第1話

文字数 2,036文字

 私は数年前から、あるカルチャーセンターの体操教室に通っている。コロナ禍のため一時は休みになったこともあったが、その後、人数をわけて時間をずらし、ドアや窓を全開にして、各自の検温や消毒、マスク着用を徹底し、運営側と生徒の双方の協力により、定期的に通うことができるようになった。ある日、いつものように教室の中で開始の準備をしていると、インストラクターの女性がゆっくりと話し始めたことがあった。
 その女性は、仲間数人と時々ボランティアをしており、その日もいつもの通りイベントのボランティアに参加したという。イベントには、大人はもちろん、小さな子供や体の不自由な方など少人数規模ではあるが、様々な人がいた。感染対策のため、消毒液や体温計を完備し、彼女は特に小さなお子さんや体の不自由な方には、消毒液のボトルを手に持ち、ソーシャルディスタンスを保ちつつ、一人ずつの両手に消毒液を吹きかけていた。皆は、言わなくても次々と順番に両手を差し出してくれた。しかし、ある障害者の方の順番になったとき、その方に
「両手を出して頂けますか」
 と言ったところ、その方は両方の掌を下にして出してきた。通常は消毒をするため、掌は上にするはずだが逆の向きだったため、彼女は、
「何故、この方はこのような出し方をするのだろう」
 と思った。しかし、次の瞬間はっとしたという。彼女のほうは
「両手を出してください」
 と言ったら、掌が上にくるのが当たり前だと思い込んでいたが、その障害者の方にとっては、恐らく、手を出してと言われたら、下を向けて差し出すことが当たり前だったのではないか。日常生活の中では、どうしても、この場合は言わなくても相手はこうしてくれるのは当然だろうとか、こういうお願いをしたら、相手はこうするのは常識だと思いこみがちだが、皆が皆、同じことをしてくれるとは限らない。やはり、人それぞれ価値観に違いがあり、違うことのほうが当然なのだ。周りと違うことをする人を見かけると
「あの人変よね」
と言う人もいるが、自分と同じを求めるその人のほうがおかしいのではないか。わかっていると思っていても、このような日常のほんの些細なところにも、無意識に自分の物差しで人を測ってしまいそうになる瞬間があるのだと、私もはっとした。だからもちろん、この障害者の方は間違えたわけでも、おかしいわけでもないと思う。
 翌日、私は会社に出勤した。仕事の内容により、一週間の中で出勤と在宅勤務が半分ずつになっていた。私の自宅と会社の最寄り駅間の電車内は、もともとそれほど通勤時間帯でも混雑はしていないが、現在のコロナ禍では、私自身が時差通勤をしていることもあり、毎日座って行けるほど空いている。その日も空いていたので座席に座った。
すると、途中の駅で七十代くらいの高齢の男性が乗ってきた。一番端に座っていた私は即座に席を譲ろうとしたが、その時の車内は、それぞれの座席に一人や二人ずつしか座っていないほど空いていたので、譲らなくても大丈夫かと思い、席を立つのをやめてしまった。本当は、私が座っている手すりの近くの席が足腰が辛いであろう高齢者の方には楽な場所であるのはわかっていたが、私がその場所に座っていた理由は、私自身も突然の体調不良でめまいに襲われていたからである。だらしなくて申し訳ない気持ちだったが、端に座り、手すりに少し寄り掛かっていないと座席に座ったまま倒れそうだった。できれば私が少しでもずれて端の席を譲ってあげればよかったのだろうとも思う。もちろんシルバーシートでもない。しかし、その高齢の男性は、うつむいて座っていた私を、頭の上から怒鳴りつけてきた。若いくせに何故席を譲らないのかと怒っていた。私は確かにまだ若い。傍からでは具合が悪いのもわからないであろうから、高齢の方の怒る気持ちもわかる。ただ、車内はどの席も一人二人しか座っていないのである。満席だったら、やはり私も具合が悪くても譲らなくてはと焦ったと思うが、席は空いており、体調がとても辛くて余裕がなかった。ご高齢の方や体の不自由な方、妊婦さんに席を譲るのは当然だ。しかし、その反面、世の中には「当然」のことなど何一つないのではないのかとも思う。溢れるほどの人々が一緒に生きている。一人ひとりが、心地よく、不快な思いをせずに暮らし続けるためには、お互いがお互いを受け止め合い、時にはお互いに一歩下がる気持ちも大切なのではないだろうか。決してどちらか一方ではなく、お互いにである。して当たり前、されて当たり前ではなく、その当たり前にどれだけ感謝ができるかが重要なのだろう。
気を抜くとあっという間についていけなくなりそうなほど、激しく変化する社会だか、それでも変わらないものがあること、変えてはいけないこともあり、当然、社会の変化に合わせて変えていかなくてはいけないものもある。どんな風に煽られても、しなやかに対応できる心を、いくつになっても育み続けたいと感じる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み