第1話

文字数 1,611文字

 ポコポコと淹れる珈琲の香に誘われて、僕は来てしまった。
 有明海の引き潮が広大な干潟を生み出し雲仙普賢岳が青い空を突き抜けていく。
 昨日までの自分が何だったのか、分からないまま大きく息を吸ったら移動販売車の窓から丸メガネのおじさんが顔をのぞかせた。

「ああ、今日は天気がいいな。絶好の珈琲日和」
 おじさんは珈琲の道具を磨きながら鼻歌を歌い、お品書きの隣のレトロなラジカセからAMラジオが流れる。(AMかよってちょっと笑う)
 ほんとちょうどいい空とおじさんと僕の距離感だ。
 しばらくすると干潟のドロが肌でカピカピになったので、洗い流しに海に入った。
 すると、「あぶない!死ぬな」
 えっ?
 全力で駆け寄ってきたおじさんに僕は海から引きずりだされた。
「なにがあったか知らんが、まだ人生はこれからだ!死ぬな」
 えっえっ?

 淹れてくれた珈琲を飲みながら、そもそもこんな干潟の海で死ぬわけがないのにおおげさなおじさんの笑顔にしだいに心がひらかれて僕は少しづつ昨日までの自分を思い出して話をした。
 高校1年生16歳。小学生から始めた剣道は6年になる。高校は剣道の名門だから朝から晩まで剣道漬けの毎日だ。田舎の中学でたった10人の部員で一番の実力、部長も務めたが、高校では訳が違った。1年生20人の中では弱い方から数えたほうが早い。実力が見えてきたころ、最初はやさしかった先輩もだんだんとその実力の差をストレスのはけ口にするようになってきた。剣道ならばどんなに防具の無いところを攻められようが、執拗に喉に突きを食らおうが我慢できる。でも、でも・・寮生活の中では・・
 (これ以上は無理だ。誰にも話さなかったのに。恥だ、恥)
 僕はとめどなく流れる涙と心臓からこみ上げる声をこらえきれなくなった。

「ムツゴロウ」
「オレたちは生まれ変わったら有明海のムツゴロウになる」
 おじさんはいきなり違う世界から話しかけてきた。
「そう思わないか?」
 僕は首を横に振った。
「これを見な」
 タオルハンカチと一緒に差し出されたスマホ。
 スマホにはムツゴロウが勢いよく飛び跳ねた画像、スライドさせると二匹が互いに口を大きく開けた画像が目に飛び込んできた。
「どうだ。人の顔に見えないか。オレたちは有明海で生まれ、有明海で育ち、有明海で死ぬ。しかも人とムツゴロウの繰り返しでだ」
 ムツゴロウの世界と今流行りの転生か。おもしろい発想だけど、さっき有明海で死のうとしたのを助けたのはおかしくね。
 僕たちは声をだして笑っていたら、なんだかさっき思い出そうとしていたことがすっかりどこかに飛んで行ってしまった。

「特待生だろ君」
 えっ、当たりだ。風が温かくなって元の話に戻った。
「オレもそうだったからわかる。特待生だと学費免除で親の負担は少ない。経済的に助かる家庭もある。それを分かって進路を決めた君は簡単に辞められないから苦しいんだ」
 そう、当たりだ。
「苦しむ君の姿は誰も幸せにしない。だから親の幸せを思うなら、まず、自分が幸せに生きる」
 自分の幸せが先でいいんだ。
「辞められない理由ばかりがあるんじゃない。辞めたら何かを始められるだろ。何かを始めるために辞めるんだ」
 何かを始めるためにか。その「何か」を考えていくうちになんだか気分が違う気がする。
「そして、君が剣道部を辞めると言ったとき、引き止めたり話を聞いてくれる人がいたら、その人が君にとって一生頼りにできる人だよ」
 やさしいまなざしでゴツゴツと分厚い手が僕の肩をたたく。

 めぐり逢いたかったな。こんな人と。

 有明海の潮がカニやヤドカリを追いかける。
 お客さんが来始めたおじさんは腰を上げて販売車に戻っていった。
「珈琲出したらお菓子持ってくるからちょっと待ってて」

 僕はおじさんに見つからないように海に帰る。
 飛び跳ねないように。
 ゆっくりと。

 お菓子を持って僕を探す。
 移動販売車のマスターが挽く珈琲の香が有明海をつつむ。
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