丈夫ですよ、あと一時間ちょっと待てばロードサービス来てくれますから!」
「だってなあ…あと一時間もこんな何にもねえとこで、エンジンかからなきゃ暖房も当たれないし大変だろうさ。」
「海岸の方へ散歩しようかなって思ってたとこです。歩けば温まりますし!」
手袋をはめて支度する沙月を見て、老婦人がいい事を思いついたように手をたたいた。
「散歩するなら、サボテン群生地はどうかしら!最近ちょっと話題になったのよ。」
「へえ…サボテンが生えてるんですか?」
「テレビで紹介されて見に来る人が増えたんだって、ちょっとした名所なのよ。」
「ああ、確かにな!」
「ネットでも動画で出てたな。」
老紳士と犬連れの男は賛同したが、作業服の男はうーんとうなった。
「サボテンばあさんが来ると面倒じゃないか?」
「ああ、あの脱走ばあちゃんか!」
困惑と苦笑いが混ざった複雑な表情の一同に、沙月はたずねた。
「サボテンを管理しているおばあさんが気難しい方とか?」
「近くの老人ホーム脱け出してきて、誰か見つけるとベラベラくっちゃべるんだよな。いつも双眼鏡を首からぶら下げて、ホームの屋上から人が来ないか見てるそうだ。」
「最近じゃ脱走先は大体サボテンって解ってるから、ホームの職員ものんきに構えてるらしいけど、最初は俺んとこの消防団集めて行方不明捜索させられたっけな。」
「とんでもない大ホラ吹くから参っちまう。あのサボテン植えたのは宇宙人なんだとか、アメリカから台風で飛んできたとか…。」
「フフフ!私もへんな話聞いたけど忘れちゃったわね。でも時間つぶしにはちょうどいいんじゃない?あの方の語る物語!」
ガヤガヤと盛り上がる彼らをよそに、沙月はスマートフォンでその奇妙な名所を検索してみた。現在地から5分ほど歩いたすぐ近くに在るようだ。
「サボテン、なんだか面白そうなのであたし行ってみます!ちゃんと地図に出てますから大丈夫。ご心配ありがとうございました!」
そう言ってスタスタ歩き出した沙月へ、作業服姿の男の声が追いかけた。
「ばあさんにつかまったら、彼氏待たせてるからとか言って、上手く逃げといでー!」
了解でーす!と調子よく手を振りながら、沙月は再び俊介を思い出した。
(備え万全のシュンなら、こういう時は車でじっと待つよね。)
 カイロや温かい飲み物を忘れず、楽しげに助手席へ乗り込む俊介。大学時代から独り暮らしをしていたので料理は勿論、菓子作りまでこなしてしまう。それに比べ、三十路を目前にしてもなお実家暮しの沙月は、社会人としては自立しているものの、未だ母の手料理や家事に頼っている。料理、裁縫、部屋の整理整頓にいたるまで器用な俊介は、同じ場所で風景写真を撮るのさえ、沙月より常にセンスが良かった。
(シュンよりあたしが得意なことって、車の運転だけじゃないのかな。)
悔しいけれど、一人の時は素直にそう認めてしまう沙月だった。

 松林の合間に住宅が見え隠れする道沿いに、真新しい看板が現れた。
(サボテン群生地、天然記念物だって…。普通に家とか在るけどここ?)
砂に埋まった細道をほんの数歩進み、沙月は絶句した。
「!」
 砂の丘の一角に、異質な空間がはめこまれていた。ぎっしり密集してそびえるウチワサボテンたち。楕円型の肉厚な葉は鋭利なトゲに覆われ、にょきにょきと大樹に育っていた。一月の寒風など寄せ付けぬ鮮やかな緑色は、澄んだ水色の空を背景にツヤツヤ輝いている。
「すごく面白い風景ね!」
 夢中になってサボテンの写真を撮った後、簡素な説明板に気づいた沙月は、それを読んでみた。
「100年ほど前から生えてるのに、由来は不明なんだ…。夏、花が咲くのね、また来なきゃ!今度来るときは…。」
俊介と同じような付き合いをしているのだろうか、と足を止めた。沙月がそろそろ新しい人生の決断を考えているのに気づいていないのか、俊介はちっともそんなそぶりを見せない。
 沙月は、サボテンの大樹のそばでぼんやりしていた。すると背後からにゅっと人が現れ、だしぬけに声が響いた。
「ようこそ!わがサボテンのさとへ!!」
「ひゃ!」
不意をつかれてよろけた沙月は、あと数cmでサボテンのトゲにひっかかるところで老婆の腕にささえられた。サボテンの色に合わせたかのような緑色のジャージ上下を身に着け、毛糸の丸い帽子をすっぽり被った老婆は、小柄な細腕に驚くほどの力を秘めている。
「お若いのに足腰ヘナヘナですな!それではワタクシの年までもちませんぞ!」
「すみません…。」
沙月は体勢を立て直して頭を下げたが、
(突然おどかしたのはおばあさんでしょ!)
と言い返したかった。うわさ通り首に双眼鏡をぶら下げて、老婆は沙月の顔をまじまじと見上げた。
「じきに日の入りだというのに、お若い女子(おなご)さん独りで寂しい所へ来ては物騒ですぞ!」
 水色の空は色あせつつある。老婆が言うように、日が落ちればかなり寂しげな場所になるかもしれない。沙月が周囲をぐるっと見渡すと、数軒ある民家の向こうに鉄筋の建造物が在った。そこが老人ホームならば、双眼鏡なしでもこちらが見えそうな距離だ。
「おばあさんこそ、お一人で歩いていたら危ないでしょう?」
老婆はフン!と胸をそらし、松林のはるか向こうに小さく見える屋根を指差した。
「心配後無用!ワタクシ元陸上の国体選手ですから、あそこの我が家まで5分で走って帰れますぞ。悪い輩もワタクシの足にはついてこられません!」
自信満々に言い切る姿を見て沙月は一瞬言葉に詰まったが、へえ!と感心するふりをした。
(ホラが始まった…。ま、知らないことにしておいてあげよう。)
老婆は得意げに深呼吸し、胸をそらした。
「このサボテンたちがなぜ生えたか、聞きたいですかね?」
(出た!よーしきいてやろうじゃないの!)
内心クスクス笑いながら、沙月は驚き顔で答えた。
「もしかして、おばあさん知っているんですか?是非聞きたいです!」
海辺で出会った女性が言っていたように、時間つぶしに話を聞くつもりで、沙月はそんな愛想を口にした。
「よろしい!ならば、とっておきの話を聞かせてあげましょうぞ!」
老婆がこれ以上ないくらいに得意げに胸を張るのを見ていると、沙月の心の片隅に、ちょっとした意地悪な気持ちが芽生えてしまった。
「でも、おばあさん!宇宙人が植えたとか、アメリカから台風で飛んできたって話以外でお願いしますね。」
老婆は沙月の言葉を聞いて、急にしゅんと背中を丸めた。そして、ぼそぼそ小声でつぶやいた。
「ワタクシの事を誰かから聞いてきたのですな…おおかた、ホラ吹きばあさんだとか、ホームを脱走したニンチショウとか言ってるのでしょう?ならばワタクシなど無視すればよろしいのに…。」
沙月のからかいで落ち込ませてしまったらしい。うつむいたまま去って行く老婆を追って、沙月は大慌てにあわてた。
「ごめんなさい!確かにおばあさんのこと知ってましたよ。でも、面白そうだからほんとに聞きたいなって思ったんです、おばあさんのサボテンのお話。」
沙月のその言葉が終わらぬうちに、老婆はシャキンっと背筋を伸ばして振り向いた。
「そうですか!そんなに聞きたいならば仕方ありませんな!!」
得意げなニヤニヤ笑顔だったので、沙月はあっけにとられたが、ふきだした。
「おばあさん、しょんぼりした振りしてたんでしょう、かなり女優!」
老婆はすました顔でレジャーシートを広げると、まあお座りなさいな!と手招きし、自らちょこんと正座した。沙月もおじゃまします、と腰を下ろした。
「かわいいシート。祖父母の家にあったのと同じかも!あたしが子どもの頃好きだったキャラクターで、ばあちゃんが買っておいてくれたんだった…。」
 沙月は、久しぶりに祖父母の顔を思い出した。幼い頃は長い休みがあれば必ず泊まりに訪れていた祖父母の家は、今日ここへ車で来るより遠くない土地にある。沙月が仕事の付き合いや俊介との時間を優先させていた去年、祖父母は空の上の人となってしまった。
 目頭が熱くなったのをごまかすように、沙月は元気に言った。
「こういうのって遠足以来で楽しいな!そうだ、おばあさん!おやつはいかが?」
沙月は背中のリュックからチョコレートの箱を取り出し、老婆の乾いた掌へのせた。
「これはこれは!ワタクシお返しするものがないのに申し訳ありませんですな!」
「ううん、サボテンのお話聞かせてもらうお礼ですから。」
「ああ、そうでした!では、今まで誰にも内緒にしておいた、とっておきのホントのお話をしましょうな。」
 西の空に黄色い光線が増えてきた。老婆がさて!と語り出した。
「昔々、どれくらい昔かと言うと我が夫がここに生まれる数十年前、今から100年くらい前!夫の父、つまりワタクシのお舅さまが幼子の頃のお話です…。ある日、この郷に、空から白鳥が落ちてきた!ほら、あんなふうに飛んでいる最中だったそうですぞ!」
老婆が力強く真上を指差す。
(白鳥なんてこの辺りにいないでしょ…。)
つられて上空を眺めた沙月ははっとした。
「ほんとに白鳥いるの!」
3羽の大きな鳥が陽に輝きながら頭上を横切って行く。首を伸ばした鳥影は、空に浮かぶ白い十字架に見えた。沙月は写真を撮ることも忘れ、ただ美しさに見とれた。
「ええ、あれはイチバンドリですな。」
「イチバンドリ?」
「昼の間、田畑の落穂をたんと食べ、夕にねぐらの沼へ帰る一番早い鳥のことです。バードウォッチング好きな我が夫がそう名づけました。」
「へえ、鳥好きなだんな様なんだ!あたしの彼もそうなんです!」
 二人でドライブ中、路肩に野鳥の雛が落下していた時のことを思い出した。親鳥が来るまで見守らなくちゃ!とがんとして車に乗らない俊介に付き合いきれず、沙月は別行動で車を走らせた。数時間後、無事飛んでいったよ!と電話をかけてきた俊介の嬉しげな声を聞いたら、ドライブの目的地へ行けなくなった事でヘソをまげた自分が嫌になったのを思い出す。
「日暮れはまだ先ですからもっとご飯を食べられるのに、早めに切り上げて帰るのがイチバンドリですぞ。ぎりぎりまで食べてから帰るのはオシマイドリ。まあワタクシが白鳥だったらオシマイの口ですな。我が夫にはいつもそう笑われてました。」
「フフッ…おばあさん食いしん坊ですね、あたしもおんなじ!彼にもよく言われるの、あたしの食い気にはかなわないって。」
沙月は、俊介よりも自分が勝る点がもう一つあったことを思いついて笑った。
「そうですか!ワタクシたち、いろいろ気が合いますなあ!」
ひとしきり笑いあった後、老婆は再び語り出した。その笑顔と語り口調が今までになく穏やかであるのを、初めて話を聞く沙月には知る由もなかった。

 ―白鳥が海岸沿いの砂地へ落ちて来たある冬の日。ぐったりしている大きな鳥の体を抱いて、まだ幼い少年はどうしたものかおろおろした。農作業が忙しく朝から夜まで帰らぬ父母に相談など出来ないし、当時海沿いのこの村には、動物どころか人を診てもらう病院もなかった。 
 少年はなんとか鳥の命を助けたかった。自分に割り当てられた麦飯雑炊を納屋に隠した白い鳥へせっせと運び、長いくちばしへ流し入れてやっていた。その甲斐あって、ぐったりしていた白鳥は凛とした姿勢で首をもたげるようになった。少年は嬉しくて、自分の腹がへこんで大きな音を立てることも忘れて喜んだ。毎日自分を待つつぶらな瞳に、少年は幸せを感じるようになった。 
 白鳥はみるみる元気を取り戻したけれど、落下した時に傷ついた羽はなかなか治らず、羽ばたこうとしても倒れてしまう。そうしているうちに、納屋に隠していた鳥は見つかってしまった。父は息子に話を聞いた後、その鳥を家族の食糧として命を絶つと宣言し、連れ去ろうとした。

「ちょっと待って、その父親ひどいよ!息子の優しさにはまったく無頓着ってこと?」
 沙月は身を乗り出して口を挟んだ。老婆の話に聞き入るうちに、それがホラ話かもしれない事などすっかり忘れていた。
「珍しくないことでしょうな、人間が健康に生きていくこともままならない時代ですし、ここらは貧しい地域だったそうですからな。」
「そうですか…。」
沙月は気持ちを沈め、再び老婆の話に耳を傾けた。
 
 目の前で殺されてしまうくらいならすぐ外に逃がしてくると、少年は鳥を抱えて家を飛び出した。そうは言っても飛べない白鳥をどこにどう放したらいいのか。日が暮れればアナグマや野犬もうろつくのだから、飛べない鳥などひとたまりもない。
 夕暮れ時。砂丘の上に白鳥をそっと置き、少年が途方に暮れていたその時、不思議な現象が起きたのだ。上空に見たことのない小鳥の群れが飛んでいく。その鳥たちが天の川のように空を横切り過ぎた直後、パラパラと何かが落ちてきた。少年が手に受け止めると、緑色で親指ほどの小さなカップ型の物体だった。それが砂地へ落ちると、むくむくと生き物のように大きく膨らみ、立派なサボテンに変身したのだった。
 サボテンなど見たことのない少年は仰天した。気づけば、砂丘に置いた飛べない白鳥はそのトゲトゲの植物にすっかり囲まれていた。どんな外敵からも守ってくれる要塞が突如現れたのだ…。少年は不思議な出来事を内緒にしていたが、例え話してもそんな夢のような話を信じる人はいなかったろう。春になるまで毎日サボテンの丘へ通った少年は、ついに翼の傷が癒えて北の空へ飛び立つ白鳥を見送った。
 サボテン林は残ったけれど、少年は青年になり妻を娶った後もそこを度々訪れた。海を挟む戦争が激しくなった頃、青年は戦線へ旅立つ前に幼い息子へサボテンと白鳥の話を伝えた。
 息子は父親に輪をかけ心優しい子だったので、その話を大切に胸へしまい、父が遠い南洋の戦線で命を落とした後も、海辺のサボテンを大切に見守った。

「息子は父の話を聞いていたせいか鳥や生き物が好きになり、動物のお医者になりました。優しい青年に育ち、美しい娘と幸せな結婚をしたのですぞ!」
「美しい娘っておばあさんのことでしょ?自分で言っちゃって!」
「以上!我が夫とワタクシの出会い…じゃなくて、サボテンがどうやって生まれたかの内緒話でした!おしまい!」
 沙月は思わず拍手した。まだ真上は青空だが、西の空はすっかり黄色い太陽が膨らみ始めていた。サボテンたちの緑色も刻々と濃くなっていく。その時、ポケットのスマートフォンが鳴ったので、沙月は立ち上がった。
「あ、ロードサービスさん!もうすぐ到着ですね、車から少し離れてますけどすぐ向かいますから、では…。」
 レジャーシートをテキパキたたんで帰り支度をする老婆に、沙月は頭を下げた。老婆の話で温まった心から、ぽろんと言葉がこぼれ落ちる。
「お話ありがとうございました。もっと時間があれば、おばあさんの優しいだんな様との恋愛話も聞きたかったなあ、あたしの彼の話も聞いてほしかったし。」
老婆は目を細め、満面の笑みを浮かべた。
「よいですか?夫を選ぶならば『心優しい』が一番!顔や金にだまされてはいけませんぞ。ま、我が夫はイケメンでもありましたが!」
沙月は一瞬笑ったが、大まじめな表情で深くうなづいた。
 サボテンの小道を下りたところで老婆は手を降り、沙月の向かう海と反対方向へ歩いていく。沙月はその小さな背中へ、おばあちゃん!と言葉を投げた。
「あたし、サボテンの花が咲く季節にまた来ます!その時は、心優しい夫も一緒だと思います!」
暗い路地の狭間で振り返り、老婆は双眼鏡を高くかざした。
「よろしい!楽しみにしておりますぞ!」
老婆が路地を曲がって消えてしまうと、辺りは急にしんと静まった。サボテンの緑色は、ますます濃く沈んでいき、寒風が乾いた音でぶつかってくる。
 けれど沙月の心の中には、黄色い花を満開に咲かせたサボテンたちが、明るい夏の陽に輝いていた。愛車が待つ海岸へ向かう足はとてつもなく軽く、遠く離れた灯台までも歩いて行けそうだった。
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