Bye bye boy

文字数 1,941文字

 急にはげしくなった雨が、フロントガラスをモザイク模様に変えていった。私は駅前のロータリーで、塾から帰って来る小学生の息子を待っていた。蒸し暑さにエンジンを掛けると、同時にラジオがついた。有名な女性シンガーソングライターの特徴的な声が流れてくる。知らない曲だった。終わった恋の歌、「Bye bye boy♪」とリフレインされるメロディーがどこか懐かしく、脳裏に俊介の横顔が蘇った。

 きっと、このあいだのサークルの同窓会で話題に出たせいだ。ネット上で俊介の書いた記事を見つけたと、同期の男子が話していた。Webライターって、食べていけてるのかしら?

 大学の同級生で同じ運動系サークルにいた俊介は、明るさと無鉄砲さで先輩からも後輩からも人気だった。世話焼きな私とアイデアマンの俊介は、サークルのイベントではよいコンビで、一緒に仕事をするうちに、自然と付き合うようになった。スポーツ観戦に熱中している俊介につきあって、ラグビー、サッカー、野球、テニスと、デート先はもっぱら競技場だった。

 「俺、スポーツライターになりたい。海外の一流選手に俺の感動したプレーについて、いろいろ聞きだしたいんだよなぁ。」
 「俊介、TOEIC何点だっけ?」
 「スポーツ用語、試験に出ねえんだもん。」
 「それ以前の問題じゃない(笑)」

 その日、その時の輝きだけを見ていられた時間、たわいなく笑い転げ、たわいない喧嘩をした。
 それが、最終学年になると友人たちの空気が変わってきた。長い経済の停滞はまだ明けず、就職はまだまだ厳しかったのだ。私は父のコネを使ってようやく銀行の一般職の内定を得た。だが、俊介はスポーツライターになる、と豪語してスポーツ紙を出している出版社だけをねらい、ことごとく討ち死にしていた。

 「どうするのよ、このままだと卒業しても無職よ!」

 その頃、フリーターという言葉があったのかどうか思い出せない。きつい言葉を投げかけても、俊介はのんびりと

 「バイトして金貯めて、海外へ行ってトップ選手の試合を見て、目を肥やす。」

 初めて、本気の喧嘩をしたのは、そんな会話の後だった。興奮した私が泣き出して、俊介が慰めて、いつのまにかキスに代わり、抱きしめあって終わった。それから、何度かそんなことを繰り返しながら、結局、俊介は就職せずに卒業した。
 卒業してからも二人の恋愛は続いた。単調なOL生活をする私には、お金が貯めると海外で貧乏旅行をして来る俊介の話は、一番のおみやげだった。実際、土産物を買ってくるような金銭的余裕は彼にはなかったのだし。それでも、年月が心にちりのように不安を積もらせていく。

 「次はどこへ行くの?もう行くとこなくなったんじゃない。」
 「うん、今度は少しまとまった金を貯めて、腰を据えてアメリカのプロスポーツを勉強しようと思ってる。」

 私は、それ以上何も言わなかった。俊介は今までのイベンターのバイトではなく、道路工事現場で働きだし、日本にいても働く時間が違い過ぎて、自然と二人の間に距離ができた。
 いや、二人の距離は、きっと就職活動の頃から少しづつ広がっていたのだ。それが、いつのまにか、手の届かない距離になっていた。

 『これから、アメリカに出発します。』
 『いってらっしゃい。元気でね』

 最後の会話はメールだった。就職しようとしない俊介をなじって大喧嘩をしたときに、俺はおまえのために自分の夢は捨てられない、と俊介は言った。それで私は泣き出し、自分のわがままで泣かせてしまったと彼は謝った。でも、それは少し違う。私も、私の夢を捨てられない、と思って涙が出たのだ。

 俊介がアメリカに旅立ってから、私は銀行の先輩に交際を申し込まれ、半年後に婚約した。一年後に結婚し、やがて息子が生まれ、マンションを買い、パートをしながら息子の塾の送り迎えやら、PTAやら忙しく暮している。そう、これがわたしの夢、わたしの望む幸せだった。家族でたわいなく笑い、時にはたわいない喧嘩もする。

 年月の中で携帯も何度か買い替え、電話番号もメアドも変わった。俊介とは、あのメール以来、連絡を取っていない。私はスマホを取り上げ、俊介の名前を検索しようとした。その時LINEの着信音がした。

 『雨で電車が遅れてる』
 『大丈夫、駅前で待ってるから。』
 『ありがと』

 舌足らずな息子のLINEの文字に、スタンプを返す。きっと嫌がってる…(微笑)

 彼は彼の夢を捨てられず、私は私の夢を捨てられなかった。いつか、夢の出口に立った頃に、どんな夢だったか、語り合えたらいいね。

 Bye bye boy、Bye bye girl。

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