第1話

文字数 1,952文字

 江戸・深川を走る掘割のほとりに、どこにでもありそうな屋敷があった。そこは、あまり知られていない岡場所(幕府非公認の遊郭)で、殿様がしばしばやってくるという噂がまことしやかに囁かれていた。

 当時の江戸では風紀を乱す岡場所が次々と取り壊され、遊び場を奪われた庶民の不満が高まっていた。そんな中、殿様の岡場所通いは格好のゴシップとして一部に広まり始めていた。

 それにいち早く目を付けたのが、読売の八郎だった。読売とはいわゆる瓦版を売る者のこと。八郎は、書き手も兼ねていて、面白いネタを掴んで興奮していた。早速、たれ込み屋の熊五郎をしゃも鍋屋に誘い出した。
「熊よ、例の岡場所にやってくる殿様の正体をつきとめてくれねえか」
 無宿人で橋の下をねぐらにしていた熊五郎は、酒と料理で腹を満たし上機嫌になり、二つ返事で請け負った。

 次の夜、例の岡場所を見通せるから暗がりに、むしろを敷いて寝そべる熊五郎の姿があった。男たちを乗せた舟が、掘割を音もなく滑ってきた。舟から降りた殿様らしき男が、岡場所の裏木戸に近づくのを熊五郎は見逃さなかった。外に残ったお供の死角から塀を越えて屋敷に忍び込んだ。

 明かりの灯った部屋から聞こえる男女の会話に、熊五郎は聞き耳を立てる。女がきつい声で男の名を呼ぶと、男は赤子のような甲高い声で応えた。続けて男がすすり泣くような声を上げ、女の足元にすがりつく。その様子が障子越しに手に取るように分かった。女が「さだのぶ」と呼ぶ声を熊五郎は確かに聞いた。

 熊五郎から報告を受けた八郎は、5日後の同じ時刻に掘割の向こう岸から岡場所を見つめていた。程なくして殿様とお供を乗せた舟が到着し、彼らが裏木戸に向かって歩み始めた時、八郎はつぶてを投げた。それが塀に当たり、大きな音を立てた刹那、殿様は笠をずらしてふと顔を上げた。それは、かつて見たことがある松平定信公の人相書きと瓜二つだった。

 お供は刀を抜いて周囲に鋭い目を走らせた。「間違いねえ」と踵を返した八郎の背中に、「待て」とお供が声を掛けるが、掘割の向こうからではどうすることもできず、八郎は安々と暗がりに逃げ込んだ。

 あくる朝、あれこれと読売の文を思案する八郎の元へ、どこで聞いたのか幕府の使者がやってきた。
「ここに10両ある。お前が書こうとしている読売を反故にすれば、この金はお前のものになる」と言うと八郎の膝の前に袱紗の包みを開いた。
「知らねえな。何の話だ」
「とぼけるな。お前が岡場所に張り込んでいたのは分かっている。飲み代のつけで首が回らないそうじゃないか」
「読売をなめるなよ。どんなネタだろうが、そんなはした金になびくようなやわじゃねえ。お引き取り願おうか」
「いいのか。後で後悔するなよ」
「あったり前よ。こっちはな、書きたいとことを書く。それだけは曲げられねえ。さっさと帰ってくれ」

 翌日、多くの人が行き交う日本橋の上に、編み笠で顔を隠した八郎と熊五郎の姿があった。八郎が懐から読売を取り出し、「質素・倹約の張本人、定信公の岡場所通いを暴いたぞ。しかも赤子もどきのあられもない姿でお楽しみときたもんだ。さあ読売を買ってくれ」と声を張り上げる。読売には、遊女の足下にすがりつく殿様の姿が大きく描かれている。八郎の周囲はたちまち黒山の人だかりとなり、読売は飛ぶように売れた。それを見た辻番が飛び出してきた。見張り役の熊五郎が「逃げろ」と押し殺した声でささやくと、八郎は残った読売を空高く放り投げた。はらはらと宙に舞う読売に人々が手を伸ばす。その騒ぎを横目に二人は群衆の中に姿をくらました。

 八郎は、ほとぼりが冷めるまで身を隠すつもりだった。支度を終えて、家を出ようとした、その時、
「おいちょっと待った。どこへ行くつもりだ」と肩を掴まれる。
八郎が、ゆっくりと振り返ると、そこに居たのは、八郎が足繁く通う飲み屋の主人、十兵衛だった。
「おい八郎、そろそろつけを払ってもらおうか」
「なんだ十兵衛殿か、かたじけない。来月には必ず耳をそろえて払うから、もうちょっと堪忍してくれねえか」
「先月もそんなこといってたじゃねえか」
「そうだったかな。来月こそは必ず」
「知ってるぞ、昨日の読売はたいそう売れたそうじゃないか。殿様の弱みを暴くなんぞ、八郎はさすがに骨があると町中で評判だ。その売り上げを少しよこせ」
「いや、途中で邪魔が入って、ほとんどただでばらまいちまったんだ、もう手元に金は残っちゃいねえ。本当だ」
「仕方がねえや。来月こそはきっとだぞ。そしてまたすごいネタをばらまいてスカッとさせてくれよ」
「ああ必ず。恩に着るよ」

 八郎は足早に長屋を後にしつつ、目の前に積まれた小判を思い出していた。脳裏にちらつく黄金の輝きを振り払い、八郎は夕暮れの街に消えていった。
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