第1話 内戦を生き抜いた祖母

文字数 25,551文字

 祖母にまつわる最初の思い出は、朝鮮戦争の後に南大門市場に開いたククスを出す店で働く姿だ。
 大きな壺に入った味噌をかき回し、客の相手もしてと、くるくる動きまわる祖母の腰には、いつも分厚い生地で作られたエプロンが巻かれていた。そのエプロンには真ん中に一文字に大きなジッパーがついていて、そこには売上のお金がむき出しではいっていた。客からのお勘定をポケットにつっこみ、お釣りもそのポケットから出す。ひっきりなしに客はやってくるから、昼過ぎにはいつもそのポケットはいつもパンパンに膨れ上がっていた。
 祖母は決して口数の多い人ではなかった。韓国人には珍しく、自分の考えを述べることより、人の話をよく聞く人だった。そして、周囲の人をとても大事にする人だった。だから、近所の店の人が暗い顔をしているとすぐに「何かあったのか」と訪ね、家族が病気になった、店の経営が思わしくないと聞くと、売上の入ったポケットに手を入れ、「これでなんとかしなさい」と掴めるだけのお金ををそっくりそのままあげてしまうのだった。
 祖母の気前の良さは、家族や近所の人だけではなく、見回りの警官さえにも向けられた。当時はまだ治安も悪く、スリや万引きは日常茶飯事で、小さな小競り合いも至るところで起きていた。その見回りをする警察官の息子が小学校に入学すると聞いたときも、祖母はポケットに手を突っ込みつかめるだけのお金を警官に渡していた。
「これで、子供の学校の準備をしてあげなさい。できる限りやってあげるのよ」
 警官も最初は驚いて辞退するのだが、結局は何度も何度も頭を下げながら受け取って帰った。当時は警官といえども、決して生活は楽ではなく、子供の入学の準備は経済的に負担が大きかったのだ。兄弟がいるものは、そのお下がりをつかうのは当たり前だったし、ボロボロのカバンを持っている子供も珍しくなかった。
 そんな状況でも、親であるなら誰もが難しいとわかっていても、入学の時くらい新しいものを買ってやりたいと思うものだ。祖母はその心情をわかっているから、その時渡せるだけのお金を渡してしまう。ただただ「助けになりたい」というそれだけの気持ちが、祖母を突き動かしていた。
祖母はそうすることで、見返りを求めることは一度もなかった。警官に対してお金を渡したことも、そのことで何か特別に目をかけてもらおうなどという考えは微塵もなかった。ただ、周囲に困っている人がいたら助ける、いいことがある人がいたら祝ってあげる、それが当たり前の人だった。
 そして、それだけ周囲を助けていても祖母や家族が経済的に困ることがないほど、祖母の商売は繁盛していた。商売の才覚があったのはもちろん、その面倒見の良さで、慕われ、頼られていた祖母の周りには人が絶えなかった。南大門の市場の中でも、賑わう店のひとつだったと言っていいだろう。
 一度、祖母が仕事中に怪我をして入院したときは、見舞客がひっきりなしにやってきて、対応する家族の方が参ってしまったほどだ。
私は病室の前に列をなす人を見て、幼心に祖母の偉大さを感じた。
そして大人になってから祖母の半生を知って、もっと驚愕したのは、祖母がかなりの名家の出身で箱入り娘として育てられ、29で夫に先立たれるまで仕事など一度もしないで生きていた人だったということだ。

 祖母のシン・ヤンスンは、両班(ヤンバン)家系の出身だ。
 両班とは、1392年から1910年まで続いた李氏朝鮮王朝時代に、朝鮮王族以外の身分階級の最上位だった貴族階級のことだ。
 祖母のお父さんは代々朝鮮の王族に仕えていたと祖母は話してくれた。
 先祖の一人に、王のために身代わりになって斬首された者がいたという。自らを捧げて仕えたことで、シン家は代々優遇され、祖母は経済的に恵まれた環境で何ひとつ不自由のない生活をしていたらしい。
 そんな祖母の結婚相手は、やはり両班家系の、チョウ・コンファンだった。
 1908年に生まれたコンファンは母を早くに亡くし、祖父と父、男ばかりに育てられた。コンファンの父(わたしの曽祖父)は、漢方医でのちに超明来軟膏を世に広めた人である。超明来軟膏は一時期、一家に一つは常備されているような薬であり、今でもお年寄りなら覚えている方も多いと思う。
 曽祖父はひとり息子に漢方医として家業をついて欲しかったらしいのだが、本人は全くその気がなく、郵便局局員の仕事についた。
そして、働き出して間もなく出身のある女性とお見合いした。18歳の両班出身の箱入り娘、わたしの祖母・ヤンスンだった。

 お見合いで結婚した二人だが、相性は良く、仲の良い夫婦だった。結婚してすぐ長男が、その2年後には長女、さらに次女、そして双子の男の子が産まれた。この次女のミョンスクが私の母である。
 祖父は結婚当初は京城(いまのソウル)の郵便局で働いていたのだが元山(ウォンサン)に転勤となり、そこで副所長にまで昇進し、一家の生活は順風満帆だった。
さらに、人に出資してやらせていた帽子屋(王冠帽子屋)が繁盛していたこともあって、祖母も子供達も裕福な暮らしをすることができた。日本の植民地だった時代ではあったが、名家や医者などは日本人もむげに扱うことはしなかったようだ。それどころか、祖母の記憶では敬意を持って接してくれていたという印象が強く残っていると話していた。   
 幼かった母も、お正月には着物を着てともに食事をしたり、お祭りの時期には日本風の神輿を担いだりと、日本人の行事に一緒に参加した楽しい記憶が残っているという。小学二年まで日本の教育を受けていた母は、日本語も話すことができたから、日本人によく可愛がってもらったらしい。
韓国にとって、植民地化されていたこの時代の記憶は屈辱的で苦しいものなのかもしれないが、解放されてからの方が波乱の人生となった祖母にとって、この当時は唯一穏やかで満たされた平和な時代だったようだ。
 当時住んでいた家の両隣には、右に日本人家族、左に中国人の家族が住んでいて、当時五才だった母・ミョンスクをとても可愛がってくれた。
 両隣とも出かける時には、母に留守番を頼んだ。裕福な暮らしをしている家はいつも狙われていて、留守をしているとわかるとすぐに空き巣に入られてしまう。まだ幼い母を玄関前の広いポーチで遊ばせておくことが、良い空き巣よけになったのだ。日本人の家で留守番をしてあげると日本のお菓子を貰い、中国人の家だとニンニクと大きな饅頭などをもらえるので、母にとってもありがたいお手伝いだった。
 どちらの家の家族のことも母は大好きだったというが、中国人夫婦の夫婦喧嘩は凄まじかったことには驚いたらしい。一度始まるととんでもなく大声で互いを中国語で罵り合う。その飛び交う中国語の悪口を、母は意味もわからないまま覚えてしまったほどだった。
 その後、中国に旅行に行った祭に、現地の土産物売りに騙されそうになり腹が立って、子供の時に覚えていたその悪口がつい口から出てしまった。土産物売りの中国人は、それを聞いてあっけにとられていたと母は笑っていた。
 あとから知ったのだが、その言葉は「お前の親を五十銭で売ってしまうぞ!」という意味だったらしい。外国人観光客をぼったくろうとして、突然そんな言葉を投げつけられた帽子売りはさぞかし驚いただろうと思う少し笑えてくる。

 そんな穏やかな暮らしも、祖父が元山に転勤して三年目のある日、急転する。ソウルにいる親戚の葬式に出席するために上京した祖父は、なんと32才の若さで急死してしまったのだ。
祖母・ヤンスンの年29才、末の双子を出産してまだ7ヶ月の時だった。
 祖母は夫が急死したと聞いて、ショックのあまり卒倒した。そして、とにかくソウルで執り行われることになった夫の葬儀に出ねばと、かごにのって単身ソウルまで駆けつけた。
 親戚達は夫の葬儀に駆けつけた祖母には残酷すぎると言って、棺に釘を打って遺体を見せてくれなかった。
 その上、若くして未亡人になってしまった祖母には再婚の可能性があるからと、お墓は作らず当時の韓国では珍しく火葬にし、その灰の半分を漢河(ハンガン)に撒いてしまったのだそうだ。
祖母は残った半分の灰を引き取り、ソウルの普門洞(プムンドン)にある尼僧だけの寺に安置したのだった。

 元山に戻った祖母は、その日から未亡人として、長男、長女、次女、双子の5人の生活のために働かなくてはいけなくなった。
 良家の箱入り娘として育ち、結婚後は専業主婦として生きて来た祖母は、仕事などしたことがなかった。勤めに出たこともないし、資格もない。それで、家でよく作っていたぜんざいを作って、行商を始めた。
 双子が生まれて間もなかったので、ひとりは背中におぶって、ひとりは乳母を雇って子守りを任せて働いた。しかし、やはり乳母代が高いので、やはり未亡人になっていた仁川の実家の母と弟と妹を呼び寄せることにした。
 祖母は5人兄妹の長女だった。1番上の兄である長男は仁川で仕事をしていたので元山には来ず、仁川の実家を守っていた。2番目の弟は、幼い時に病にかかり、治療が遅れてしまったために障害が残ってしまい、半身が麻痺する障害があり、長男の家族が世話をしていた。
 そのため、実家の母とともに元山に来たのは、背が高く美男子の弟と、まだ中学生の末っ子の妹だった。
 実家の家族に幼い子供達の面倒を見てもらえるようになり、安心して仕事に精を出すことができるようにはなったが、大家族に必要な生活費を稼ぐのは大変なことだった。元山の町外れに家族を住まわせ、子供達の面倒をみてもらいながら、祖母は朝から晩までぜんざい売りの行商に出た。
初めての商売だったというのに、祖母には商才があったらしい。ぜんざい売りは繁盛し、その後、お金を借りて市場に店を構えるほどになった。さらに、善哉だけではなく、クッパも売り始めた。この店も大成功し、かなりもうけたようだ。亡き夫が残した帽子屋も繁盛していて、生活に余裕ができつつあった。   
 しかし、大家族の日々の暮らしのためにお金はどんどん出て行くし、元山にもう一軒家を買ったりしたので、祖母は相変わらず毎日朝から晩まで働き続けた。

 1940年代初めの当時、朝鮮半島はまだ日本の植民地で、しかも世界が第二次世界大戦に向かう情勢だったせいか空気がピリピリしていた。日本のおまわりさんと朝鮮人の間で、しょっちゅうもめ事が起きていた。
 怖い思いをすることもあった祖母は、番犬になればとシェパードを飼い始めた。メリーと名付けられたその犬はとても賢くて近所でも評判だったため、訓練所に入れたこともあった。そのメリーの子供が産まれた時には、訓練所の先生が一匹くれないかといって、お金の代わりに大量の豚肉を持ってくるほどだった。
 第二次世界大戦の際には、その犬を訓練して日本の軍隊に貸し出したりもした。大変賢くてたくさんの作戦を成功させたらしく、戻って着た時には首輪に金の塊をぶら下げていた。人間顔負けの手柄を上げた犬として、記者達が取材に押しかけてきたこともあったようだ。

 そして1945年、第二次世界大戦で日本が敗北して終戦となり、朝鮮は独立を果たした。国中がお祝いムードに沸き返ったが、それから一年もしないうちに、北からソ連(いまのロシア)と中国が連合軍として南下して来て、統治するようになると空気はまたピリピリし始めた。
 当時、祖母は元山に家を2軒、祖父が出資して残っていた帽子屋の店舗を2軒持っていたのだが、ソ連と中国軍が南下してきて、共産党が統治するようになると、財産のほとんどが没収されてしまった。
 親日派で利益を得ていた者や、地主、商売に成功していた金持ちたちの富は全て共産党に奪われてしまったのだ。これからは今まで身分が低いとされてきた小作農たちに平等に分配されることになると一方的に言われた。祖母には住まいのための1軒だけが残された。亡き夫が残してくれた帽子屋まで奪われ、祖母は相当悔しい思いをした。祖母が働きに働いて、生活が潤い始めていたのに、そのほとんどを理不尽にも奪われ、祖母は現状に大きな不満を抱くようになった。
 そんな中、母の姉(わたしの伯母)ミョンジャはロシア語を習い始めた。ロシア語ができるようになると、ロシア家庭の家事や雑用を請け負って、お小遣い程度の稼ぎを得ることができたのだ。
細々とした仕事ばかりだったけれども、朝鮮語を全くできないまま移住してせざるを得なかったソ連人はとても多く、伯母はかなり重宝されたようだ。
 しかし、それはとても家計を担うまでには至らなかった。食料も配給制度になっていて十分な量をもらえるわけでもなく、生活は以前よりはるかに苦しくなった。亡き夫が築いた財産を不条理に奪われ、共産党による統治に対して息苦しいものを感じていた祖母は元山を出て、実家のあった仁川に戻ることを計画し始めた。

 その頃、朝鮮半島は南にイ・スンマンを初代大統領とする大韓民国と、北に金日成を主席とする朝鮮民主主義人民共和国が建国され、南北の対立が明らかになっていた。
 特に、北では親日派や富裕層は共産党によって土地や財産を奪われ、迫害されていた。そのため、特に富裕層の人間は南へ逃げることを計画していた。
 しかし、何の準備もなく南へ逃げたところで、苦しい生活が続くのは目に見えていた。
まず、祖母は、南の状況はどうなのか、子供達を連れて移住して暮らしていけるのか調べるために、案内者と呼ばれるブローカーを雇って南に偵察に行った。
 元山の特産品であるスケソウダラを乾かして作った、元山金槌(ウォンサンマルトゥギ)と呼ばれるものをたくさん仕入れて、それを行商で売りながら仁川まで南下していった。
 その間、毎日世話をして可愛がっていたシェパードのメリーが、祖母がいなくなってから元気が無くて食事すらしなくなってしまった。子犬を産んで間もなかったが、子犬の世話もしないで、毎日駅まで行っては、日が沈むまで祖母を待ち続けて、日に日に弱っていき、周りをハラハラさせた。
 もちろんメリーだけでなく、家族も祖母が無事に戻ってくるのか心配でならなかった。祖母はまだ幼い子供達の母親であると同時に、大家族を支える大黒柱でもあった。当時の混乱の中、越南して、なおかつまた北に戻ってくるというのは、男でも大変なことだったのだ。
 何日かして祖母が戻ってきた時には家族は心から安堵した。メリーの喜びぶりも尋常ではなく、周りから忠犬と呼ばれた。しかし、これは祖母が家族のだれからも頼られていたということを物語るエピソードだと言えるだろう。
 祖母は仁川で長男の兄と再会し、自分たちが戻ることができるよう準備してもらう約束をして帰って来た。行商で得たお金を託して、住む場所や商売ができるような用意をしてくれるようにお願いして来たと話した。そして、家族で越南する覚悟を決めて帰って来たのだった。

 祖母は当時貴重だったミシンや家財道具を少しずつ売りに出して、お金を蓄え始めた。
 しかし、家族で南へ帰るというのはそう簡単なことではなかった。
 ソ連によって保安隊という組織ができて、一般の庶民たちを監視していた。南へ移ろうという動きをしようものなら、すぐに怪しまれて、密告され、調べを受けることになってしまう。
 家族全員で動くことは難しいと判断した祖母は、まず自分の兄妹たちを一人ずつ逃がそうと考えた。
 まずはハンサムな末の弟から逃がす計画を練った。近所の青果店の娘を好きになって、結婚したいと言い出していたので、二人一緒に南へ向かわせることにしたのだ。
 お金を工面するために家財道具を売りに出していたこともあって、祖母たち一家はすでに保安隊に目をつけられていた。時には直接「なぜ家財道具を売りに出しているのか」と問いただされることもあった。しかし、祖母は若い二人の結婚資金を作るためだとしらを切った。そして新婚夫婦を逃し、さらには妹と母も南に送った。それぞれに工面したお金を持たせ、自分たちが合流するまで無駄づかいはしないように何度も念を押した。人も財産も少しずつ移す作戦はうまく進んでいるように思えた。
 しかし、末の弟が消え、妹もいつの間にかいなくなり……、となると保安隊の監視の眼はかなり厳しくなった。祖母はしばらく身動きが取れなくなった。
 それでも祖母は諦めなかった。当時の隣の家には親しくしていたピルテギさんという女性がいた。彼女もまた、実家のある釜山(プサン)に戻るために船を手配して、越南することを決めたと報告を受けた。
 それを聞いた祖母は、工面していたお金の一部をピルテギさんに託した。一緒に釜山に逃げるためではなく、南に行った後いざという時に頼れる場所が南にいくつかあればと考えたのだ。正直、南であるのなら、仁川でも釜山でもどこでもよかった。なんとかして、南で暮す基盤を作りたいと必死だった祖母はお金を託し、いざとなったら頼らせて欲しいと願ったのだった。

 弟と妹を逃してから数ヶ月後、とうとう祖母は我が子たちとともに38度線を越えることを決めた。その頃、中国とソ連を味方につけた金日成が、南への攻撃を始めるのではないかという噂がまことしやかに流れていた。このまま北にいては、共産主義者として生きていかなくてはいけなくなるという恐怖もあった。もはや一刻の猶予もないと祖母は思いつめていた。
 南へ偵察に行った時頼んだ案内人を再び頼り、越南することを決めた。ソウルへ向かう船がでる港まで、列車で向かわなくてはならなかった。
 しかし、その駅に行くまでにはたくさんの検問所が立てられて、通る人々を監視していた。捕まったら、どんなひどい目にあうかわからない。幼い子供達と離れ離れにさせられる可能性も否定できず、相当な覚悟が必要だったようだ。

 決行の日の早朝、列車に乗るためにみんなで駅に向かったが、子沢山なためにどうしても目立ってしまう。だから祖母は幼い下の双子をつれ、当時13歳と11歳だった母とその姉が二人で手を繋いでそれぞれ離れて、目配りをしながら動いた。
 なんとか汽車に乗ることができ、38度線に近い鉄原(チョロン)という街まで着いたところで、案内者と合流した。その町の近くにある船着場から船に乗って漢難江(ハンタンガン)という大きな河を渡らなくてはいけなかった。その船に乗ってしまえば越南できる。そのことは保安隊もよくわかっていて、ここからの監視はより厳しくなるのだった。案内者のアドバイスによって、祖母たち一行全員がそれぞれ変装することになった。
 祖母はくたびれた婦人服を着て、洗い物の桶を頭に乗せて普通の生活者のように見せかけた。幼い子供達は案内者が連れて、祖母は一行とは離れて歩くように指示を受けた。母は姉とともに案内者や子供達と目配りしながら、つかず離れずの距離で歩き始めたが、後ろからは保安隊員たちが銃を持ってついて来ていた。
 保安隊はどうも祖母が家族を連れて逃げようとしていることを察知していたようだった。逃げることが決定的になった瞬間、一気に全員を捕まえようとしていたのだろう。
案内者が祖母にしばらく座って待ち、隙を見て落ち合う約束の家に逃げるように指示を出した。そして、自分は子供達を連れて先に行ってしまった。
 祖母はしばらくひとりで様子を伺っていた。まるで行商人が客を待っているかのような雰囲気を醸し出すように努力した。監視者は随分粘って祖母のことを見張っていたが、結局根負けしたのかその場を離れた。祖母はその隙を逃さずにその場から逃げ出し、落ち合う約束をしていた家に駆け込んだ。
 落ち合う家を提供してくれたのは、パクさんという人で食事の用意もしてくれていた。先に着いていた子供達はその食事を貪る様にして食べていたが、祖母は子供達と合流できたことだけで胸いっぱいで食事も喉を通らなかった。しかし、危険は回避できたわけではなかった。
そのパク氏の家の近くにも、保安隊の監視がいたのだ。
「大丈夫、彼らも一日に二度交代する。その時がチャンスだよ。交代の時は、どうしても監視がおろそかになるから」
 パクさんはそう言って、祖母たちを励ましてくれた。祖母も母もその数少ないチャンスを逃してはならないと、必死で様子を伺っていた。
 その日は幸いにも小雨が降っていて、見通しが悪かった。保安隊の監視たちが交代の際にタバコを吸いながら、立ち話をしている好きに祖母たちはパクさんの家から逃げ出した。
 一心不乱に逃げる最中に、双子のひとりがぬかるみにはまり、動けなくなってしまった。母はとっさにその靴を脱がせてぬかるみから引っ張り出し、自分の靴を脱いで、弟に履かせた。そして、自分は道端で売っていた藁の履物を買って履いた。そして、南行きの船が停泊している港にむけて走ったのだった。
 そこにはたくさんの人が押しかけて来ていた。多くの人が共産社会から逃れ、南に行こうと必死だったのだ。
 祖母や母たちのように越南しようとする多くの人が保安隊に追われていた。逃げる者と追う者が入り乱れて、船着場付近は騒然となっていた。そして、とうとう銃声が鳴り響いた。何人かが倒れたのが見えたが、母は必死で走った。祖母とはぐれないように、姉と手をつないでその後をただ追いかけた。案内者が双子を連れている母を助けて、一人を抱きかかえてくれた。そうしてやっと祖母と母たちは船に乗ることができたのだ。後方にいた人の何人かが銃で撃たれて死んだことを後から聞いた。
「自分たちのすぐそばで人が殺されたって聞いても、その時は怖いとも思わなかった。ただ、自分たちは家族全員でなんとかあの修羅場をくぐり抜けたってことにホッとしてたの。極限状態の中にいて、心が麻痺していたのかもしれないね」
 その時のことを振り返って、母はそう話してくれた。
 しばらくして案内者がもう安心していいですよ、無事に南に来ることができましたと言ったとき、どれほどホッとしたか、そして感じた開放感は忘れられないとよく母は語っていた

 その船が埠頭に着くと、今度は見たこともない鼻の高い西洋人たちが祖母たちを迎えた。おそらくアメリカ軍人だろう。軍服を着て銃を持ち、全く理解できない英語で、大声で叫んでいる姿に幼い母も恐怖を感じた。船には多くの避難民がのっていたから、彼らも必死だったのだろう。大きな声で「早く降りろ!」というようなことを叫んでいるのはわかった。祖母たちは言われるままに行動するしかなく恐怖でいっぱいだったが、一緒にいた案内者が彼らは憲兵という人たちだから安心して指示に従いなさいと教えてくれたので、その言葉を信じて憲兵の後を着いて行った。祖母たちは大きなテントに連れていかれて、そこで白い粉を吹き付けられた。日本でも戦中や戦後によく見られたら光景だったのではないかと思う。DDTと言うのみ除去の薬をかけられたのだ。
 そこは、いわゆる難民テントだった。北から逃げて来て、行くあてのない人々たちはしばらくの間そこに止まり、住居や職探しをしていた。出される食事は粗末なものばかりで、来る日も来る日もすいとんを食べさせられた。祖母たちは元山にいるときは食には困らない生活をしていたので、すいとんはほとんんど食べたことがなかった。最初はもの珍しくて食べていたが、そのうちに飽きてしまい、見るのもいやになった。
 いまだに母はすいとんを見るとその時の思い出が蘇るらしく、絶対に頼もうとしない。母が韓国の年齢で11歳の時のことだった。

 祖母は仁川の実家を頼るつもりでいたから、しばらくするとその難民キャンプを出ることを決めた。ソウルを経由して仁川に向かうことになった。
 経由地であるソウルに着いたその日は、3月1日で双子の兄弟の誕生日だった。祖母はささやかでもいいから誕生日のお祝いをしてやりたいと思った。ソウルで仁川行きの汽車を待っている間、祖母は駅前で日本の紅白餅が売られているのを見つけた。第二次世界大戦が終わり、植民地支配から解放されて一年経っていたが、当時はまだ日本食や文化がそのまま残っていた。その紅白餅を買い、その当時は珍しかった日本製の魔法瓶を持っていたので、それにもやしのスープを入れて駅のホームで子供達に食べさせてやった。
 それまで子供達に不自由させまいと頑張って来た祖母にとっては、誕生日にそんなお祝いしかしてやれないことは切ない思い出として心に刻まれた。それでも、仁川に着きさえすれば、新生活ができる。もう子供たちに惨めなひもじい思いはさせなくてすむと信じていた。その思いだけが祖母を支えていた。

 しかし、やっとの思いで仁川にたどり着き、長男たちが暮らす実家を訪ねてみると、新生活のためにコツコツと預けていたお金は長男や先に逃げた祖母の母や兄弟に使われてなくなっていた。祖母は怒りを感じたが、どうしようもなかった。行くあてが他にないのだ。怒りをぐっとこらえて、頭を下げるしかなかった。
 長男家族が暮らしている実家の離れが、元山から逃げて来た家族に当てがわれた住まいだった。しかし、そこは部屋が二つと物置部屋しかない。先に逃げて来た母親と末の妹、そして障害者の弟もそこで暮らしていて、さらに幼い子供達4人と祖母が加わるのには無理があった。新しい家を借りたいと思っても、お金がない。以前預けたお金を返してほしいと祖母が長男に訴えても、長男は先に逃げて来た母親や弟妹の生活費で使ってしまったとシラを切る。祖母が困っていると、近所にいる親戚が空いている部屋があると言ってくれて、同居させてもらうことになった。
 しかし、その家の息子がとても意地悪だった。北から逃げてきた祖母たちのことを、北から来た共産主義者扱いして、毎日のよう嫌味や意地悪を言ってきたのだ。その父親までも、そんな息子を止めることもせず、ニヤニヤと笑ってただ眺めるだけだった。
 子供ながらに、行く場所がないのだから耐えなくてはいけないと我慢していた母だったが、ある日とうとう堪忍袋の尾が切れた。母は祖母に引っ越したいと泣きながら訴えた。頭がいいわけでも仕事をするでもないのに、威張り散らして、弱い立場にあるものをいじめて楽しむ人間と一緒にいたくないと言って切々と泣きついた。
 母の訴えに、祖母も覚悟を決めた。まず、兄家族が暮らす実家に向かい、預けていたお金はどこにいった、返して欲しいとそれまでにない強い口調で詰め寄った。
 祖母の剣幕に、長男はとうとう自分の妻の実家に流してしまったことを白状した。妻の実家が貧しい上に、戦争で経済状況が悪化して、その日の食べ物にも困るような状態だったらしい。見て見ぬ振りはできず、手元にあった祖母のお金や売り物を渡したということだった。
 家族を助けるために使ったと聞くと、祖母もそれ以上文句をいうことはできなかった。祖母もまた困っている人がいたら、手を差し伸べずにはいられない情の深い人だった。妻の実家が困っていたから助けたのだというなら、しょうがないことに思えた。
 それでもそのまま引き下がることはできなかった。居候先の家族の嫌がらせのせいで、祖母も子供達も精神的に限界だったのだ。
 お金のことはいい、とにかく住むところだけはなんとかしてほしいと訴え、やっと実家の納屋を改築して住むことが許された。
 祖母は近所に住む別の親戚が家を建て直すと聞いて、自分たちにも材料を回してもらえないかと頼んだ。すると、彼らは良い木材を自分の家に使い、残りの廃材のようなものばかりを祖母に回してきた。女である祖母は甘く見られていたのだろう。瓦の屋根を頼んだのに、藁葺きの屋根になってしまった。壁紙もなく、ドアすらまともにつけることができなかった。それでも母は、いまの家を出ることができることが嬉しくてたまらなかった。障害のある叔父を急かしてすぐに引っ越した。家族5人だったが、荷物は北から逃げてきた時とたいして変わらなかった。二度ほど往復してしまえば運べる程度の荷物が、当時の祖母たちの財産だった。
 粗末な家だったけれど、家族だけで暮らすことができ、大きな声を出しても走り回っても怒られたり嫌味を言われたりしない環境になったことが、母は嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。
家の前に広い土地があったので、祖母はそこに畑を作って、あらゆる穀物や野菜、果物などを育てた。季節ごとに収穫することができるトウモロコシやサツマイモなどはご馳走だった。子供たちは大喜びだったが、実家の離れに暮らす祖母の母(わたしの曾祖母)はそんな姿を不憫に思っていたようだった。
 長男は工場長の仕事をしていたので、稼ぎはよかった。台所には豚の足や牛肉の塊がぶら下がっていた。長男夫婦の世話になっているため、言いたいことも言えずにいる曾祖母だったが、大人たちが仕事をしている時間にはよく母たち兄弟を実家の家の中に入れ、美味しいものを食べさせてくれた。それが曾祖母にできる精一杯のことだった。

 祖母はその頃、塩を売って生計を立てていたようだ。この頃、どうやって祖母がお金を稼いでいたのかは、わからないことが多い。当時は政府が販売していて貴重品だった塩を、何処かから仕入れて闇市で売り歩いていたようだ。犯罪すれすれのことをしていたのではないかと思う。子供達を食べさせるために、相当大変な思いをしていたのだろう。
 それでも家族がみんな協力して節約し、お金を貯めて、少しずつ、壁紙を貼ったり、扉をつけたり、増築したりして家を直した。住み出して1年経つ頃には、ひと部屋を人に貸すまでの広さのある家になっていた。
 しかし、そうやって取り戻した平穏な暮らしも、内戦が勃発したことで全て手放すことになった。
 1950年6月25日、ソ連や中国の後ろ盾を得た金日成(日本の植民地時代に朝鮮の独立のため活動した英雄として現れた)率いる共産党が武力による国家統一を目指して突然38度線付近で砲撃を開始し、韓国側に攻め込んできたのだ。
 突然のその知らせは、市民たちを不安のどん底に落とし入れた。
 祖母は長男が徴兵されるのではないかという恐怖に怯えた。
 夫が死んで未亡人になってからというもの、祖母は子供達を守ることを一番に考えて来た。中でも、長男を立派に成人させ、家を継がせることこそが自分の使命だと考えて生きていたのだ。
儒教の影響を色濃く受け、長男を中心に家が続いていくことが重要だという家族観の中で生きていた祖母にとっては、長男が徴兵され、何かあったらと考えるといたたまれなかった。
 徴兵される前に長男をどこかに逃がすことができないか考えた挙句思い出したのが、元山に住んでいたときのお隣さんのことだった。ピルテギさんという女性で、釜山でベイパル商店という店をやっているという消息だけは聞いていた。元山から南へ逃げる時に、いざという時のために蓄えたお金の一部を彼女に預けていたことを思い出し、慌てて連絡をとってみた。すると、釜山で生活するならそれまでに預かったお金を元に住まいを準備すると言ってくれた。
 しかし、一家全員で移動するとなると、人数が多すぎて身動きが取りづらい。事態は一刻も争う状況だった。いつ、長男が徴兵されるかわからない。すぐにでも仁川を出る必要があった。
 祖母はまだ幼い双子のことは当時18歳になっていた長女・ミョンジャに託し、仁川に残すことを決めた。とにかく、すぐにでも兵隊にとられてしまいそうな長男と次女である母だけを連れて釜山に行くことを決めた。長女には釜山での生活が落ち着いたらすぐに呼び寄せると約束した。
仁川には祖母の母や、長男家族、それに障害者ではあるけれど姪っ子たちを可愛がってくれるおじさんもいたから、祖母は長女と双子を残して行く決断ができたのだった。
 ところが祖母たちが出発した翌日には、ソウルが陥落したという知らせが仁川を駆け巡った。北の軍隊が南進を始めてからまだ3日しかたっていなかった。さらに、追ってくる北朝鮮軍の侵攻を止めようと漢江にかかる橋を爆破したために、橋を渡っていたたくさんの避難民たちが命を落としたという悲惨なニュースまで伝えられた。
このままでは仁川も危ないとなり、町は騒然となった。
 祖母に双子を託された長女・ミョンジャもその噂を聞き、慌てて双子を連れて本家を尋ねた。
しかし、衝撃的なことに、そこには障害者の伯父しか残っていなかった。北の軍隊がソウルを占拠したと聞いて、長男家族は自分たちに託された妹の子供達や足でまといになる障害者の弟を置き去りにし、母親だけを連れてとっとと逃げてしまっていたのだ。
 取り残されてしまったと気づいた長女には途方にくれている時間もなかった。まだ幼い双子の命は自分にかかっていた。とにかく、祖母たちが向かった釜山に、自分たちも行かねばとすぐに決意したのだった。
 当時、長女は18歳で、当時ならそろそろ結婚を考える年齢だった。そのため、祖母は長女のために上等な生地や家財道具などを少しずつ用意してやっていた。食料に困ると、その嫁入り道具のつもりだったシルクや、金目のものを渡して、ご飯を分けてもらった。
幼い双子を連れての逃避行には時間がかかった。一日に進むことができる距離は決して多くはない。北の軍はすでに仁川をも占拠し、さらに南進しているという。ソウルはすでに焼け野原だという噂も聞いていた。北の軍に捕まったら殺されてしまうと、長女は必死な思いで釜山を目指した。
だが、すぐに嫁入り道具もなくなり、食料を調達することができなくなってしまった。仕方なく、長女は空き缶を拾って、双子たちに物乞いをさせて食いつないだ。
ある田舎に差し掛かった時に、ボロボロの軍服をきた3人の若い男たちに声をかけられた。坊主頭で顔も汚れ、目だけがギラギラしているその姿に、長女は逃げ出そうとしたが、幼い双子の兄弟たちを連れていたので逃げ切れず、捕まってしまった。
「私はこの子たちを連れて釜山に行かなきゃいけないの! 何もできない女子供を捕まえて、どうするつもりよ!」
 長女はとにかく双子たちを守らなくてはいけないという使命感で、男たちに食ってかかったが、実は彼らもまた助けを必要としている人間だった。
 彼らは北の軍隊から逃げてきた脱走兵だったのだ。
 南下してきた北の軍隊にいたのだが、連合軍の攻撃を受け、その3人は命からがら逃げ出したのだという。朝鮮戦争は表向きは共産主義と資本主義の戦いだったが、前線で戦う兵士にとっては北に生まれれば北の兵士となり、南に生まれたから南の兵士として戦うことになってしまっただけの話で、戦いが激しくなればなるほど、なぜ自分たちが同じ民族同士で殺しあわなくてはいけないのか、その理由を見失って苦しむ者が多かったのではないかと思う。投降する北の兵士の存在は決して珍しくはなかった。
「俺たちはもう軍隊に戻りたくないんだ」
「共産主義のために戦うなんて、本当は嫌なんだ。俺たちは南で暮らしたい」
 しかし、彼らは脱走兵だ。見つかったら北軍からも南軍からも、攻撃されてしまう。だから、家族のふりをして一緒に逃げてほしいと頼んできたのだった。
「だったら、その軍服をすぐに着替えて。そんな格好でいたら、すぐに見つかってしまう」
 長女は実家から持ち出した荷物から、死んだ父親の洋服を取り出して着せた。上質なシャツだったので、いざとなったら食料や金に変えられると思い、大事に持ち出してきたものだった。
 脱走兵の3人は、状況を理解して逃亡に協力してくれる長女にたいそう感謝した。長女にとっても、女一人で子供を連れて逃げるより、男たちが一緒の方が心強かった。お互いの利害が一致し、全員で釜山へと向かう旅が始まった。
 彼らは長女に会うまでの間、避難のために住人がいなくなったお金持ちの家に入りこみ、金目のものを盗み出していた。それらを引き換えに食料を調達してくれるので、以来長女も双子もひもじい思いをしなくてすむようになった。それまでずっと一人で双子を守るために必死だった長女だが、元軍人の男たちが行動を共にしてくれることで、張り詰めていた気持ちが楽になるのを感じた。彼らは幼い双子たちを交代でおぶってくれたり、たわいない冗談で笑わせてくれた。
 長女も久しぶりに声を出して笑うことができた。
 しかし、やはり脱走兵である彼らとずっと一緒にいることはできなかった。全羅道まで降りてきたところで、彼らは長女に残ったお金や金目のものを全部くれた。
「僕たちは都市部に出ることはできない。戦争が落ち着くまで、山深い場所に隠れることにする」
 長女は不安でたまらず、釜山まで一緒に行って欲しいと願った。しかし、一緒にいることで長女や双子までも巻き添えにしてしまうことを彼らは恐れていた。
「釜山まではあと少しだ。このお金で船に乗れば、二日もかからない。頑張って家族の元に辿りつくんだよ」
 男たちと長女は戦争が終わったら、必ずいつか会えることを願って別れた。
 彼らはお金や金目のものを入れたバッグを長女に押し付けるように渡し、山の中へ消えて行った。幼い双子たちも彼らとの別れが悲しくて泣いた。
 そうしてやっと長女と双子は釜山についた。祖母や母との約束の場所の手がかりは「ベイパル商店」という名前しかなかった。
 今でいう釜山の国際市場を、長女は双子の手を引いてベイパル商店を探して尋ね回った。市場は広く、目的の店をなかなか見つけられずにいたが、その時市場のすみでそうめんを売っていた祖母が長女・ミョンジャたちを見つけた。
 仁川からの数週間に渡る逃避行で汚れに汚れ、まるで乞食のように見えるほどボロボロになっていた3人を見つけた祖母は大きな声をあげて駆け寄った。 
 そして、汚れなど気にすることもなく、久しぶりに会えた我が子たちを思い切り抱きしめたのだった。

 先に釜山に逃げた祖母もずっと、仁川においてきた長女と双子のことを案じていた。北の軍隊が想像をはるかに超えて早く南下してきて、仁川が占拠されたと聞いた時は、なぜ3人を置いてきてしまったのかと自分を責め、泣き暮らす日々だった。
 当時の釜山には、今のYMCAのような文化施設があって、そこには各地域の状況を伝える新聞記事や写真が貼られていた。仁川の情報を手に入れようと足しげく通っていた祖母は、実家の近所が爆破されて無残な姿に変わった写真を見つけてしまった。
 残してきた子供達や親戚たちはみんな死んでしまったのかもしれない、生きていたとしても爆撃から逃げまわって怖い思いをしたのかもしれないと思うと、祖母は後悔と辛い思いをさせてしまっていることへの贖罪の思いで胸が張り裂けそうだった。
 祖母はすぐにでも仁川の様子を見に行きたかったのだが、未だ北の軍が仁川を占拠していたので、それも無理だった。ただただ、生きていてほしいと祈る事しかできない日々を過ごしていたのだ。

 祖母と一緒に先に釜山についていた母は、そうめん売りをする母を助けようと、水汲みに明け暮れる日々を過ごしていた。長男が徴兵されることを極度に恐れた祖母は、長男のことは家に匿っていた。自ずと生活は、祖母と母の働きによるものになる。住まいの近くには水道が整備されていなかったので、遠くの水道水を求めて一日何往復もしていた。16才の母の頭のてっぺんは、水桶をずっと頭に乗せたせいで髪が抜け、ツルツルになってしまうほどだった。
 母と長男と3人で暮らす日々はとてもさみしかった。長男より姉・ミョンジャの方がずっと頼りになったし、可愛い双子の弟たちのことも恋しくてしょうがなかった。祖母から、仁川の家の近くに爆撃があったと聞いたときには、母も立ちくらみがするほどショックを受けた。毎晩、姉や双子たちが生きていますようにと祈る日々だったから、長女が双子たちを連れて釜山にたどり着いたとわかった時は泣いて喜んだ。死んでしまったかもしれないと思っていた兄弟が揃ったのだ。
 その当時住んでいた釜山の住まいはまさに突っ立て小屋で、粗末で狭く、新たに3人が加わると足の踏み場もないほどだった。それでも、母は嬉しくて嬉しくて、寝返りも打てないほどぴったりとくっついて寝ることにすら幸せを感じたのだった。

 北朝鮮軍の勢いは止まらず、釜山目前まで迫っていた。しかし、秋には国連軍が「仁川上陸作戦」を行い、釜山に迫る北朝鮮軍の背後から攻撃を開始した。北朝鮮軍は壊滅状態に陥り、国連軍は二週間後にはソウルを奪い返した。  
 さらに、国連軍が逆に38度線を超えて追撃しているという話も聞こえて来た。戦況は日々変化し、この戦争の行方がどうなって行くのか、誰にも全くわからなかった。
 子供たちとは再会できたものの、祖母は仁川に残して来た母が心配でならなかった。あれほどお願いしていったというのに、危険が身に迫った途端に娘たちを簡単に放り出して真っ先に逃げ出した長男夫婦が、年老いた母親をきちんと守っているのか不安でたまらなかったのだ。祖母は相変わらずYMCAの文化施設に通っていた。しかし、消息はつかめない。
 国連軍が北朝鮮軍を圧倒し、平壌を占領、中国との国境地帯にまで迫るほどの勢いだと聞いた祖母は仁川まで実家の家族の様子を見に行くことを決めた。
仁川の実家の様子を見に戻ってみると、確かに近くに爆撃はあったようだったが、実家は残っていて、長男夫婦も戻っていた。しかし、あろうことか母親は亡くなってしまっていた。その原因は爆撃のせいではなかった。めまぐるしい環境の変化や、精神的に頼りにしていた娘と離れたことの不安からか認知症のような症状を発症していたのだ。物忘れが激しくなり、ときには近所を徘徊するようになってしまった。手に負えなくなった長男の嫁が、睡眠剤を頻繁に飲ませて常に眠っている状態が続き、とうとうそのまま眠るように亡くなったと言う。
 あまりのことに祖母はショックを受けた。このままでは障害のある弟も、ひどい扱いを受けるのではないかと心配になった。祖母は弟を連れて釜山に戻ることも考えたが、長距離の移動は彼には耐えられそうもなかった。
 一抹の希望を持って以前住んでいた家の様子を見に行ってみると、こちらもまた爆撃にはあっておらず、そのまま残っていた。そこで祖母はふたたび家族全員で仁川に戻ることを決めた。釜山での生活もだいぶ軌道に乗ってはいたが、それはあくまでも居候生活で自分たちの居場所ではなかった。できることなら、自分たちの居場所だと思える仁川に戻りたいとずっと願っていたのだ。
 再び家族は全員で仁川に戻って生活を始めた。しかし、冬になる頃にはまた、北の勢力が南下して来て、近くで戦いが起きるようになってしまい、再び釜山に向けて避難をすることになった。
こうしてノコギリのように押したり引いたりする戦況に振り回されながら、祖母たち家族も北へ南へと移動を余儀なくされる日々だった。

 そんな大変な日々の中、嬉しいこともあった。
 元山で平穏に暮らしていた頃に、祖母の亡き夫の親戚の女性が忘れ形見の子供達に会いたいと尋ねて来てくれたことがあった。祖母は夫の親戚がわざわざ尋ねてきてくれたことに感激して、盛大にもてなした。当時の祖母は経済的に余裕があったこともあり、その親戚が帰るときには高級な絹で仕立てた服を着せ、土産に高級食材だったタラの乾き物を持たせてとできる限りのことをしてやった。
 その女性は自分が受けたもてなしがどれほど立派だったかを自分の子供達話すほどに感激し、祖母のことをずっと心に留めてくれていた。
 その親戚が祖母たちが仁川にいることを知って、尋ねてきた。ちょうど再び釜山に避難したいと考えていた祖母の願いを聞いて、当時米軍基地に所属している孫に頼んで軍艦に乗れるよう手配してくれた。おかげで祖母たちは、軍関係者の家族として優遇されて、貨物室ではあるが特等席に乗せられてお米や日本お醤油など食料をいっぱい頂いて釜山にたどり着くことができた。祖母の人柄や情の厚さが家族を救ってくれた。こういう経験が祖母を人に限りなく与える人にしたのか、それとも元々の性格なのだろうか。とにかく人に与えることを厭わない、心の中に豊かさを持った人だったということだけは確かだ。

 その後も、祖母の周りには人が集まった。 
 再びたどり着いた釜山では、以前の住まいに落ち着き、市場でそうめんを売って生計を立てていたのだが、そこにやはり北から逃れて来た親戚が祖母を訪ねて来た。家族で避難してきたものの、住む場所もなく、この先どうすれば良いのかわかりませんと嘆いているのを聞いて、祖母はその一家みんなまとめて引き受けることにしてしまった。
 もちろん、家はそれほど大きいわけではなく、部屋は全く足りないので、新しい住まいを建てるまで祖母や母たちは外で寝ることにしてお客さんに部屋を渡した。おかげで、母たちはいつも朝露に濡れていた。
 それでもその親戚たちも一緒に市場で働き、家族同然のように暮らした。お金を貯めては木材を買って、つぎ足すようにして家を広げたり、空き地に新しい小屋を建てたりした。大した材料を買えるはずもないので、とりあえずだいたいの骨組みだけは材木で作り、米軍基地から捨てられた段ボールを釘で打ち付けて壁にした。米軍が捨てるダンボールは丈夫でしっかりしているので人気があって、それを拾っては売る商売があるほどだった。
 屋根は適当に板などを乗せた。床は舗装もされていないむき出しの土の上に、籾殻などをたくさんもらってきては敷き、その上に藁の敷物を敷いただけの粗末な家だった。    
それでもそんな家すら持つことができない人も多かった時代だ。女ひとりで心から頼れる人はいないというのに、どこからか材料を仕入れてきて、どんどん家を建てて行く祖母の生活力や生命力は大したものだった。

 そのうちさらにもう一組の親戚家族が祖母を頼って来た。
その人たちは北の人民軍から逃げてきた脱北者だった。夫は南の韓国軍に捕まって捕虜収容所に収容されてしまっていた。本当にただの脱北者なのかそれともスパイなのか、調査するためだった。残された奥さんが娘3人と息子ひとりの子供達を連れて祖母を頼ってきたのだ。祖母はまたもや当たり前のようにみんなまとめて受け入れることを決め、材料を仕入れてきて家を建ててやった。
しばらく一緒に市場で働いていたが、しばらくするとその人の夫が収容所から出てくることができた。鉄道会社に就職することができて、会社から社宅が与えられることになり、祖母たちとは離れて暮らすことになった。裁縫が得意な奥さんがミシンで内職をしながら家計を助けつつ、夫の給料で生活を始めた。やっと暮らしが落ち着くかと思ったのだが、現実は違っていた。
 商売をする祖母達の暮らしは現金が飛び交う生活で、その日暮らしではあるが食料やお金に困ることはなかった。しかし、実際生活してみると、夫の給料と内職の収入だけでは切り詰めても切り詰めても全然足りず、月末にはいつも支払いが滞るような状況だった。
 祖母はそうなることがわかっていたのだろう、給料日前にいつも母を偵察に行かせて、米が足りないときは米を買ってやり、おかずが足りないといえば作って持って行ってやった。
ある時は突然たくさんのヒヨコを買ってきて、母に届けさせた。ヒヨコを育てれば卵が手に入るようになるし、肉も手に入る。いつもいつもお金や食事を届けていては、相手は申し訳なくなるばかりだ。だから、少しでも商売の種になるものを見つけては渡してやった。
 そうやって、相手の気持ちを思いながら、惜しみなく色々な形で世話を続けていた。

 1953年初めには南北の戦いはこう着状態に陥り、休戦会談が始まった。会談は何度も何度も中断し、またいつ戦いが起こるかわからない不安定な状況ではあったが、市民生活は落ち着き始めていた。
 当時の母は16歳になっていた。北へ南へと移動を繰り返す中、避難先に青空テントの学校が開かれていると聞けば通ったりはしていたが、祖母の仕事の手伝いもしていたから、中学高校の教育をまともに受けているとはいえなかった。
 しかし、何よりも家族の生活の為に一人で奮闘している母親を助けることこそ一番大事だと母は考えていたから不満はなかった。
 他の子供達がやっているのを真似してガムを売ったり、輸入物の紙巻タバコを一本ずつ売ったりしていた。夕方になると売れ残ったゴマを安く買って、それを炒って炒りゴマにするとよく売れた。
 ガムやタバコは、劇場が集まっているところ、釜山劇場、国際劇場などの前で売るとよく売れた。たまにパトロール中の憲兵に見つかると全て押収されてしまうので、仲間同士でサインを作り、互いに知らせあって逃げ回りながら売っていた。
 子供ながらに小銭を稼いでいたので、それを羨ましく思った親戚の娘達は、商売の方法を教えて欲しいと母を頼ってきた。幼かった双子達もその頃には12歳になっていた。子供達みんなで新聞配達やガム売りをなどをしてみんなで家計を助けた。
 
 それでも生活は決して楽とは言えなかった。南北の戦いは朝鮮半島全土に及び、国中に焼け野原が広がるような有様だった。とにかく生きていくことだけを考えなければいけない日々だった。
 そんな時、祖母が元山に住んでいた時の知り合いと再会を果たした。祖母にとって元山時代の暮らしは幸せな記憶で、それを語り合うことのできる相手は大切な存在だった。家族ぐるみでの付き合いが始まった。
 そのかたの息子は空軍のパイロットだったが、第二次世界大戦終戦とともに除隊をしてからは、米軍基地を拠点に仕事をしていた。
 当時、米軍基地での仕事は待遇も給料も良く、子供達の間では憧れの仕事だった。特に女性に人気だったのは電話の交換手だった。母は早速その息子に交換手の募集に応募したいので、英語を教えて欲しいと頼み込んだ。母同士が親しくしていたため、快く承諾をしてくれて、必要な英語を教えてくれた。
 当時、交換手の仕事は10人を採用するのに100人の応募者が来るほど人気の仕事だった。ほとんどが大学卒業者や英語が堪能なエリートたちだったらしいが、親ゆずりなのだろうか人一倍ガッツがあることが認められたのか、母は運良く合格者10人の中に選ばれることになった。
 アメリカとの時差があるため、夕方5時に出勤をして夜中の12時過ぎに退勤となる。何も知らない世間の人は、夜な夜な米軍基地に出入している娘に言えてしまうかもしれない。年頃の娘がそんな仕事をすることをよく思わなかった祖母は、針金の鉄の塀のそとで待ち構えて仕事をやめるように迫った。
 戦後の混沌としている時代だったから、米兵を相手に体を売る商売をしている若い娘がたくさんいた。そのため、若い女性が基地に出入りしているだけで、白い目で見られてしまうこともあったのだ。
 儒教の影響が強い韓国では、今もだが、当時はもっともっと未亡人の家に対する偏見があった。「父親のいない家庭では、子供はまともに育たない」という偏見だ。   
 そして祖母はその偏見をとても気にした。ひとりで5人の子供たちを守り育て、他の家族の生活まで支え、家まで用意してしまう、そんな強い女性だったのに、世間の目にいつも怯えていた。
祖父が亡くなったのは病気で、祖母のせいでもなんでもない。シングルマザーになった理由は離婚でも、不倫でもないのに、女親しかいない家族であることにずっと引け目を感じていたのだ。
 だからこそ、祖母は他のどんな家族よりちゃんとして過程を築くことで偏見に立ち向かおうとしていた。家の恥さらしにならないうちに交換手の仕事をやめるように、祖母は母に懇願した。
 母にも祖母の気持ちがわかったし、それでなくても働きづめの祖母の精神的な負担になりたくなかった。仕方なく気に入っていた電話交換手の仕事を辞めて、家事や祖母の仕事を手伝ったりする生活に戻った。
 ただ、母にとって一つだけ我慢ならないことがあった。長女のミョンジャが気に入らないことがあるとすぐに暴力的になり、母たち妹や弟を殴ることだった。
 仁川から釜山までをたった一人で双子の弟たちを連れてくるほどの責任感の強い人でもあったが、一度怒り出し感情のタガが外れると、落ち着くまでにとてつもなく時間がかかった。
 父親がいなく、母親が朝から晩まで仕事に明け暮れる生活で、幼いうちから母親の役割を強いられてきたことは、彼女にとっても重かったのだと思う。もう二十歳も過ぎてはいたが、自分自身も教育を満足に受けることができないまま育地、内面はまだ未熟だった。なのに、母親の役割を任され、どうしていいかわからなかったのだろう。幼い妹や弟の面倒をみるために、時に暴力に頼らざるを得なかったのはしょうがないことだったのかもしれない。
 しかし、母にとっては姉の暴力は耐え難く恐ろしいものだった。爆発すると嵐のように、殴ったり蹴ったりしてくる。だから、長女を怒らせないように母もそれ以外の妹弟たちも、長女の機嫌を伺うようにして暮らしていた。

 その頃、母方のいとこハンウが映画俳優として活動を始めた。日本の植民地時代、第二次世界大戦に向かって日本が軍国主義へと突き進んでいく中で、朝鮮で朝鮮人による映画製作はできなくなっていた。当時製作されたほとんどの映画が日本人監督によるものになっていた。
 第二次世界大戦後、日本の植民地支配が終わると再び自国での映画製作が始まった。長い内戦を経験し、国民は娯楽とは遠くはなれた生活をしていた。植民地時代の反動で反日映画が多く製作されていて、文化としてはまだ黎明期だった。
 それでもそれまで抑え付けられていた欲求を発散するかのように、映画製作は活発に行われていた。機材もスタッフも、そして出演者も不足していたため、母のような素人にも声がかかったのだろう。もちろん母は演技の経験などなかったが、米軍基地で働いた経験のせいか垢抜けた存在だった。祖母譲りのバイタリティを持ち、内側から溢れ出すパワーを感じたのかもしれない。ハンウは新作映画のヒロインとして母に出演しないかと声をかけてきた。
 その申し出に、母の胸も高鳴った。ぜひ出演したいという思いもあった。しかし、その当時女優という職業には水商売のようなイメージもあって、良家の女性がやる仕事ではないという偏見があった。世間体を何よりも気にした祖母にとっては、娘にさせたくない職業だった。祖母の反対を押し切ることはできず、断ってしまった。
 それ以来、母も思うところがあったのだろう、米軍基地でショーウーマンのオーディションを受けたり、タイピストになろうと教習所に通って英文・韓国文のタイピングを学んだりと母なりに自分の道を模索したが、結局全て祖母にやめさせられてしまった。
「それくらいの給料、お母さんが払ってあげるから、辞めなさい」
 それが、祖母の口ぐせだった。そして実際に、当時の公務員の初任給が3000ウォンの時代に、それよりいい金額を祖母は母に渡していた。
 祖母は未亡人である自分の娘が社会に出て何かトラブルを起こしたら、「あの子は片親だから」と言われてしまうことを心から恐れていた。また経済的にも成功しつつあって、娘を外に仕事に出すほど困ってもいなかった。
 自分は未亡人ではあるが、十分稼ぎ、家族で一丸となって商売を成功させている。それを世間にアピールしたいがために、自分のそばにいてほしいと言い続けたのだった。
 しかし、それから数十年経って、祖母は母を頑なに手元に置き続けていたことをとても後悔していた。
 その後、米軍基地で仕事をしていた女性たちが社会に出て、会社で活躍したり、映画界や音楽界で有名になっているのを見て、娘の成功の芽を摘んでしまったことを心から悔いていた。
 母はことあるごとに祖母に反対され、チャンスを捨てなくてはいけなかったことに傷つきながらも、それが家族のためなのだからしょうがないと割り切る努力をしていた。家族が一つになって助け合わなければ、世の中が混乱していたあの時代を乗り越えることはできなかった。家族こそが一番大事であり、そのために個人の多少の犠牲はしょうがない。そう考えるのが当たり前の時代だった。

 1953年、やっと板門店で南北の停戦が合意に至った。
 仁川と釜山を行ったり来たりする日々を経て、どちらにも商売の基盤を作ってはいたが、祖母はソウルにでることを決めた。仁川に実家はあるが、母親は亡くなり、自分たちに冷たい長男夫婦が取り仕切っていた。それならば、ソウルで一からやり直すほうがマシだと思えたのだ。
 再び、長女であるミョンジャに双子を託して釜山に残して、まずソウルでの経済基盤を作るために祖母は長男と母を連れてソウルに戻った。
 当時、ソウルは何度も空襲にあったせいで、あたり一面焼け野原になっていた。何もなくなってしまったその南大門の広場(いまの南大門市場)に立った祖母は、そこで小さな台を並べておかずを売る露店を始めた。
 そんな状況でも人々はたくましく、次から次へと小さな店が立ち並ぶようになった。なんの許可もなく、正式に商売をしていいというお達しがあったわけでもない。ただ、内戦の混乱を経て、人々は生きるために働かなくてはなかっただけだ。
 商売のために集まってくる輩たちを監視するために警官が馬に乗って巡回をしていた。力づくで彼らをどかせるために、馬を暴れさせて露店を蹴飛ばして回ることさえもあった。  
 馬の足に蹴られて商売等具がダメになることを恐れて、馬に乗った警官が見えると、みんな一目散にいなくなった。そして、警官がいなくなるとどこからともなく戻ってきて、何食わぬ顔をして再び商売を始めるのだった。
 そうするうちに、その広場で正式に商売ができるように許可がおりた。それがいまの南大門市場のもとになった。
 祖母の店の経営は順調だった。特に、調味料やキムチの卸事業を始めてから、祖母と母は息つく間もないほどに忙しくなった。
 あとから思うと、あれほど稼いでいて、注文も後を絶たなかったのだからキムチ工場でも作っておけばよかったと母はよく話していた。しかし、当時は忙しすぎて目の前のことに必死で祖母も母もそこまで頭がまわらなかったのだ。  
 祖母は人を雇ってたくさんのキムチを作らせていたが、母はまだ使えそうな白菜の葉っぱが捨てられているのに気づいた。そんなまだ使える白菜を集めて、母はおかずを作り、こちらは市場に買い物にくる普通の人に向けて売り出した。それもまた人気となり、飛ぶ様に売れた。材料のロスも減らせることができ、祖母も喜んだ。
 大量に作ったキムチはドラム缶に入れられて、仕上がったものは軍人たちがトラックで取りに来て積んで行った。そうして祖母はそれまでにないほど大金を稼ぐことができた。
 その頃、祖母の頭を悩ませていたのは長男だった。長男を徴兵されるのを恐れて、祖母は北へ南へと避難していたのだが、それほどまでに大切にされていたというのに、長男は仕事もせず、遊びまわってばかりいるドラ息子に成り果てていたのだ。
 長男は祖母の仕事を手伝うこともせず、たまに帰ってくると金をせびってくる。祖母が突っぱねると、売り上げを無理やり奪うようにして遊びに行ってしまうのだった。
 嘆き悲しむ祖母がかわいそうで、母は一日の売り上げを必ず銀行に入れることにした。それまでは銀行に預けるという発想すらなく、その日その日の売り上げを個人で管理しているだけだったのだが、長男から売上を守るために銀行と付き合うようになった。そして、その頃から祖母の店は一つの商店、一つの会社として機能し始めることになった。
そうして稼いだお金で、祖母は南大門市場に二軒の大きな店舗を構え、南山洞(今の南山タワーの麓)に二軒の家を購入した。1960年ごろのことだ。
 一軒には家族が住み、もう一軒は長屋のような作りだったので、人に貸し出し家賃収入も得ることができるようになったのだった。
 いよいよ環境が整い、とうとう釜山に残してきた長女ミョンジャと末の双子の兄弟たちを呼び寄せることにした。しかし、長女には釜山にいる親戚の紹介でお見合い話があって、同じく北から避難して南下してきた男性と結婚が決まった。それを知った祖母は、一度釜山に向かい、新婚夫婦が暮らすための新しい家を用意してやった。内戦の間、双子の母親がわりを務めた長女へのせめてもの恩返しのつもりだったのだろう。
 祖母は双子の兄妹を連れて戻ってきた。祖母と母、ドラ息子の長男、そして双子との暮らしが始まった。やっと家族が一緒になって暮らせる喜びは大きかった。やっと安住の地を手に入れたのだ。戦況に振り回されて、北へ南へと逃げ回り、寄る辺なく生きてきたのが嘘のようだった。
 そしてそれでもなお、祖母は働き続けた。母は祖母の願い通り、一緒に商売をし、精神的にも物理的にも支えとなった。
 まだ真っ暗いうちに仕入れの為に家を出る祖母は、母を起こさないようにそっと身支度をする。しかし、母は逆に祖母一人を苦労させたくないという思いで、祖母より先に起きて支度をして一緒に市場に向かうのだった。
 一方で長男は堕ちて行く一方だった。店の仕事は嫌がり、だからと言ってまともな仕事に就くこともできなかった。それを、住む場所が安定せずに十分な教育を受けられなかったからだと、全て祖母のせいにしていた。
 祖母は父が亡くなった後、長男に家を継がせることだけを願ってきた。儒教の影響が強い韓国では、男系の血統で家を存続させたいという家族観がとても強かった。長男は財産相続においても優待されていたこともあって、戸主を長男に継がせて、家を存続・繁栄させることが大事だと考えられていた。
 長男に家を継がせてこそ、母としての役目を果たしたことになる。
 祖母の夢は長男に店を任せ、長男が築くであろう家族と一緒に老後を暮らすことだったのだ。
 しかし、そんな祖母の思いは報われることなく、長男は母のすねをかじり続けた。夜更けまで遊び歩いて、朝は布団から出てこようとしなかった。女手一つで立派に家族を守ってきた祖母だったが、この長男のことについてはのちに私に泣き言を言ったことがある。
「やはり男の子にとっては、父親っていう重石が必要なんだと思うよ。その役割までは、私にはできなかった」
 ドラ息子の長男はその後も祖母のお金をくすねながら生き、一族でも厄介者扱いされ続けた。
 そんな長男を反面教師として育ったせいか、双子の弟たちは真面目に学校に通い、一人は靴職人になった。
 そしてもう一人は空軍のパイロットになりたいと、高校を卒業するとすぐに入隊した。無事管制塔で働くことになったのだが、疲労と栄養失調のせいでてんかんの発作を起こすようになり、除隊することになった。
 結局、南大門市場の店の一つを任され経営することになり、それからも店はどんどん繁盛していた。

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