第1話

文字数 3,364文字

 蝉の声が聞こえる。うるさいなあと顔を顰めてみても、蝉たちの鳴き声は遠慮を知らない。
 透き通るような青い空には真っ白な積乱雲が立ち込めている。そこからはうんざりするような日差しが差し込め、路上に蜃気楼を作っている。
 八月上旬。夏休みに入り少し経ったこの時期の夏はあまりにも、快適さとは無縁な気候だった。
 自転車を漕いでいても汗が滲む。テスト週間だからと適当な言い訳を取り繕って切っていなかった髪の毛の所為で額が汗でぐちゃぐちゃになっている気がする。
 不愉快だ。
 夏はあまり好きではなかった。理由は単純で、暑いからだ。寒ければ服を着ればいい。けれど暑さはどうにもならない。裸で外を歩けばお縄にかかること間違いなしだし、なにより裸になったからと言って涼しくなるわけではない。まさしく八方塞がりだ。
 なるべく外になんて出ず冷房の効いた部屋でダラダラしていたい。
 文句ばかりが溢れ出してくるが、しかし今からUターンして家に戻ろうとは全く思えないのが不思議だ。
 僕は目に入った自動販売機の前に自転車を止め、水を買った。
 まあ時には休憩も大事だよな。
 誰かに批判されたわけでもないのに言い訳を取り繕っていると、道路を挟んだ向かい側にある公園が視界に入った。
 家の近所のこの公園で、昔はよく遊んだものだ。小さい砂場。鉄の錆びたブランコ。雨で濡れてギシギシ音を立てる木造の滑り台。遊具は昔のままだった。いや、むしろ昔よりも古びてきているようにも感じられた。
 町内会の集まりもここであったし、ラジオ体操もここでやった記憶がある。お世話になった公園だ。
 まあとはいっても、ラジオ体操の時間に起きられることなんてほとんどなかったので、数えられるくらいしか来たことないと思うが。
 僕が幼稚園とか小学生低学年とかの頃は、同級生たちとよくここで遊んでいたし、それなりに人もいたような気がするが、今こうして見てみると、全く人がいなかった。
 そういう時代なのかなあ。
 なんだか寂しいものである。あまりにも昔のことなので具体的なエピソードは出てこないにしても、ここで遊ぶのは楽しかったという漠然としたイメージくらいならある。そんな公園が今閑散としているというのは、心の水面を撫でるものがある。
 「……」
 少しだけ口をつけた水を籠の中に入れ、僕はまた自転車を漕ぎ始めた。
 なんでこんなことを考えてしまったんだろう。近所にあるというだけあって、この公園はよく目にする。しかしその都度その都度、こんな昔のことを思い出しているわけではない。
 それは多分、今から会う人の所為なのだろう。
 「……」
 つうかこのチャリ重いんだよな。電動自転車買ってくれないかなあ。
 そんな関係ないことで思考を埋め尽くしながら自転車を漕いだ。
 そのまま少し自転車を漕いでいると目的地に着いた。
 目的地。それは大学病院だ。とはいえども、僕がお医者さんの厄介になろうという訳ではない。あくまでもお見舞いだ。
 この大学病院は、家から割と近いところにあるが、僕は生まれてこの方大きな病気をしたこともなければほとんど風邪もひかないので、こうしてここに来るのは初めてだ。
 そういえば姉ちゃんの職場がここなんだっけ。姉ちゃんにも久し振りに会うことになるかもなあ。
 駐輪場に自転車を止め、中に入る。すると、涼しすぎるくらいには涼しい冷房の風が出迎えてくれた。汗が乾き、体温が下がっていく。
 ああ、ずっとここにいたいなあ、帰りたくなあ。外暑いし。
 僕はさっき買った水を飲み、一息ついた。なんだか完全にくつろごうとしているようにも思えるが、僕がここに来たのは間違っても涼むためではない。
 お見舞いをしなければ。
 始めて来た大学病院は、僕が行ったことのある小さな病院とは規模が違った。ロビーにはずらりとソファーが並べられていて、そこにはまばらに患者さんたちが座っていた。その患者さんたちの表情も様々だ。隣の席の人と談笑している老人達。俯いて顔色が見えないスーツを着た男性。
 僕のようにお見舞いに来ただけの人もいると思うが、大半の人がどこかしらなにかしらの不自由を抱えた人たちなのだろう。そこまでの辛気臭さは感じないが、しかし長居したいとは思えない。
 ツンと鼻につく病院特有の匂いがして、僕は思わず顔を顰めた。
 取り敢えず受付を済ませた僕は、見舞い相手の部屋を教えてもらい、そこに向かった。途中、用を足しにトイレに入った。
 手を洗いながら鏡で自分の顔を見る。鏡に映った僕は我ながらかっこよかった。というのは冗談で、恐らく可もなく不可もない顔をしていると思う。とはいえども異性から熱烈なアプローチをされたことなどないのでもしかしたら不可の方かもしれない。
 そんなことよりも、風と汗で前髪がぼさぼさになっている方が深刻な問題だった。僕は思わず唇を突き出したが、その様子が尚のこと滑稽に見えたのですぐにひっこめた。
 とりあえず手櫛で気休め程度に前髪を直し、トイレを出た。
 一つ息を吐き、受付の人に言われた部屋まで向かった。
 307。
 ここか。
 扉にはちゃんと見舞い相手の名前が書いてあった。
 唾を飲み込みノックをすると「どうぞ」と声があった。
 ままよ。と思いながら扉を開けた。
 「あっ」
 扉を開けた瞬間、僕の口から思わず声が漏れた。
 そこには女の子一人がベッドで横になっていた。
 透き通るような白い肌。
 流水のような長い黒髪。
 開いた窓から風が吹き、彼女の髪を靡かせた。
 そんな彼女の姿に、僕は思わず見とれてしまった。
 「久しぶりだね、サチ」
 彼女は僕の方を見ながら、微かに笑った。前と変わらない笑顔だった。
 「あっ、うん」
 「どうしたの?そんなとこに立って。入ってきなよ」扉を前で立ちすくむ僕を見て彼女がからかうように笑う。
 「そうだね、そうしようそうしよう」
 思い出したように僕は扉を閉め、ベッドの隣に立てかけてあったパイプ椅子を組み立てて座った。
 病室は割と広く、恐らく五畳から六畳くらいの広さはあると思う。天井も壁も、あまつさえカーテンさえも真っ白で、かえって気味の悪さを感じてしまう。ここにずっと一人でいなきゃいけないと考えると、少し寂しいかもしれない。病室の棚の上には、おばさんからのお見舞いの品だと思しき花が花瓶に植えられていた。
 「久しぶりだね、若菜」
 「ほんとにそうね」
 若菜。今村若菜。僕の幼馴染。
 僕と若菜は幼稚園からの仲で、当時は家も近かったこともあって家族ぐるみで仲が良かった。元々体調を崩しがちだったのだが、ここ数年は特に酷かったようで都会の病院に入院するために引っ越し、疎遠になっていた。ここに戻ってきたのは、つい最近のことだと聞いた。
 僕はもう一度、近くで若菜を見た。やはり若菜の印象は昔から変わらない。その姿は、見るものに儚げで危うげな印象を与える。薄い水色のパジャマはやけに大きく、そこから流れる腕はやけに細い。抱きしめたら折れてしまいそうだし、風が吹いたらそのまま飛ばされていきそうだ。けれど表情はどこか勝気で、キリっとした目元やツンと張った唇が、その性格を伺わせる。
 「元気してた?」
 「勿論」
 「そっか。それならいいの。まあ、あんたの取柄なんて健康くらいのものだものね」
 「言ってくれるなあお前」
 感動の再会を果たして早々、若菜から悪態をつかれる。
 不満そうな僕を見て、若菜が楽しそうに笑った。そんな若菜を見ながら、僕も思わず笑ってしまった。
 若菜は、若菜のままだ。
 「ねえ、何か話してよ」
 「話って?」
 「最近会ったこととか、なんでもいいから」
 「んー、そうだなあ」
 若菜の無理難題に応えるためにとにかく思いついた話題を喋った。自分から話題は何でもいいと言っておきながら、僕の話がいまいちだと「面白くない」と不満そうにしていた。けれど、僕が期末試験の点数がすこぶる悪かったと話をしたら嬉しそうに笑いながら「やっぱりあんたの取柄って健康だけじゃない」と言って僕をからかった。
 楽しかった。久しぶりに若菜と話すのは、本当に楽しかった。
 若菜が退院して、また一緒に学校に行ければ、何気ない毎日も楽しくなることだろう。
 まあ、それがかなわない望みだということくらい、僕にも分かっていたが。
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