第1話 底辺世界の来訪者

文字数 1,943文字

粘り付くような視線を感じる。
猛禽類を思わせる、獲物に飢えた鋭い目が、崩れかかったコンクリート壁の影から幾つもこちらを覗いている。
気を抜けば次の瞬間には喉元にナイフが突き立てられていそうな、そんな恐怖を覚える。
第26層居住区は、彼等――スラムの民の狩場だ。
泥水が下へ下へと流れ、泥濘を作るように。
ここはまさに掃き溜め、滅びを辿るこのセカイの暗部にほかならない。
「なあ、早く帰らないか?」
隣の同僚は、心もち震えているようだった。
顔はよく見えない。
保守が行き届かず、天井のナトリウムランプは殆どが切れたまま。
そんな暗晦を、懐中電灯の灯りを頼りに歩いてゆく。
10分ほどが経ち――果たしてその場所は現れた。
「…………」
「どうした?」
訝しげな様子の同僚に、俺は告げる。
「ここは……俺の実家だ」
「は……?」
天井のコンクリートは剥離し、錆びた鉄筋がむき出しになっている。
柱は角が落ち、斜めに亀裂が走っていて、今にも崩れそうだ。
――廃墟。
誰かに狙われているような視線は既に感じない。が、足元には泥水が迫っていた。
腐臭が鼻をつき、呼吸をするのも憚られる空間。この地中都市の最奥、現在の最下層だ。
「なあ、実家ってどういうことだ。君はあの黒崎翁の子息だろう?」
黒崎翁とは、黒崎範晴――70を過ぎて未だ衰えを見せない、俺にとっては父であり、また都市権力の頂点"総帥"に座する柏原翁と並んでこの都市の二大権力者とされている男だ。
「俺は養子なんだよ」
「それは……」
それっきり、同僚は黙ってしまった。
統治機構、クロノス。この地中都市を治める組織の調査員として、下層地域の調査を行うのが今日の仕事だった。
もっとも、実家に立ち寄ったのは調査ではなく思うところがあってのことだったのだが……。
「すまんな、付き合わせて。調査は終了だ、帰るぞ」
「……ああ」
限られたリソースを奪い合うセカイにあって、負け組が棲まう下層――その下層の中でも最底辺、第26層居住区は、まもなく閉鎖淪没の対象となる。
中の人々はそのままに――中層以上の生活を守るという大義名分でもって、生贄にされるのだ。

……そんなことを考えていた時だった。
「止まれ」
足音もなく、5メートルほど前に人影が現れる。
前に立つ1人のほか、周りに大勢が控えている気配。
「両手を挙げろ。武器は置け」
「(囲まれたか……。狙いはカネだろうな)」
第26層中央付近――このあたりを牛耳る半グレ集団に、俺は心当たりがあった。
俺は、隣の同僚に目で"従え"と合図をする。
……が、伝わらなかったようで。
「我々はクロノス直属、下層域特別調査隊だ。これ以上は敵対行為と見なし排除する。直ちに去れ」
同僚がテンプレめいた牽制をする。
しかし……それでは意味がないどころか逆効果だ。
相手は拳銃を向けながらこちらにずんずんと近づいてきた。
「クモの巣だかなんだか知らんが俺達には関係ねぇ。金目のものと武器の類を全部置いていけ。さもないと殺すぞ」
言わんこっちゃない。だが、俺はあくまでも冷静だった。
上着の裏には得物もある。銃相手には一見心許ないようにも思われるが、薄暗い中それも近接とあっては銃など怖れるに足らないものだ。
いかにも機嫌が悪くなった相手に、俺は賭けとばかりにある言葉を囁く。
『……リコリスは咲いているか?』
「――ッ!! 失礼を致しました」
瞬間、相手は後ろに飛び退き平伏する。
何が起きたのか、事態を飲み込めていない同僚を背に、俺は続けた。
「水無月由衣の現在について、知っていることを全て吐け」
「あの方は……もう居ません」
「どういうことだ?」
ずん、と一歩前に出る。
焦った様子の相手が、慌てて言葉を足した。
「ほ……本当に分からないのです。2年前、"兄様を探す"とだけ仰せられて、そのまま」
「そう……か」
俺は、用意していた札束を投げて寄越した。
「……ありがとうございます。恩に着ます、"水無月様"」
相手は札束を握りしめて暗闇に消えていった。
いつの間にか、周りからの視線も無くなっている。
「ほら、行くぞ」
後ろで青くなっている同僚の背中を叩く。
「君は一体――」
「俺? 俺の名前は黒崎傑だ。今は、な」
「…………」
同僚はそれ以上追求してこなかった。
薄暗くジメジメとした空間に、俺達の靴音だけが響く。
検問を抜けて中層第16層に入り、また検問を抜けて――。
徐々に明るく、賑やかになっていく螺旋トンネル状の街を2時間以上歩き通して、上層・第3層まで戻る。
「そういえば飯、いくか?」
「すまん、気分じゃない」
誘いを断った同僚が組織本部に消えていく。
鼻腔にはまだ腐臭がこびりついているようで気分は悪いが、俺は独り飯処に向かうべく、来た道を引き返した。
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