第1話

文字数 3,057文字

 東京は昨日ニュースで梅雨入りが伝えられた。六月になり、社会人はだんだんと仕事に慣れ、学生は新しい環境に慣れたり、来年に控える入学試験に向けて忙しくなっていく。僕は実家の六畳の自分の部屋で、ベットの上で横になりながら音楽を聴いている。社会人、学生、どれにも当てはまらないわけではない。僕は学生に当てはまる。東京の大学に通う一年生だ。ただ僕が慣れたのは環境や授業だけではない。サボることにももう慣れたのだ。
 
 家から駅まで自転車で十分。僕は埼玉県に住んでいるため、そこから電車に乗って一時間。そうして大学の最寄りの駅に着ける。電車の乗り換えにはもちろん慣れた。だが、いくら月日が経っても慣れないものがある。雨だ。
 
 僕は昔から雨が嫌いだった。雨が降ると気分が乗らない。梅雨の時期には毎年体調を崩す。今日授業を休んだ理由は雨だ。決して授業に出たくなかったわけではない。だからといって出席したかったわけでもないが、雨が僕の欠席を後押ししたのは間違いないだろう。CDプレイヤーからは「生活」という曲が流れている。僕も一昨日から洗濯物を干せない日々が続いている。
 
 僕は高校生の頃オーストラリアで二週間ホームステイした事がある。オーストラリアでは水がとても貴重であるため、洗濯は一週間に一回しかしないというのが常識だった。僕はそのことを出国前に知ることが出来たため、一週間分のパンツを準備して出国することができたが、僕の友人はそれを知らず何日間か同じパンツを履いたらしい。梅雨の時期は外で干せないだけで、洗濯は出来るため、オーストラリアに比べれば全然マシだ。むしろ水不足のオーストラリアからしたら梅雨のような時期はみんなハッピーだろう。オーストラリアに雨季があるのかどうかは知らないが。
 
 そんな事を考えながら音楽を聴いていると、携帯の画面が光った。舞からの連絡だ。舞とは高校三年生の十月から付き合っている。十月なんて物凄く忙しい時期だ。こういう時期に付き合うカップルはまともに受験勉強なんてしてないだろう。そう。僕は結局都内で中堅より下の大学にしか合格出来なかったし、そもそも彼女は大学受験をするつもりもなかったらしく、語学の専門学校に入学した。CAを目指しているらしい。

 僕は忘れていた。今日は彼女と付き合ってから八ヶ月の記念日だった。彼女からの連絡は今日の夜会おうというものだった。今はまだ朝の十時。彼女の連絡に既読マークを付ける前に、インターネットで天気予報を確認する。幸いにも雨は夕方で止むらしい。僕は安心して既読を付け、返事をした。

 彼女とは彼女の学校終わりに上野で待ち合わせをすることになった。僕は上野の安い居酒屋をオンラインで予約して、駅前のコンビニの前で携帯をいじりながら彼女を待った。雨はすっかり上がっていて、雨の後の綺麗な夕日が高架線の上から少しだけ顔を見せている。

 間も無くして彼女が到着した。今日はCAになる為の実習授業があったらしい。あまり見たことないハリのある髪型で前髪を上げて、スーツを着こなしている。僕たちはそこから歩いて五分くらいの、チェーン店の居酒屋へ入った。今日は週の真ん中水曜日だというのに店はかなり混んでいて、若い学生のような人たちが多かった。僕はビール、彼女はレモンサワーを頼んで、お通しの枝豆を一緒に摘んだ。
 「今日は何してたの」
 僕は笑みを浮かべながら彼女の目を見ずに、学校に行かなかったことを伝えた。
 「そっか、うちは行ったよ」
 彼女が僕の目を見て言った。見ればわかるよと僕は答えた。僕たちは一ヶ月前、七ヶ月の記念日に都内の水族館へ行った。その時はもちろん楽しかった。しかしその後から一度も会っていなかった。今までは二人で会わなくても、週に三回は電話をしていたし、基本的に途切れることなく連絡は取っていた。しかし最近は連絡を取ることも少なくなっていた。僕が連絡をしなかったのではなく、彼女からの返事の頻度が明らかに遅くなったのだ。僕の彼女に対する気持ちは変わっていなかったが、彼女の中で何か変わったみたいだった。その日は特に二人で大笑いするような話をすることも無く、世間話を長々として、お互い明日学校があるため、上野で終電の十本くらい前の電車で解散した。

 

翌日の夜僕と舞は別れた。なんとなくこうなることは分かっていた。彼女から夜十時頃突然電話がかかってきて、そのことが伝えられた。彼女は僕に丁寧に、いつも僕の目を見て話してくれるように、その旨を伝えてくれた気がする。彼女が何を言っているかはよく分からなかった。僕は痛くも痒くもない振りをして、電話越しで嫌な笑みを作りながら
 「そっか。じゃあこれからは仲良い友達としてやっていこうね」
 と伝えた。離れたくない。別れたくないという気持ちから、「仲良い友達でいよう」という、これからも一緒にいるための保険のような言葉が出たのだろう。

 次の日、既に一限には間に合わない時間に起きると、僕の目ははっきりとした二重になっていった。SNSで「フリー整形成功」なんて呟くほど元気はなかった。家族は高校生の妹も含め、もう家を出ている。目をこすりながら台所へ行き、コーヒーを注ぐ。コーヒーを持って自分の部屋へ戻り、机の前の椅子に深く腰を下ろす。外から聞こえる雨の音が余計孤独を際立てているようだった。
 コーヒーを飲みながら振られた原因を冷静に考える。恐らく専門学校で新しい人を見つけたのだろうと僕は考えた。

 「別に十代の恋なんて大したことないし、いつか忘れちまうよ」
 なんて言う大人がいるが、そんなの知ったこっちゃない。恋や恋愛というものの価値なんて人それぞれで、人がああやって言っていたからこうだということも全くないと僕は思っている。恋愛がああだこうだ言うカウンセラー気取りの大人は大嫌いだった。しかしこのままではいつまでも自分が辛いだけで、僕はどうしてもこの暗い部屋で閉じ込められているような気持ちから抜け出したかった。要するに彼女のことを忘れたかったのだ。

 僕は机の脇の小さな本棚の上に置いてあるCDプレイヤーに手を伸ばす。一昨日から電源を消し忘れていたことに気づいた。再生ボタンを押すと、また「生活」という曲が流れた。舞からの連絡が来た時に曲を一時停止してから、そのままだった。僕の家のCDプレイヤーは長時間一時停止をすると、次再生した時にその曲の始まりから流れるようになっていた。

 その曲を聴きながらベッドに横になる。いつのまにか雨は止んでいた。洗濯物は今日から干せる。舞は僕が泣いていると思っているのだろうか。昨日の夜泣けるだけ泣いた。もう舞のことを思って涙は出ない。決して舞のことを忘れたわけではない。無理して忘れる必要もないのだと気づくと、僕の心の雨も止んだ。

 今までの慣れていた生活が終わった。六月は皆様々なことに慣れ始め、退屈になっていく月だ。しかし僕は舞のおかげで新たな毎日を始めることができる。退屈から抜け出すことが出来るのだ。そう思うと何故か嬉しくなってきた。

 今は丁度正午だ。今日は金曜日。午後からの四コマ目の授業には間に合いそうだ。僕は大嫌いな雨の匂いを深く吸い、梅雨の合間の蒸し暑い一日に記念すべき新たなスタートを切った。自転車で水たまりを避けながら駅に向かう。久しぶりに見る太陽の光は、僕の今の気持ちを表しているようだった。

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