第1話

文字数 14,167文字

「サイレンススズカのレースが、観たいのっ!」
音無鈴は切なる願いを、夕日が差し込むリビングルームに響かせた。
月野木馨が「わかっているって」と応答する。
「頼んだよ、カオル」
 ソファーに座る鈴の微笑みに、隣の馨は頭を掻いて、立ち上がる。
天皇賞秋を翌日に控えた十月最後の土曜日、晩秋を迎えると競馬界で話題になる名馬。腕を組む鈴は、知りたいと願っていたのが一週間前。
「一緒に観戦する方が、楽しいでしょ」
 嬉々とした鈴は、馨の頬にキスしたのを、懐かしむ。
誘いに二つ返事で応じた馨は、本棚にあるDVDを取り出し、液晶テレビを起動させる。鈴の両親と顔見知りになる程に音無家を訪れ、リビングの勝手を承知していた。
「ゲームでも、スズカは凄いからなぁ」
馨が笑みを零しつつ、映像を選択する。
サイレンススズカに鈴が興味を抱いたのは、流行するスマートフォンのアプリゲームが発端だ。有名な競走馬を美少女にして、可愛らしい「ウマ娘」を「育成」し「レース」で競わせるゲームに、ふたりは夢中だった。
「スズカは『異次元の逃亡者』で……」と、鈴がゲーム称号を称える。
「固有スキル名は『先頭の景色は譲らない!』だな」と、馨が追随した。
ゲームに登場したサイレンススズカは名称に劣らず、先頭に立って後を突き放す強い競馬だと、鈴がサイドテールを揺らし、嬉々として評した。
「やっぱり、気になるじゃん。本物がさ」
競馬は始めて二ヶ月の初心者が、「初めて好きになった馬」だと、鈴は少しはにかむ。ネットで簡単に結果に触れるのは味気ないと、サイレンススズカの過去レースを、馨と順を追って観戦する約束が、今日だ。
「サイレンススズカって、私たちが生まれる前年に活躍していたんだよね」
 鈴はDVDケースのタイトルを指でなぞり、レース振りや名の由来も気になると言い、二十年以上前になる自身の過去を思い出す。
音無陽子、鈴の母から幼少の頃に、その馬の話を聞かされのが、耳に薄く残っていた。
大人になった馨やDVDなど、サイレンススズカに惹かれる縁を、鈴は不思議に感じる。
「君の影響だね、競馬は」
嬉しそうな鈴は切り替わる画面を眺め、交際して関心を持ったきっかけを、颯爽とした声音で語った。
馨が頬を紅潮させ、リモコンを持つ手が、止まる。鈴は素直な反応に納得し、満足気に首を上下させた。そして「早く、用意してよ」と急かす。
準備を終えた馨が、鈴の脇に落ち着くと、画面にレース名が浮かぶ。
「バレンタインステークス。随分と可愛らしい名前ね」
鈴は期待で声を弾ませ、ソファーの隣に関心を示す。柔らかい肩に、男の手が伸びる。華奢な身体を抱きながら馨は、
「このレースからが、サイレンススズカの神話が走り出すんだ」と、紹介した。
「綺麗な栗色の馬……」
テレビ画面を見た鈴は、うっとりとして男の肩に頭を乗せる。

一九九八年二月十四日、東京競馬場の芝コースは一八〇〇メートル戦だ。十二頭立て十二番、大外枠へ最後にゲートインした。
揃った横一線のスタート。
第一コーナーから、向こう正面での先頭争い。内の馬が行くのを、スピードの違いで、外側から無理せずハナへと躍り出る。サイレンススズカを先頭に、縦の隊列が形成される。
二番手から最後方まで、実況中継が左から順にポジションと馬名を告げる。カメラが大急ぎで、左側へ先頭を捉えようと移動する。逃げ馬のスピードに、追い掛けるのに必死だ。
『大逃げを打ちました』とアナウンサーが興奮するも、二番手とは十馬身差を付けるサイレンススズカはどこ吹く風と、余裕綽々だ。
気が付けば、サイレンススズカは第三コーナーへ突入していた。
4ハロン(八〇〇メートル)45.9秒! 速い!
「一秒は速いな……」と、馨が驚く。
コンマの差を競う競馬、一秒の差は大きい。淡々とペースを、サイレンススズカは刻む。
『いい感じで行っているのか!? 速すぎるのか!?』
『完璧にひとり旅……』と、アナウンサーが前置きし、残り八〇〇の標識を通過する。
一〇〇〇メートルの時計は57.8秒! 相変わらずの高速だ。
「サイレンススズカっ!」
身を乗り出す鈴はレース振りに驚き、サイドテールを揺らして、馬名を叫ぶ。
「ここからだよ。鈴」
指さす馨が、目に焼き付けろと、さし示す。
サイレンススズカは、当たり前で何もないように、三、四コーナー中間の内側にある『大欅』を通過する。馨の目尻がピクリと動く、鈴はその緊張の意味が分からなかった。第四コーナーを、相変わらず軽快に飛ばす。
『かなりのハイペース! かなりのハイペース! 後ろもかなり離れてしまっている!』
アナウンサーが事実を連呼し、驚嘆を放つ。
信じられない光景だ。あんなに軽く楽しそうに走っているのに、実際のスピードはもの凄く速い。そのギャップが、鈴は不思議だった。
第四コーナーから直線へ、サイレンススズカが向かう。何故か、馨は嬉しそうだ。
喜びは安堵にも似て、競馬のクライマックスである直線の攻防を、興奮して待ち望む愉楽とは別で、満足な馨は自慢気だ。
直線に向いて、視座が変るとやっと後続が映る。後方の馬たちも、さすがに差を詰めてくる。鞍上の手が動く。どうなるのか? 鈴は食い入り、テレビへ釘付けになる。
残り四〇〇の標識へと向かう。
「これは……」と、精一杯を口にした鈴は、絶句する。楽な手応えで三馬身差、四〇〇メートルを切ると後続が詰めに掛かる。二番手以降の馬々を、前へと必死に追い立てる騎手たちの激しく叱咤する手と鞭の乱舞。
坂を駆け上がるサイレンススズカが力強く、走る。鞍上も手をしごき、もうひと伸びのサインを送る。最後の直線、二〇〇の標識を当然先頭で通過、ラストスパートだ。鞭など不要とばかりに、衰えなど無縁の如く、自らの脚色を彩っている。
「……強い」
『このまま一気に逃げ切る! スピードに任せて、押し切りそうだ!』
レース実況が事実というより、応援していた。鞍上も後ろを振り返る余裕がある。後続とは離れ、勝負あった。ゴール前は余計な動きが野暮だと、鞍上が馬なりに任せる。
『楽勝です! サイレンススズカ、逃げ切ったッ!』
二着に四馬身差を付けて、ゴールを駆け抜けていた。天性の逃げ馬であるサイレンススズカを象徴する、レース振りだった。
走りを見た鈴は、あ然とし、脱力して、惚けていた。異次元のスピード、美しい栗色の姿に魂を奪われたのだ。
「このレースが、快進撃の幕開けだよ」と、馨が評しても、上の空だ。
「凄いわね……」
切ないひと言が、吐息に紛れる。
「二着の騎手もあまりの強さに、放心したらしい」
競馬の知識が豊富な馨が、裏事情を披露する。
「タイムも1分46秒3。優秀だよ……」に続き、
「……良馬場だけど、見た通り馬場もボコボコしてて、良くない状況での時計だからねぇ」
頷く鈴が「しかも、十二頭立ての十二番の大外枠からの逃げでしょう」と、感心する。
普通、逃げ馬は外枠不利だ。
「まあ、あの馬にはそんなの関係ないね。それよりさ」
馨は鈴の顔を覗き込んで、レース前の体調を披瀝する。
「実は、腹痛を起こしていてさ」
鈴がどういうことなのか、と質した。
「木曜日には回復して、土曜日のレースには間に合ったけど」
「それって……」
何ごとかと、言い淀む鈴。
「体調万全でない状態で、あのパフォーマンスなんだ」
衝撃で頭を揺らした鈴は桜色の可愛い唇を開け、弾む胸で息を吹く馨の宣言を耳にする。
「このレースは、序章にしか過ぎないんだよ」
 今、鈴はサイレンススズカの伝説に、誘われようとしていた。
「もう、一目惚れねぇ……」
うっとした恋心を漏らした鈴は速くて美しい栗毛の馬に、胸と頬を熱くする。
「俺とどちらが、カッコイイ?」
仲のいい彼氏、答えが分かって、わざとらしく迫る。
鈴は「スズカに決まってんじゃん」と、当前の如く即答する。
「競馬史上、最も印象に残る名馬。サイレンススズカだわ」
「バレンタインステークスだけで、史上最高か」
さすがに馨も、サイレンススズカへの恋に落ちた鈴に、呆れて一笑に付した。その彼も「そうだよな」と改まって、評し始める。
「史上最強馬は、シンボリルドルフ、ディープインパクト。アーモンドアイも候補かな」
これは世代間の論争かもと、彼は見立てた。
「確かに、競馬史上最も印象に残る名馬なら、サイレンススズカかもな」に加え、
「今、見たように天性のスピード、外連味のない逃げでファンを魅了したからなぁ」
馨はテレビで見た、JRAのコマーシャルだと言う。
「『HERO IS COMMING・』だよ。影すら踏ませなかった『孤高のHERO』がキャッチフレーズ。伝説の逃げ馬として、語り継がれているなぁ」
神話となったサイレンススズカの競馬。特に古馬で活躍したと、馨が解説する。
今の満年齢でいう四歳馬として、始動レースであるバレンタインステークスが蘇った。

二〇二✕年十月二十四日、天皇賞秋の前日。鈴は馨を東京の荻窪にある音無家に誘った。鈴の両親は各々で外出しており、偶然にも馨の父母も出掛けているのが理由の一つだ。
ふたりだけのリビングルームで肩を寄せ合い、スズカの過去レースを観戦していた。
「確かに印象深い馬だわねぇ」
鈴が頬を紅潮させたのは夕陽のせいだけではない。
「感動したのは確か」と、口調は熱を帯びる。新たな発見した喜びを優しそうな笑みにして、サイドテールを可憐に揺らす。
「鈴は可愛らしいね」
母親の陽子さんに似ていると、肩を抱く馨が、「小さい頃から、活発で元気な頑張り屋さんも魅力的だよ」と、彼女の頬に軽くキスをくれる。アナタが誉めるなんて下心ありよねと、苦笑する鈴も満更ではなさそうだ。
「馨だって、恭一さんに似てシャープな面構えだよね」
鈴も彼の父親、月野木恭一と比べた。
「身体だって、幼少から空手や柔道などの武道で、鍛えられているし」
鈴がお礼に面体を誉め返す。
「同い年の幼馴染みは、良く分かっている」
馨は腕を組んで、納得した頭を上下に振る。
「子どもの頃、よく会っていたよね。私は母に、馨は恭一さんに連れられて」
鈴が人懐っこい目を投げる。
「あの頃の鈴は『お姉さんの言い付けを聞きなさい』と、姉貴風を吹かしていたよなぁ」
今の可愛らしい女子大生から想像出来ないと、馨が長い髪を愛おしみ、撫でた。
「私の方が、年上だもん」
「誕生日が一日違いのだけじゃん。鈴が七月九日、オレが七月十日でしょ?」
偉そうに言うなと馨が彼女の頭に親しみを込め、「昔から縁があったな」と揉みしばく。
黄昏時、リビングから見える音無家の庭、欅が「ワタシも会話に混ぜて」と、枝葉を揺らしていた。鈴が生まれた時に芽吹いた樹、双子のような存在だ。常に鈴の側にいて、喜怒哀楽を二十数年間一緒に過ごした相棒だ。

「馨はさ。来年、お父さんの会社なんでしょ?」
日本全国の競馬場巡りで一年、世界中を回遊した二年の合計三年間休学したと追加した。結果、いまだに大学四年生でコネがあるのに就職対策は言い訳だと、白い目で刺す。父親が経営する材木商社は、決定した就職先だ。外へ目線を反らせた馨は、「鈴だって、一浪一留でしょ? 大学生があと一年は続くから、羨ましいよ」と、澄まし顔で短く口笛を吹く。
「何、言ってるの!? あたしの一年はアメリカへの海外留学ですから」
社会学部の文系学生に、来年、獣医学部六年生が迎える実地研修や資格試験、大変さ厳しさが分かるのか? と、鈴は口を尖らせた。今日だって、馬の外科手術、施術方法を確認していたと、データがあるスマホを爪で弾いた。
「でも、サイレンススズカのレース振りは、素晴らしいだろ?」
責められて焦る馨は、話題を変るべく鈴に向き直る。
「それは確かに」と意識を同じにし、向ける先は、テレビの手前にあるセンターテーブル。サイレンススズカのDVD、本棚から一緒に出した写真集と本が、残照を浴びている。
「二月だよね。ウチの母親にと、持って来たのは」
馨と久し振りに会った日を、鈴は思い出す。
「高二の時、以来だった」 
端整になった大学生に惹かれて「ご無沙汰の馨と、付き合い始めたね」と鈴が目を細めれば、相手も自慢気に表情を緩めた。
「まさに、バレンタインの日さ。親父から『陽子さんに渡して』と、言付かって」
父の月野木恭一から、急に依頼されて音無家に来たと、馨も振り返る。今まさに観戦した過去レース、母の陽子に送られたDVDタイトルを、鈴は再び指で撫でる。
「陽子へ、届ける頃合いだから」
 そう勧めた恭一が、荻窪にある鈴の家へ送り出したとも言う。頃合い、という言葉が鈴の印象に残る。悪い意味ではなく、契機としてだ。

リビングのセンターテーブル。何かを求める鈴の目線が、サイレンススズカの写真集とハードカバーへ向かう。
馨が持参した時の鈴は、スズカはおろか競馬に関心がなく、本やDVDの存在は忘れていた。今日改めて目にするも、読んだことのない本が、何故か懐かった。
「馨が、本とかを寄越したのは、なぜ?」
「新しいサイレンススズカの本。借りてたの返すって、さ」
 確かに流行のゲーム、「ウマ娘」のキャラクターとして、今も脚光を浴びている。そして、手にしたもう一冊、大きな見開きA3サイズの写真集は、彼の現役時に発刊されていた。
「きれい……」が零れる表紙に、鈴の心が奪われる。
様々に彩られたシーンを手にし、興味津々と開いていく。どれもこれも美しい栗毛馬で一杯だった。夢中でページを、めくり続ける。生産牧場で生まれた時の姿、母馬へ乳をねだる姿、同期の仲間と放牧地を駆け回る姿、育成牧場での騎乗馴致、栗東トレーニングセンターでの調教、新馬戦からダービー出走、香港への遠征、サイレンススズカは多様な色彩を放っていた。
そして、今観たレースのページだ。一枚の紙が挟まっていた。鈴は、古ぼけた印画紙を掴む。少し黄ばんだ紙の裏に、自分の筆跡に似た几帳面な文字、
『1998.2.14 バレンタインステークス』と『響け! サイレンススズカ』
表に返すと、セピア色なす絵は輝いていた。
「あ、サイレンススズカ、」
写真は古いが、栗毛色の生気を余すことなく発していた。
「素晴らしい……」



感嘆を上げる鈴は、その馬に深く魅入る。今まで見た一番流麗な馬だった。レース映像も写真集も良かった。ただ、素人撮影の退色したカラー写真に、鈴は心を突き刺された。馬の立ち振る舞いを、美術絵画として留めていた。
サイレンススズカを中心に男女が、写る。自身に似た女性。息を飲む鈴が振り返ると馨、写真の男性と同じ顔つきと、認める。名馬と見たことのある男女の若い頃か。
「そんなことって……」
出会い頭に殴られた衝撃を受ける鈴は口を結び、絵を示す指が震える。
「……お母さんと恭一さん?」
口を広げる鈴は、母の音無陽子と馨の父である月野木恭一だと、確かめた。陽子は鈴自身を二十代後半にし、恭一は五年くらい馨を大人にした感覚だ。
東京競馬場のゴール前、返し馬で一瞬立ち止まった時か。サイレンススズカをメインに、左に陽子と右に恭一が手を広げていた。白衣を着る陽子は、左腕を天に突き上げ右腕を地面へ指す。対称をなす恭一は逆のポーズだ。阿吽の仁王像として左右の男女が、黄褐色に輝く馬を主役だと「飾り立て」ていた。12番のゼッケンを着けるスズカを、大好きで一番だと。若かりし陽子と恭一が仲睦まじく、思い出を閉じ込めていた。
陽子と恭一、恋人の雰囲気を注視する鈴に「付き合っていたのか?」の疑念が生まれる。何を意味する写真なのか? 何故、この本に挟まっているのか? なぜ、私の目に触れるのか? 湧き上がる疑問に、鈴は馬の名を囁く。
「サイレンススズカ、かぁ……」
DVDと写真集は二十年以上前に父親が買ったと、馨が述べた。
「まあ、オレは親父に競馬を教えられたクチだから」
父の影響で競馬にのめり込んだと、鈴の神経質な表情を和らげるべく、片目を閉じて戯けた。その恭一は酒に酔ってご機嫌の時、スズカの話をしたという。そこでは、
「親父が三十前の頃、陽子さんとは度々競馬に行ったらしい……」
「そうなんだ」鈴は意外だと応えた。
『いろいろ、あった頃だ』
そう父から聞かされ、「由美にはナイショ」と、
馨の母、月野木由美には秘密だと、恭一は口の前で指を立てたという。その上で、
「陽子さんとは良い友だち」
言い訳めいたのを、自分事のように照れ笑いで暴露する。
「馨はお父さんと、仲が良いねぇ」
感心する鈴、不意に自分自身の父娘関係に関心が向くと、嘆く。
「ウチは、面体も性格も似てないし、ゴツいの顔と恰幅ある身体。気質も感情的だしさ」
「新太サン、確かに鈴とは印象が違うねぇ」
 馨は、息を含めて、鈴の父である音無新太の名を、零した。
「音無家が決めた許婚。入り婿でないなら、お母さんは絶対に結婚していないよ」
鈴は、拳を振る。
「でも、新太サンから、鈴が生まれた訳だし」の声は、顔を背けて聞えないふりをした。母親似で可愛らしい鈴は、自身と異なる存在を「苦手で、嫌い」とまで、口にする。 
 良好な父と息子を羨ましがる鈴に、「娘と父親はそんなもんだろ」と馨がフォローする。
「そうなのかな」と軽く頷いた鈴に、「そんなものよ」と背中を叩いた。
気を紛らわせるべく馨が「昔、俺らが会う時って。四人だったよなぁ」と、子ども時分を回顧した。何かに突き動かされた鈴が、言霊を口にする。
「老欅。」
「そう、度々話題になったな」
馨も真顔を縦に振る。幼少時に鈴は母の陽子、馨は父の恭一、彼女らに連れられて、府中馬場大門の欅並木にある樹、二人が生まれた頃には寿命で伐採された老欅から生まれた若木に会っていた。
「鈴の親父サン。オレのお袋はいなかった」
腑に落ちない顔を捻る馨に、追随する鈴は薄い笑みを浮かべる。
「まるで密会だったね」
「親父たちも、腐れ縁だな……」
馨は、外の欅を目にして不思議がる。
「何でこの四人なのかって、思ったけどね」
鈴は、怪しさで頬を膨らませた。陽子が老欅の伝説を語る際、サイレンススズカの現役時を中心に、大学生から結婚までを口に掛けたこともあった。
「母は、就職した後に一時期、府中に住んでいたらしいけど……」
陽子に、恭一との関係を聞いても、「大学同期、お友達よ」と、はぐらかされ続けた。
しかも、新太に至っては、スズカの話題を挙げると、「聞きたくない、栗毛馬など殺したかった」と、物騒に血色を荒げた。陽子とは何かあったのか? 
「あの頃で」他に知りたいと、鈴が身を乗り出した。「騒動」があったのを陽子から耳にしていた。そして、
「サイレンススズカを、」と口の端に掛け、一呼吸置く。
「新太は、本気で殺そうとしていたの?」真顔で娘の鈴が、射貫く。
「ねえ、馨。由美さんから何か聞いていない?」と、確認する。
問われた先の大きな胸に空気が吸い込まれ、止まる。鈴も息を忘れ、次の台詞を辛抱強く待つ、が。
「さあね?」と、ゆったりとした緊迫で、煙に巻いた。
母親の由美を庇っていると、鈴は自分自身を了承させた。
現役時のサイレンススズカと関わる親たち、情報は断片的で、結婚前の謎は憶測するのみ。悩ましげな鈴は、憂鬱を振り払うべく、漆黒の髪を左右に揺らした。
「……その陽子さんと恭一だけと」
馨が前置きし、年一回ほど天皇賞秋の前日に会っているのが、「大人になって、分かった」と、口から零した。鈴も「言われてみれば、そうだね」と追従した。
今日はまさに、再会の日だ。確かに毎年、陽子だけでなく新太も行き先知れずと、鈴が想起した。欅の影が伸びる薄暮のなか、ふたりは黙り込む。
陽子の過去、鈴の心に陰影が頭を擡げる。陽子が避け、新太が怒る、恭一との因縁浅からぬ仲。噂話は鈴自身にも、晴れぬ暗雲として纏わり付いた。忘却の彼方で眠っていた闇は剥き出しの表情で鈴を襲うのか。古い写真を契機にした昔日は晦冥か。鈴は遠のけたいと願い、口を揺らす。
「ねぇ、馨」問い掛けると、「サイレンススズカ。次のレースが見たい? 鈴」が、返る。
「うん、そうね」と、短く同意を示した鈴。
「サイレンススズカかぁ」馬名を告げた馨が、
「秋の天皇賞が近くなると、思い出すよなあ」と、深まる季節の寂寥を呟き、DVDの映像をスマホにロードする。
「中山記念、小倉大賞典、中京記念、金鯱賞」
 馨は一気にこれから観戦するレース名を告げ、一呼吸置き、
「宝塚記念、春のグランプリだ」と宣言し、「毎日王冠も忘れちゃダメだな」と口調を舞い上げる。
鈴は一気に、サイレンススズカの世界に引き込まれる気がした。

「リアルの天皇賞秋も観戦しないとな」
 馨の誘いも、感動に耽る鈴にはよく聞こえない。
「鈴、片付けたら、府中に行くぞ!」
 サイレンススズカへの想いに没頭する鈴への大声が、現実へと引き戻す。気が付けば、日が暮れていた。
「そうね。明日は競馬よね」
 サイレンススズカの過去レース、日曜の東京競馬場。両方同時の約束と、鈴が気付く。
馨がスマホにロードしたDVDを棚へ押し込み、整理整頓を手伝ってと、協力を求めた。保存したのは時間の都合で、サイレンススズカが走る毎日王冠までの実況だ。出先で観ようと、招く。
了解した鈴は、手にした本をセンターテーブルに一旦置き、大判の写真集を本棚へ返す。セピア色した紙が、はらりと床に逃げた。まるで捕まえてと主張する写真を、再び手にして、惹かれて見入る。バレンタインステークス出走時に写る今の馨と鈴に似たカップル。恭一と陽子か? 疑念が胸に巡る。
「急いで、秋の天皇賞が待っている」
どうせ並ぶなら早い方がいいと、馨は意気盛んだ。鈴は慌てて写真をショルダーバックに仕舞う。これから、府中へ向かう。明日、日曜日は天皇賞秋で、馨と一緒に観戦する。
「G1は生で観戦。徹夜で正門前に並ぶぞ」
「四コーナーがよく見える当日席、ゲットしなきゃ、ね」
 気勢を上げる馨に、鈴が誘いに乗る。出遅れて買い損ねた前売り指定席は、完売。今は土曜日の夜、数少ない当日席を確保する為に、今から東京競馬場へ向かうのだ。
「何度も競馬場には行ったけど、日跨ぎの開門待ちは初めてよね」鈴が期待を込めれば、
「正門で列に連なる前、久しぶりに欅並木を歩くか」馨が打診した。
府中市のシンボル、馬場大門の欅並木。鈴と馨は夜なべする道すがら、懐かしい並木道は、幾度となく訪れていた。
鈴は母親からの口伝えを思い出す。老欅はふたりの守り神、「お導き」という伝説だ。昔話を胸の奥底から引き出し、外出準備に取り掛かる。
浮かした唇に薄桃色のルージュを引くと、目の縁にも色が染まり、服を着替える手が忙しなく行き交う。紺スキニーパンツに、赤色ニットの出で立ちは、秋らしいコーデだ。
左の耳後ろで、毛束ねじって「くるりんぱ」をすると、「かわいいサイドテールだね」が鈴に飛ぶ。
「ありがとう」を返して、恋人の面前で「ウマ娘」のダイワスカーレットのように一回転。ヘアスタイルはOKと手で黒髪を確かめ、ベージュのダウンジャケットを急いで羽織る。
「よし、行こう!」
 ふたりは背中を押し合いながら、勢いよく音無の実家を飛び出た。ガチャリと締まる扉の音。二度と帰って来れない感傷を覚える、心臓を少し握った痛みは、気のせいだろうか。
鈴が乗る京王八王子行きの準特急が、笹塚駅に滑り込む。ホームの反対側、都営新宿線の電車が、止まっていた。それぞれの扉が開くと、吐き出された人々は行き交い、京王線の車両にも吸い込まれて来た。
土曜の夜、乗り換えて府中など、西東京のベッドタウンへ帰る人々は、何処か忙しない。ロングシートの右端に座りながら、カバンの口から覗く古い写真に目を落とし、左隣に「ねぇ、馨」と、声を掛ける。進行方向に座る関心が、写真にも向く。
「気になるの?」
「まあね」
こだわりに苦笑する馨は、長い髪の付け根から毛先まで落ち着くよう、優しく撫でる。
吊革を掴む人、座る人、表情ひとつを変えずに、いる。座席に無言で並んでいると、窓からは夜の光が次々と流れ、去って行く。馨は表情を固くし、闇夜を突き進む電車のモーター音なかで発する鈴の蠢動を、黙して耳を傾ける。
府中駅へ到着予告のアナウンスが、車内を流れた。
「いよいよ、天皇賞秋か」
覚悟してレース名を告げた馨は、これから戦う武者のように肩を振るわせた。
「秋の夜は冷えるから、」体調には気を付けたいと、鈴に心配を向けた。
「大丈夫」鈴は笑みを浮かべると、「そうか」が緊張を孕んで返る。
秋の天皇賞を迎えて馨の口調が哀愁含みなのは、鈴は季節柄だけではないと感じた。

土曜夜の府中駅は、降りる人が多い。帰宅する人が大半だが、天皇賞秋の前日、競馬場の開門を徹夜で待つ人々もいる。明日の競馬を予想しながら、鈴と馨も同じ一夜を過ごすお仲間となる。
駅から競馬場へ歩くなら、南口の方が近くて一般的だ。だが、ふたりは駅ビル二階にある北口改札から外へ出て、左に折れる。階段を下り、馬場大門の欅並木を目指す。
「老欅があった所へ、行こう!」
馨は握る手を引き、先導する。
ターミナルの北西、寿町一丁目交差点手前、コーヒーとパンが評判な喫茶店の近くだ。並木道では先輩欅の列に、若い欅が畏まっていた。歩道を越え、車道を挟む二列の並木、奥の方へ移動する。
二十数年を経た若々しい欅が、周りの古木に負けじと、必死に樹勢を発していた。あの老欅の子で。鈴たちの実家にある樹と同期だ。
「来たわね」鈴が宣言し、馨が「ああ」と同意して、若き欅の許へ行く。
「歓迎するよ」と迎えてくれた従姉妹の気がした、その欅の幹に、鈴は手を触れ、バレンタインステークスのレースが忘れられないと伝えた。
「どうだった?」と、馨が印象を聞く。
「いや、凄いよ。圧倒的なスピードで逃げ切りだもん」
心を奪われた鈴は、感心を吐く。
前年は勝ち負けを繰り返し、これからの馬だった。弥生賞でゲートを潜り、ダービーで騎手に反抗して頭を上げる精神的に若い面も見受けられた。
だが、バレンタインステークス以降は、幼さが影を潜め、気性面で成長し、緩急を付けて走るのを会得した。サラブレッドとして完成の域に近付き、生来のスピードを遺憾なく発揮出来るようになった。
サイレンススズカは、競走馬として絶頂を迎つつある。そう説明した馨に、鈴が「これから観る一連の競馬。毎日王冠の後だけど」と、先走って、ピークとなる走りを問う。
「確か…… 秋の天皇賞に、出走するんだよね」 
自分自身で必然の回答を発し、どうなったのかを知りたいと、馨の顔を覗き込む。スズカの走るレースを見続けた瞳孔が、期待を込めて承知を求めた。
「確かに、毎日王冠の次走は、天皇賞秋だよ」
念押しに応える口がぽっかりと開くと、鬱とした黄泉への枢を覗いた気がした。過去の競馬は初めての鈴、観ていないレースの内容と顛末は、未知の世界だ。
「現実を直視して欲しい」
馨の口元が、夜の闇のなかで必死に諭す。
現実を直視? 言葉の真意を確かめるも、妙な調子を嗅ぎ取った。努めて昂ぶりを抑え、想いを語らう。君には真から競馬を理解して欲しいし、厳しい部分に面して嫌いにならないで欲しい、そしてサラブレッドへの愛を深めて欲しい。冷めた空気を吸う馨が熱を放つ。   
競馬への覚悟はある? ある! との即答に、約束して、が、鈴へ返る。縦に揺れた頭を灯す月明かりの下、天皇賞秋への想いを新たにする。両腕に強く抱かれた鈴の背中がふわりと浮き、胸に引き寄せられ、ささやきが届く。
根幹距離の王道を競うのは、東京競馬場での芝二〇〇〇メートルのG1戦。瞬発力とタフさが必要で、スピードに加え、パワーとスタミナが高次元で求められ、能力がストレートに現れるコース。重賞で一番人気の勝率は四〇パーセントという統計もあり、実力馬が力量を十二分に発揮する舞台だ。
サイレンススズカは中距離のスピード馬で、伝統ある第118回天皇賞秋が最高のステージで、最大目標だ。誰もが負けるとは思っていない、あの秋の大一番。
鈴も「スズカって、どんな勝ち方をしたの?」と、前のめりで背中へレース内容を訊く。
馨は肩の手を離し、スマホをブルゾンの内ポケットから取りだして、画面をタップする。過去レースのデータベースから、一九九八年十一月一日のレース結果をチェックする。
「……いちょうステークス、南武特別、河口湖特別……」
二十数年前のレース結果が次々と表示され、スクロールする。
「天皇賞……」
馨は、言い掛けた先を一旦、飲み込む。
「特別な意味を持つよ。サイレンススズカにとって……」
指が画面の移ろいを嫌がるように止まった。
競馬場の最後の直線は、約五三〇メートルと長い。高低差約二メートルもの急坂があり、後方の差しや追い込み馬にとり、末脚を振るうには好都合だ。東京競馬場の芝二〇〇〇メートルのG1をハイペースで逃げ切るなんて、本来はほぼ不可能だ。
だが、サイレンススズカのレースを見続けた鈴は、天皇賞秋も圧倒的なスピードで勝つものだと思い込んでいた。
「まあ、現実をかみ締めて欲しいけどね」
馨はポツリと零した。
「特別って、何? 現実って、どういうこと?」
 鈴は、悲しみを微笑みで覆い隠す馨を、見入る。何かを堪える彼の腕を掴む。
「私だって、分別や覚悟はあるわよ」
馨の喉仏がゴクリと動く、「……そうか、今は、止めとくか」と、スマホを元に戻した。
 本当は、鈴に競馬を好きであり続けて欲しいと願い、スズカが走る天皇賞秋の結果を見せようとしたが、考え直した。
「もう、今日はスズカを考えなくもいいか」
馨は老欅の逸話もお仕舞いと宣言し、「競馬場へ移動しますか」と機転を利かす。
何故、スズカの競馬を明らかにし、反故したのか、鈴は何となく理解出来る。海辺の波が寄せて繰り返される日々に、立ち向かう主旨だ。当たり前だが、誰もが事実に真正面から対峙している。父親である新太との不和や若かりし陽子と恭一の関係に苛まれる鈴に対し、不安げな今後をしっかり歩んで欲しいとの励ましだ。
「特別な意味」を持つサイレンススズカの天皇賞秋を披露して、馨は鼓舞しようとしたのだ。観ていない競馬の内容は知らないが、彼の趣旨を感じ取る。
「現実を受け入れる勇気……」
鈴が必死に意志を表にし、「……だね」と抱き締める恋人が結ぶ。
これ以上の言葉は不要と、馨が頬を寄せる。鈴は、自分自身へ言い聞かせ、「ありがとう」を投げ、大丈夫だという意気が確となって胸に広がる。
「天皇賞秋でのサイレンススズカ。結果、知りたい?」馨が敢えて問うた。
「平気よ。もう」
気丈なサイドテールが左右に振れる。人間の生き方と比較するのだ、厳しい競馬と、想像に難くない。
だが今は、明日の競馬を観よう、それがいい。生観戦の天皇賞秋が終わったら、過去のサイレンススズカを思い出そう。前を向く気持ちに切り替えた鈴が、競馬場への一歩を踏み出す。
肩が叩かれて檄励の親指を突き出されると、枝を揺らした若い欅に意識を向ける。
「行ってくるね」
鈴は、親しい従姉妹のように欅へ声を掛け、手を軽く添える。その小さな手に、後ろから馨も自身の手を重ねる。
『ありがとう』
『老欅』が応えた気が、ふたりは、した。鈴たちの同期でない、親たる『老欅』だ。
彼にとってのサイレンススズカが語られる。あの逢魔が時への戸口たる刻限、東京競馬場の四コーナーから、時尅の極促は止まったままだと、正面の『老欅』が、悼む。
その時の刻みが、再び動き出そうとしていた。

『サイレンススズカを、助けてはくれまいか?』
老欅は、音無鈴に語り掛けた。
大きな幹に手を添える鈴は、顔を強ばらせて逡巡を浮かべる。小さな手の甲に、月野木馨の大きな手のひらが重なる。老いた欅の枝葉から漏れる月明かりの下、晩秋の寒さを補うように、鈴は恋人の温もりを感じる。
「伝説の競走馬ですね、サイレンススズカ」
「圧倒的なスピード、外連味のない逃げでファンを魅了した」
鈴と馨は、名馬を評した。
東京西部の府中市。鈴たちは東京競馬場に向かう途中だ。府中馬場大門の欅並木は、幾度も訪れた通り道で、府中駅をほぼ中心に置く南北約六〇〇mの参道、南端に武蔵国総社である大國魂神社が鎮座している。
ふたりがいる街路は、駅の西側で東西へ伸びる鉄道高架と十字に交差し、二列の欅並木の真ん中が車道、外側を囲むよう左右に歩道が走る。ふと見れば、気まぐれの車は過ぎ去り、家路へと急ぐ人が足早に消えて行く。
駅北口の交差点付近、ふたつの手は老欅の威容に触れる。幹の太さは大人が腕を伸ばして五人分あり、黄金に彩る枝葉を大傘として月夜に開く。高木が二手に列する木々の間、太い幹に寄り添う鈴は、欅の由緒を想起する。
源頼義、義家親子が前九年の役の戦勝祈願礼として植樹した故事がある欅。約一千年の悠久を武蔵国の国府で過ごした。
幼少から、母親に聞かされた伝説の老欅。鈴たちは本物と初めて対峙する。娘は、守り神だと伝えられた老欅に、疑問を呈する。
「サイレンススズカが走った二十数年前、アナタは寿命から切り倒されたのでは?」
伐倒されたはずの大欅が、枝葉を緩やかな風で揺らしていた。
「さっきまで俺たちが触れていたのは、若い欅だろ?」と、馨も首を捻る。
先程、両者が接した樹勢豊かな欅は、老欅の種から育成、伐採場所に植樹された樹齢二十数年の子孫だ。鈴に少女の心緒が戻ると、母から良くこの場所へ連れられた光景が巡る。
「そう、同い年の欅を懐かしんでいた」
手を添えて目を閉じ、小さき頃に耳にした昔話に、耽ける。
『老欅』の『お導き』という伝承だ。
瞼を上げると、立派な容姿の古い樹が、目の前にあった。縁があり、この場限りの復活を、老欅は嬉しいとささめいた。府中駅から東京競馬場の方角に至る欅並木の一角、あるはずのない老欅に鈴と馨は声を掛けられ、月下に佇んでいた。明日は天皇賞秋が実施される。
「徹夜で開門待ちする大学生カップルを暇だと、からかっているんですか?」
馨が太い幹を二三度、叩いた。
『今日、サイレンススズカを観たのが、偶然と思うのか?』
欅に睥睨された男が、目を鋭くする。
「サイレンススズカは三重の鈴鹿山脈が由来」と、馨は馬名の成り立ちを告げた。
数時間前に過去レースの映像を目にした恋人たちは、「生で観戦した」感覚だと口を揃えた。馨が喉仏を蠢動させ、鈴が息を吞む。
「月野木家は源氏の系譜だからですか?」鈴が口にすれば、
「音無家は鈴鹿山に縁のある巫女の家系だから?」馨が探りを入れる。
老欅とサイレンススズカに関わりを持つ月野木馨と音無鈴が、『老欅』の『お導き』で選ばれたのか? と鈴が顔を上げた。そうだ、と言わんばかりに幹が震えた。
『助ける』と、いっても何をすればと、訊く鈴に『行けば分かる』欅が答える。
『導きがある。後は運次第』
「どういう意味ですか?」
鈴が欅の幹を揺するも、微動だにしない。
強い風が吹くと、枝がざわめき、落葉が吹雪く。思わず目を瞑る鈴と馨は喧騒のなか、『いざ、サイレンススズカの御許へ』が響く。今いる世界で、鈴と馨が耳にした最後の台詞だ。 
 意識が朦朧とし、鈴はついさっき目にした、一九九八年を駆け抜けたサイレンススズカを思い浮かべた。

***

*この物語は空想のもので、登場人物・組織・事件等はすべて架空のもの(フィクション)です。
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