第1話

文字数 3,700文字

 僕の父さんの辻本勝彦が小学3年生の時の話だ。
 小学校からの帰り道、勝彦とその友人の小山君は大勢の小学生が集まっている光景を目撃した。
 小山君は「行ってみようよ。」と勝彦に声をかけた。小山君は小学3年生で同じクラスになってから勝彦と友達になったクラスメートだ。
 二人は小走りでその集団の輪の中に入った。
 その輪の真ん中には20代くらいの眼鏡をかけてスーツを着たひょろ長い男の人がにこやかに立っていた。二人は勝彦と小山君に目を向け、にっこり笑うと、
 「新しいお友達が来たから、もう一度説明するよ。」と言った。そして手に持った1冊の冊子を周りに集まった小学生たちにぐるりと見せるとこう続けた。
 「今日、僕がみんなに紹介するのはこの漢字練習帳。この漢字練習帳には小学1年生から小学6年生のすべての漢字が一覧表になって載っているんだ。君、漢字の書き取りは得意?」
 と周りに集まっている小学生たちの中の、ひとりの男の中に尋ねた。
 その男の子は恥ずかしそうに首を横に振った。
 「そうだよね。僕も漢字の書き取りは苦手だったんだ。でも、漢字はとにかく書いて覚えなくちゃいけないよね。」と同意を求めて、ぐるりと小学生たちを見回した。
 勝彦の隣で、小山君がうなずいた。
 「その時に使うと便利なのがこの文字かきボードなんだ。」と言って、足元に置いていた黒い鞄からB6ノートくらいの大きさのボードを取り出した。
 ボードの真ん中に灰色のシールのようなものが貼ってあり、その周りにはドラえもんなどのキャラクターのイラストが描かれていた。
 「このボードにはこの特製ペンがついてくるんだ。」と男の人は言った。そして、そのペンでボードに漢数字の「一」を記入した。
 「そして、このスライドバーを横に引くと、あら不思議。」と言って男の人は灰色のシールの左下の突起をつまみ、左から右にひくと、シールに書かれた「一」の文字が消えた。
 「こうやって、何度書いても、消すことが出来るから、漢字の練習には最適なんだ。」と男の人は得意そうに言った。
 「それから、こんないたずらも出来る。」と男の人は話を続けた。
 「例えば、友達の後ろで、このボードにこんな文字を書いてみる。」と男の人は言って、ボードにペンで「バカ」と書いた。それを見た何人かの小学生が笑った。
 「その友達の後ろで気づかないようにこのボードを出してみる。で、今みたいに周りが笑って、その友達がなんだ、なんだとなって後ろを振り向いたら、このスライドバーを引いて文字を消すんだ。」男の人はバーを引いて、「バカ」という文字を消した。
 「え、なんのこと、僕、何にも知らないよと言ってとぼけちゃうんだよ。」と男の人がおどけていったので、周りの小学生たちみんなが笑った。勝彦も小山君も笑った。
 「これ以外にもたくさん使い道があるこのボードがついて、この漢字練習帳セットはたった1,000円。欲しい人は、今日、4時までここで販売しているので、みんな、ぜひ買いに来てね。」と男の人はニコニコしながら言った。

 そこからの帰り道、小山君は興奮しながら勝彦に、「あの漢字練習帳のセット、絶対に買いに行こう!」と言った。「勝彦君はどうする?」
 「うん、ちょっとお母さんに相談してみるけど。」と勝彦は迷いながら答えた。勝彦にとっては1,000円は大金だった。毎月の小遣いの2か月分に当たった。とてもじゃないけれど、今の状況では買えない。母親に相談するしかなかった。

 小山君と別れて、家に帰るやいなや、勝彦は台所にいた母親に帰り道で見た漢字練習帳について話をして、買いたいのでお金がほしいと頼んだ。
 母親は勝彦の話を聞くと、「どうせ、そんなもの買っても、勉強なんかしないでしょ。」とそっけなく言った。
 勝彦はむっとして「勉強するよ。」と言って、「小山君もみんなも買うんだよ。」と続けて言った。
 「他の人は関係ないでしょ。」と母親は言った。「うちは小山君の家じゃないんだし。」
 「みんな買うのに僕だけ買わないんじゃ、仲間外れにされちゃうよ。」と勝彦は母親を睨みつけた。
 「そんなことで仲間外れにするような人たちは友達じゃないよ。」と母親は言った。
 「じゃあ、僕の「自転車貯金」から出してよ。」と勝彦は言った。勝彦は変則ギア付きの自転車を買うために、母親と相談して、お年玉を貯めて「自転車貯金」をしていた。
 母親はため息をついて、「ちゃんと勉強するの?」と尋ねた。
 「勉強する。」と勝彦は答えた。
 母親はそれ以上は何も言わず、財布をとってきて、小さく折りたたまれた千円円札を出した。
 「ありがとう、じゃあ、買ってくる。」勝彦は千円札を受け取ると、勢いよく家を飛び出した。

 漢字練習帳を売っていた場所に走って戻ると、男の人が一人でぼんやりとタバコを吸っていた。周りには誰もいなかった。男の人は勝彦を見ると、にっこり笑って「買いに来たの?」と尋ねた。
 勝彦は黙ってうなずいて、千円札を出した。「毎度あり。」と男の人は言って、漢字練習帳と文字かきボードが入った透明のビニール袋を勝彦に渡した。
 小山君はもう買ったのだろうか、と勝彦は思った。しばらくそこで待っていたが、誰も来なかったので、直接小山君の家に行ってみることにした。二人で文字かきボードで遊ぼうと思った。

 小山君の家に向かう途中、前から小山君が自転車でこちらに向かって来るのが見えた。「ああ、これから買いに行くのか。」と勝彦は思ったが、小山君は一人ではなく、周りには何人かの男の子が自転車に乗っていて、その一団がこちらに向かってきた。
 「やあ、勝彦君。」と言って小山君は勝彦の前で止まった。そして、勝彦が手に持っているビニール袋を見て、「あ、漢字練習帳を買ったんだね。」と言った。
 その時、自転車に乗っていた男の子の一団の中で、小山君の隣にいた体の一番大きい男の子がバカにしたような声でこう言った。「へえ、あんなもの買うやついるんだ。」
 それは小山君の小学2年生の時に同じクラスだった赤木という男の子だった。小山君は赤木を困ったように見た後、「ねえ、勝彦君、その文字かきボードを見せてよ。」と言ったので、勝彦は文字かきボードを小山君に渡した。
 小山君は文字かきボードに専用ペンで「小山」と自分の名前を書いて、スライドバーでその文字を消した。そして一言「面白いね。」と言った後、「買いたかったんだけど、お母さんがダメだって。」と続けた。
 「おい、小山、そんなくだらないことしてないで行くぞ。」と赤木がイライラした口調で小山君に言った。
 「うん。」と小山君は赤木に答えると、ボードを勝彦に返し、「それじゃあね。」と言った。
 それから、その男の子たちの一団は赤木を先頭に凄いスピードで去っていった。
 勝彦はその後姿をしばらく見た後、自分の家に帰るため、来た道を引き返した。

 家に帰ると、母親が台所から廊下に出てきて、「漢字練習帳は買えたの?」と勝彦の顔を見て尋ねた。「うん。」と勝彦は答えた。
 「小山君とかみんなも買えたの?」と母親がさらに尋ねた。勝彦は少し考えてから「うん、みんな買えたよ。」と答えた。「そう、良かったね。」と母親は勝彦に言った。それから、「ちょっとスーパーに買い物に行ってくるね。」と言って外出した。

 勝彦は自分の部屋に入ると、ビニール袋から漢字練習帳と文字かきボードを取り出し、改めてしげしげと眺めた。小学1年生から小学6年生のすべての漢字が一覧表になって載っているという漢字練習帳はぺらぺらに薄い冊子でホチキスで簡易に留めてあった。文字かきボードの灰色のシール部分の周りに書かれたイラストは遠目に見たときはドラえもんかと思っていたが、近くで見るとそれはドラえもんとよく似た、見たこともない青いトラのキャラクターだった。
 勝彦は文字かきボードにペンで「バカ」と書いた。そしてスライドバーでその文字を消した。先ほどの男の人がやった時には大笑いしたが、自分一人でやってみると面白くもなんともなかった。
 勝彦は、文字かきボードとペンを机の上に放り出して、ベッドに横になり、天井を見つめた。窓から部屋に差し込む夕陽が天井を赤く照らしているのが、滲んだ涙のせいでぼんやりと見えた。

 部屋の外から、母親が勝彦を呼ぶ声が聞こえた。「勝彦、お父さんが帰ってきたから、夕飯にするよ。」
 いつの間にかベッドで寝てしまっていたらしい。勝彦は目をこすって起き上がった。
 「今日は、勝彦の好きなカレーよ。」と母親の声が聞こえた。
 「うん、今、行く。」と勝彦は答えた。
 部屋を出る時に、机の上に漢字練習帳と文字かきボードがそのまま置かれているのが目に入った。勝彦は漢字練習帳と文字かきボードを掴むと、机の引き出しの中に放り込んだ。そして、夕飯を食べるために部屋を出て食堂に向かった。
 窓の外はもうすっかり暗くなり、月の光が部屋の中に差し込んでいた。
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