第2話 クモの懊悩

文字数 1,757文字

 太陽は長い間、空に姿を見せ続け、草木は祝福するように大きく背を伸ばし、見える景色のすべてが深い緑に染まった。
 クモは危険を避けるため、住処を移動していた。なるべく外敵から見つかりにくくするため、巣や糸を枯れ木と土で覆い周囲の景色に溶け込むことができるような場所を選んだ。
 奇跡的にイモリに捕まらずに助かったあと、
「なぜ僕はまた生かされたのだろうか?」
「運が良かっただけなのであろうか?」
「救われたのには何か理由があるのだろうか?」と、よく考えるようになったが、理由について、答えがみつかることは決して無かった。
 
 食べ物となる虫を捕まえる時は警戒を怠らず、すぐには巣穴からとび出さずに、罠ではないか、注意を払うようにしていた。そのように行動すれば長く生きていくことができると信じていた。
 しかしそのような慎重さは、結果としてクモにとって思いもしなかった苦しみをもたらすこととなった。捕らえる虫の話す声を聞くことになったからだ。
 
 ある日、一匹の蟻が糸を揺らした。クモはそこに居るのが蟻であることを確認し、とびかかる準備をしていたところ、蟻の話す声を聞く事となった。
「みんなのために、食べ物が無くなる冬に備えて、今のうちに食べ物をたくさん巣に運んで貯めておかないと。」
「今日も生き抜くぞ。」
 蟻が話していたのである。
 ここで何も考えずにいつも通りに捕らえてしまえばよかったのであるが、しばらくの間、躊躇してしまい、蟻は糸の先から離れ、どこかへ行ってしまった。
 なぜ捕らえることを躊躇したのかがわからなかった。自身が持つ本能に逆らう何かが心に芽生えていた。
 躊躇から蟻を逃がすこととなってから数日後、糸が揺れ、慎重に見にいくと、糸の先には以前とは違う蟻がおり、
「みんなのために生き抜くぞ。たくさん食べ物を巣に運ぶぞ。」
 話を聞いたクモは
「なぜ自分のためじゃなく、仲間のために生きているんだ?」
 また戸惑いが起こったが、あまりの空腹から跳びかかった。
「お願い、助けて。仲間や産まれてくる子供のために食べ物を巣に運ばないといけないんだ。」
 クモは心の中で叫んだ。
「仕方がないんだ。どうしようもないんだ。生きるためなんだ。」
 クモは迷いを断ち切り、牙を蟻に突き刺し、巣の中へと引きずりこんだ。蟻の目からは大量の涙がこぼれていた。
 その後も捕まえる生き物からの助けを懇願する声をたくさん聞くようになった。
 クモの心は粉々になってしまいそうだった。
「なぜ、こんなに辛い気持ちが沸き起こってくるのだろう。あんまりだ。」
 涙が止めどなく溢れて、心臓に針を突き刺されたかのような鋭い痛みが治まらなくなった。
 次の日も糸が揺れた。糸の先にテントウムシがおり、生きていることを賛美する詩を歌っていた。クモは跳びかかれずに詩に聴き惚れてしまった。
「美しい詩だなあ。」
 すると、テントウムシの姿、形に目が奪われ始め、
「真っ赤な背中に丸い黒の斑点模様がある。なんて綺麗なんだろう。」
「なぜあんなに目立つ模様と色をしているんだろう。」
 しばらく見とれていると、テントウムシは羽根を広げ、緑の間から溢れる出る光の中を真っ直ぐに真っ直ぐに天に向かって飛び立っていき、終には見えなくなった。
 クモは生きているもの、存在しているもの、そのすべてが美しいと感じはじめた。

 それからのクモは、食べ物となる他の生き物を捕まえることができなくなった。糸に振動があり、生き物が居るのがわかっても、とびかかろうとせず、巣の入り口近くで隠れて眺めているだけになった。
「僕が捕まえないことで救われる命がある。」
「なぜ、他の生き物の命を奪わずに生きていくことができないのだろう。」
「他の生き物の命を奪わずに生きていくことができたなら、僕はこんな苦しみや悲しみを感じずに生きていけたのに。」
 クモはとうとう他の生き物を捕まえることを止めてしまった。飢餓に対して強い体をもっているため、苦しみは大きいものとなった。

「僕はクモとしては出来損ないであった。」

 クモは夢を見ていた。
 空は薄い青色に澄んでおり、風は体を包み込むように吹き、新緑の草木が優しく顔を撫でた。心は大変穏やかであり、痛みや苦しみは一切なかった。
 しばらくすると、音は無くなり、たいへん静かになった。
 

 
 
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み