第1話

文字数 4,351文字

「ねえ、とーこ!」
「ん、どした?」
 お弁当の包みを開ける手を止めて顔を上げると、そこには水色のノートを持った級友の姿が。なんとなく用件はわかった。
「さっきの問題、どうしても解けなくってー、数学が大得意なとーこ様に教えていただきたく!」
 やっぱり。というか、あんたもおだてるね。悪い気はしないけど。それに、親しい友人からの頼みなら、断る理由も特に無い。
「ふむ、ではこの桃子様が教えてしんぜよう」
「わーありがとう! 好き!」
「はいはい」
 好き、ね。苦笑いして軽く受け流す。
「えーと、これはこのページの公式を当てはめて……こう……」
 シャーペンを握って、数字やら記号やらをさらさらとノートに書いていく。
「あ、そういうことか!」
「わかった?」
「ばっちり!」
 満面の笑みでノートを受け取った彼女は「あのさ」と言葉を続けた。
「この間、うちの近くにめっちゃおいしいパーラーできたんだよね。とーこにはいつも勉強教えてもらってるから、今度奢るよ!」
「まじで!? 約束だからね!」


「というわけだから、その記憶は長期保存棚に入れといて」
「こんな些細な記憶の為にあの棚を埋めるんですか?」
「一応だってば。パフェ食べ逃したくないだけだから、いらなくなったら捨てるし」
「当たり前です」
 ふん、と鼻を鳴らしたその男は、真昼の教室を映す石英――もとい、パフェに関するあたしの記憶を、白手袋が填められた手の上で弄びながら、億劫そうに歩いていく。千鳥格子のベストに純白のワイシャツ、黒いスラックスを纏った痩躯が通路の奥に消えるのを見送って、溜め息。
 それにしても、図書館よろしく戸棚が並んだこの場所を、よくまあ迷わず歩けるものだ。あたしには長期保存棚とやらがどこにあるのか、皆目見当がつかない。ここはあたしの夢の中なのに。
 あいつは何者なんだろう、と考えて、やめた。十数年抱えてきた疑問が、今さら解決する筈もない。
 そんなことより、今日の分を片付けないと。夜明けまで床にぶちまけられたままの記憶は、誤った形で定着してしまう。
 きらきらと光るそれらを掻き集め、選別して棚に納めるのがトレジャーハンターみたいで楽しい、なんて思っていたのも遠い昔。慣れてしまえばただのルーティン。取り敢えず一カ所に纏めて、掴めるだけ掴んで戸棚に向かう。
 だけど、どうにも掴み方が悪かったらしい。支えきれていなかった欠片が一つ、臙脂の絨毯に吸い込まれていく。こん、と少しくぐもった着地音。いいや、後で拾おう。
「おやおや、落としましたよ」
「っうぇえ!?
 び、びっくりした……足音も無く近づかないでほしい。
「これ、なんです?」
 呼吸を整えるあたしをよそに、そいつは欠片を拾い上げて、じっと観察する。声につられて見遣ると、欠片が映していたのは静寂に包まれた朝の教室と、制服の二人。しまった、その記憶は。そいつが漆黒の瞳を片方眇めて口を開く前に取り返すって芸当は、両手が塞がっていてちょっとできなかった。
「告白……?」
 ああ、ばれた。こいつにはあまり知られたくなかったのに。
 そう、告られた。クラスの人気者から。
 なんで朝っぱらからとか、どうしてあたしにとか色々思ったけど結局、
「断ったんですね」
「……まあね」
 なんとなく居たたまれなくなったので、そいつに背を向けて持っている記憶の整理を始める。といっても棚に並べるだけ。一つ一つの動作をゆっくり行って時間稼ぎを図ってみる。
「何故です? 彼、成績優秀かつスポーツ万能、おまけに人格者と、三拍子揃った逸材じゃないですか」
 そりゃ人の記憶を勝手に漁る誰かさんよりは性格良いだろうね、なんて言ったらどんな目に遭うかわかったもんじゃないので、聞き流しておく。
「それに、どうしてなかなか眉目秀麗だとは思いませんか?」
「いやでも、っ」
 うわ条件反射怖い。慌てて口を噤む。
「とにかく、それ捨ててくんない?」
「よろしいので?」
「いいの。奥にゴミ箱あるんでしょ? 早く処分してき、」
 ぱん。
 背後で破裂音がした。
 咄嗟に振り向くと、そいつの手の中に宝石じみた見た目のそれは無くて、かわりに煌めく白砂がさらさらと零れ落ちている。
「……え、いや、ゴミ箱…………」
「ゴミ箱に捨てようが私が握り潰そうが変わりませんよ。結果が同じなら、手段はどうでもいいでしょう?」
 ゆるりと笑って首を傾げると、長めの黒髪が揺れて三日月の形に細められた目にかかる。どくん、心音が聞こえて、息が詰まる。あたしは無言で、恐らく赤くなっているだろう顔を背けた。
 ほら、言えるわけがない。
 告白を断ったのは、誰より奇麗なあんたが脳裏をよぎったからだ、って。
「……なんで」
 ぽつりと言葉が漏れたのを合図にあたしの中の何かが沸騰した。
「なんであんたなんかに振り回されなきゃなんないの!? 夢の中の存在でしかないあんたに! もう、ばか! ばかばかばかばかぁああ!」
 照れ隠しよりは逆ギレに近い文句を、うずくまってぶつぶつと垂れ流す。抱えた膝に顔をうずめながら、一体あたしは何を言ってるんだと自分を問い詰めたい気分になったけど、そんなことができるくらい冷静ならそもそもこんな状況になってない。
「……桃子」
「なに」
 体育座りのまま怒鳴りつけるように返事をする。
「私のことが好き?」
 追い討ちを! かけないで! くれませんか!
 一体どう答えるのが正解なんだ。さっきの今で肯定なんてする筈もないけど、バッサリ否定するのも躊躇われる。なんという受難。思わず呻く。
「~~…………っるさい! 夢の住人の分際で!」
 良い回答を模索するのが面倒になって、取り敢えず罵倒。
「ふ、夢の住人、ねえ?」
 だけどそいつはあたしの悪口雑言は歯牙にも掛けず、のどの奥でくつくつ笑いやがる。
「さて、茹でダコ桃子。じきに夜が明けるわけですが、残りの記憶、私が片付けておきましょうか?」
 誰が茹でダコだって思ったけど、鏡を持っていないあたしには実際どうなのか判別がつかないし、提案自体はありがたかったので「……お願いします」と不機嫌丸出しで呟いた。けれどそれすら面白がるようにそいつはくすりと笑って、
「わかりました。少々お時間を頂きますが、ね」
 それから、あたしは――

* * *

 閉められたカーテンの隙間から陽が射している。記憶の整理をあいつに頼んだ直後になぜか意識を失ったようなので実感は沸かないけど、どうやら朝が来たらしい。
 それにしても、目覚まし時計より早く目が覚めるなんて、珍しいこともあるものだ。寝ぼけまなこをこすりつつ時計に目を向けると、六時半……ん?
 えーっと、覚醒しきっていない脳を叩き起こして、もう一度針を読む。短針と長針の位置を確認し、…………あ。
 瞬間、すうっと血の気が引いた。これは、間違いなく、確実に、
「遅刻する……ッ!」


 息を切らしながら最寄り駅まで走ってきて、目に映った光景に眩んだ。いつもはもっと早くに来るから知らなかったけど、この時間帯はいわゆる通勤ラッシュらしい。そこまで広くはない出入り口に人だかりが出来ていて正直げんなりするけど、ここで怯んだら朝食を流し込み光の速さで着替えたあたしのせめてもの努力が水泡に帰す。
 定期入れを右手に携えて人波に挑む。だけど運の悪いことに、ちょうど電車が到着したのか改札は構内から出ようとするサラリーマンで溢れかえってしまった。神様ってのがいるとしたら、相当あたしが嫌いなんじゃないかっていうくらいのバッドタイミング。
 それでも果敢にスーツの集団に飛び込んだけど、大人たちの作り出す流れに一人が逆らうのは無謀だったらしい。がたいの良い……というかでっぷりと太った男の体当たりをもろに受ける羽目になった。
「っ、すみませ……」
 って、どうしてあたしが謝ってるんだ。おいこら、何とか言えよデブリーマン。
 心の中でひとしきり悪態をついて、気が付いた。
 握っていたはずの定期入れが、無い。
 今の衝撃で手放してしまったんだ。くそ、あのデブ呪ってやる。
 どこに行ったんだろう。取り敢えず足下をざっと確認したけど、それらしき物は見当たらない。となると、
「おやおや、落としましたよ」
 ぞくり、背後から聞こえた声に背筋が粟立った。
「…………嘘」
 嘘だ。だけど、でも、この声音は。
 油の切れたブリキ人形のようなぎこちない動きで振り返ると、三メートルほど後ろに、見慣れた革靴が立っていた。徐々に視線を上げる。黒のスラックス、千鳥格子のベスト、純白のワイシャツ、それから、
「桃子? どうかしましたか?」
 白磁の肌、弧を描く薄紅の唇、細められた夜色の双眸。あたしを苛む、人間離れした美貌。
「う、そ、なんで、あんた、」
「第一声がそれですか、失礼極まりないですね。私はあなたのために来たのに」
 あたしのために? 来た? 何を言ってるんだ。頭の中でぐるぐると疑問が渦巻く。
「え、訳わかんないんだけど」
 ふと気がつけば、あんなに大量にいた灰色の通勤者たちはすっかり消えていて、あたしのギブアップは存外大きく響いた。
「わからなくて結構。それより、学校に行かなくていいんですか?」
 学校、と聞いて急速に意識が現実へと引き戻される。そうだ、こんな不可思議な邂逅とは関係なく、あたしは学生であって、遅刻は確定でも学校に行かなければいけないのであって。なのに足が竦んでしまったらしく、動くに動けない。
 間抜けに突っ立っているあたしに、あいつが革靴を鳴らして歩み寄る。
「それとも」
 こいつの提案は聞いちゃいけない。碌なことにならないってのは今朝実証したばかり。定期入れを奪い取って改札に駆け込めば勝ちなんだけど。
 深黒の瞳と目が合って。
「それとも、パフェでも食べに行きますか?」
 逃れられない、否、逃してくれる気などさらさら無いことを悟った。だって普段のあたしはパフェくらいでこんなに心が揺らぎはしないし、この足は駅の外に向かってならいとも簡単に動くらしい。
 一歩、本来の目的地から遠ざかる。
「……あんたが食べたいんでしょ」
「さすが頭脳明晰な桃子。私なんかの考えることはお見通しですね」
 相変わらず腹が立つ言い回し。馬鹿にしてるのか。……してるかも。
「桃のパフェが人気らしいんですよ。楽しみですね?」
 だけど、そう言って笑みを深めた横顔を盗み見て、こいつを嫌いになりきれないあたしは、自分でも馬鹿みたいだと思ったりして。
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