第1話 丙午(ペガサス)の遺言

文字数 33,409文字

 見上げればすぐそこに星の瞬く夜空があった。
「それにしても織江、お前迄逝っちまうなんてな」
 幸雄はそう独りごちると、群青の空に星々の大四辺形が織り成すペガサス座を探してみた。
 つい先日ペガサス座流星群を見逃してしまったばかりで、夜空に羽ばたく天馬を見たい一心で、暫くの間目を皿のようにして探してみたが、畢竟口元に自嘲の笑みを浮かべるとになってしまう。 
「今の時期に肉眼じゃ、さすがにペガサス座は見えないか」

 それにしても都心部から望遠鏡も使わずに、肉眼でこんなに鮮やかな星の瞬きに出会えることなど、そうそうあるものではない。
 何故だろう? 今日が亡くなった妹の新盆だからだろうか。
 そんなたわいもない考えがふと幸雄の脳裏を過る。
 立ち昇る線香の煙に燻されたことも相まって、彼の目頭には何時の間にかうっすらと涙が湛えられていた。

 眼前には二人の遺影が並んで仏壇の中に納まっていて、まるで血肉を分けた姉妹のように微笑んでいる。
 十年前に逝ってしまった彼の妻の昌子と、つい先日鬼籍に入った妹の織江のものである。
 それぞれの遺影の前にはお供え菓子の盛り籠が供されている。
 仏壇の両側に据えられた雪洞が、哀しげな夏の花々を朧に映し出し、二人の居なくなった淋しさをいやが上にも浮き彫りにする。
 そして花入れには妻と妹二人の好きだった一輪の赤い薔薇も。      

 今日庭のアーチに咲いていたドルトムント。
 一年中そのつるには赤い花を咲かせる。
 一度散ってしまっても、何度でもすぐに・・・・・。

  唄うようにそう呟くと、幸雄は無意識のうちに嘆息を漏らした。
 その拍子に落涙を余儀なくされ、頬を伝った一条の涙を拭う。
    
 つい今し方外気を取り込もうと窓を開けると、見上げた群青の空には満天の星が拡がっていた。
 幸雄は窓際に据えられた仏壇の前に膝を正したまま、上半身だけを捩って窓枠に凭れ掛かかり、夜空に散りばめられた星々に織江の面影を重ね合わせていた。
 そんな静寂から彼を揺り起こすように玄関の引き戸がガラガラと音を立てると、紛れもない妹の声が彼を呼んだ。        
         (1)

 「兄さん、兄さん、居るの、居ないの? 兄さん」 
        
 ぎょっとして幸雄は、自身の心臓が跳ね上がる音を聴いた。
「織江? 織江なのか!」
 気付いた時にはそう大声で叫んでいた。

 慌てて立ち上がろうとして、足が縺れてしまう。
 倒れ込みそうになる体を叱咤して玄関迄飛んで行くと、そこには舌をぺロッと出して微笑む姪っ子の姿があった。
「叔父さんも騙されたか。へっ、へっ、へっ」
 悪戯っぽく微笑む姪の詩織を見て、ホッとした幸雄は式台に尻餅をついてしまう。
「へっ、へっ、へっじゃないよ詩織ちゃん。叔父さん心臓が飛び出すかと思ったよまったく。そういうの、洒落になんないよ」
 正気を取り戻して壁を伝って這い上がろうとする幸雄に、彼女はにべもなく告げる。 
「ただいま」
 詩織はいつものように自分のスリッパを突っかけ、ずかずかとリビングに向かって上がり込んでいく。
「そんなに母さんに似てる?」
 振り返り再び悪戯っ子のようにウインクして見せる詩織に対して、幸雄は唯「ああ」とだけ返事をして、所在なさげに頭を掻いた。
           
 妻が亡くなってからこの方、この家で女気と言えばたまに訪ねて来る妹の織江と、幼い頃から幸雄が娘のように可愛がってきたこの詩織くらいのものであり、男所帯で溜まりに溜まった洗濯物や洗い物などを二人して片付けてくれていた。
 当然二人にはこの家の鍵を預けているのだが、織江が心筋梗塞で世を去って葬儀以降初盆に到る今日迄数週間、詩織はこの家に全く姿を見せていなかった。

 彼女の第二の実家とも言うべきこの家は、ここ数十年で駅周辺の土地の地権者が次から次へと入れ替わり、鉄筋のビルやマンションに建替えられる中、唯一建替えを免れた庭付きの木造家屋である。
                     
 そしてこの家は大規模な都市開発が始まる先頃迄、中野駅周辺で「秋月さんのお宅は」と訊けば、直ぐにでも場所を教えてくれる程有名な大地主の家だった。
 さすがに今となっては「秋月さんのお宅は」では通じないものの、その代わりに「秋月地所は」と訊けば、直ぐに本社ビルの場所を教えてくれるところは、以前と何等変わっていない。
         (2)

 つまり言い方を変えれば、この家は秋月地所の社長宅なのである。
 父の代から幸雄の代を通して、代々受け継がれて来た「秋月家」の所有地の上に、次々にマンションや賃貸ビルを建てていった結果、株式非公開とは言え、秋月地所は大規模な不動産賃貸業者となった。

 そんな秋月地所の社長の姪は、たとえ女手一つで母に育てられたとは言え、お嬢様育ちには違いない。
 金銭に頓着しないところは母親譲りなのか、織江の葬儀の際に織江名義になっている「秋月地所」の株や、幸雄が織江から預かっている預金の相続があるからといっておいたのにも拘らず、葬儀からこの方詩織は梨のつぶてであった。
 いい加減手続きをしないといけないからと会社の顧問弁護士にせっつかれ、「一度戻って来い」と父の威厳を以て詩織に督促するも、「全部伯父さんに任せる」と言われて、幸雄は忽ちいつもの優柔不断な伯父に戻って、謙って頼み込むことになった。            
「そう言われても困るんだよ。とにかく一度こっちに来てよ詩織ちゃん。
 一樹も『詩織姉ちゃんどうしてんだろ』って心配してるし。
 四十九日には少し日があるけど、織江の新盆な訳だから」  
            
 昌子が亡くなった後、いつも何かと身の回りを世話して貰っていた引け目からか、幸雄は生前の織江には頭が上がらなかった。
 その意味では詩織も同様であり、またあっけらかんとした性格も相まって、どうも彼女にも頭が上がらない。
 それにも況して仕事の上で幸雄には、織江に対して生前に返せなかった大きな「借り」があった。
「わかった。じゃあ仕事終わったら週末迄に帰るから」
 そう言ったきり詩織の電話は切れた。
                
 その後も彼女はこの家に帰って来る正確な日時を、今日迄予め幸雄に対して告げることはしなかった。
 確かに母の実家であるこの家は詩織の実家でもあり、彼女はこの家の敷居を「お邪魔します」ではなく、「ただいま」と言って跨ぐ。
                     
 普段帰って来るときも、一々日時を幸雄に知らせたこともなければ、またその必要もない。
     
 しかし相続の話をしなければと身構えていた幸雄に取って、このような形での突然の彼女の帰宅は、不意打ちを喰ったようでどうにももどかしかった。

 真っ白なエプロンを巻いて、キッチンに立って洗い物を始めた詩織の背中に掛けた幸雄の言葉が、何時になく強い語気を含んでいた。
「せめて今日何時くらいに帰るとか、そのくらいはさあ。電話一本すれば済むんだし。
         (3)

 伯父さんにも準備ってもんがあるんだから」 
 幸雄の予測に反して詩織は振り向きもしないで、いつものあっけらかんとした調子で応える。
「準備って?」
 幸雄は大きく一つ溜息を吐くと、更に語気を強めて言った。
「相続だよ、相続! 色々と手続きもあるし、相続税の計算だってしないといけない」
「ふーん。そうなんだ」
                
 まるで他人事のように背中で応える詩織に対し、幸雄はきちんと諫言すべきかとも思ったが、一々そんなことで時間を取るのも馬鹿らしく思えてきて、睨め付けていた彼女の背中から眼を逸らすと、からかってやろうと意を決してにやと口元を歪めた。
「詩織ちゃん自身の事なんだけどなぁ。ま、そんな風に織江の遺産なんてどうでもいいって思ってるんなら、代わりに伯父さんが貰っちゃうから別にいいんだけどさ」
「それは駄目よ。私は禁治産者じゃないし、相続権も放棄しない」
 頬を膨らませてはいたが、漸くこちらに振り向いた詩織に対し、
 幸雄は我が意を得たりと、大きく肯いてから片手を伸べて向い側へ座るよう促した。
「そうだろ。じゃあここに座って。
 きちんと説明するから」
 詩織は幸雄に対し微笑みだけを返し、またも背を向けて黙々と洗い物の続きを始め出すと、少し間を置いてから応えた。
「分かった。ここ片付けてからね」
 幸雄は「そこは後でいいから」と言う言葉を呑み下し、一度口元を結ぶと、諦念の入り混じった溜息を吐いた。
「強情だな。ま、いっか。
 相続手続きの書類持って来るから、それ迄には終わらせて、なるべく早くにな」
 反省の色の窺える殊勝な眼で真っ直ぐに自分を見詰める詩織に、椅子から立ち上がった幸雄は軽く手を上げて応える予定だった。
           
 ところが再び振り返った詩織が、「今早くって言った?」と訊き返したとき、憤怒の怒りを籠めた視線をこちらに向けているのを見て取った幸雄は、気圧されて後退るばかりとなった。
「あ、ああ・・・・・言ったよ」

 詩織は装っていた平静を保ち切れずに、ブチッと音を立てて懊悩する自我が悲鳴を上げるのを聞いた。
「誰の為にやってると思ってるのよ! 私だって帰って早々洗い物なんかやりたくないんだからね。
 こんなに洗い物溜めちゃって。
 どうせ洗濯だってやってないんでしょ。
 本当に伯父さんも一樹君もまったく・・・・
・男ってのはまったく」
        (4)

 詩織は洗っていた皿を持ったまま力の限りがなり立てたが、我に返ったときには、既に幸雄の姿は視界から消えていた。  

 伯父さんは怒って何処かに行ってしまったんだろうか。
 いや、多分そうじゃない。
 幸雄伯父は頃合を見計らっているのだ。
 きっと伯父さんは相続手続きの書類を持って、リビングに笑顔で戻ってきてくれる。
 詩織はそんな風に独り善がりの思いを廻らせた。
 優柔不断で煮え切らないところのある伯父さんだけど、今自分の気持ちを素直にぶつけれる唯一の存在。
 ましてや自分の為に相続の手続きをしてくれると言う幸雄伯父に対して、絶対にあんな態度を取ってはならない。
 詩織は分かっていながら、冷静に対せなかった自分を呪った。

 幸雄に対して申し訳なかったと言う気持ちと、昨夜の自身が取った荒唐無稽な行動を後悔する念とが綯い交ぜになって、詩織は腹の底を揺るがして猛然と熱いものが込み上げて来るのを感じた。
 しかし頬を伝う熱い滴の意味を、今の詩織は咀嚼し切れていない。
 拭い切れないそれは溢れ出るばかりで、流しの前に立つと無意識に嘆息が漏れる。

 落涙することで落ち着きを取り戻したのか、首筋や脇に纏わり付いていた粘着質の汗に、詩織は今になって漸く気付いた。
 振り仰ぐとリビングの冷房の赤いランプは点灯しており、送風口から部屋の隅々迄心地よい冷風を運んでくれている筈なのだが、むっとする熱気が冷房の醸す人工の涼気を圧倒している。
 何処だろう? 真夏の夜気が紛れ込んでいるのかも知れない。 
 そう思った詩織はエプロンで乱暴に涙の跡を拭い取って、リビングに勢いよく足を踏み入れた。

 見ればリビングと次の間を仕切る襖は開かれており、その先の仏間の窓が開け放たれたままになっている。
 自分が帰ってきた際に玄関で母親の真似をして驚かせたせいで、恐らく幸雄は仏間の窓を閉めることも忘れて玄関に走ったのだろう。
 そう考えると可笑しくて、詩織は少し頬を緩ませた。

 ところが閉めようとして窓の方に近付くと、仏壇に飾られた母の織江と伯母の昌子の遺影が視界の端を過り、再び彼女の頬を強張らせることになった。
         (5)

 詩織は自ずと仏前に膝を正す。
 赤々と燃える燈明から火を貰って仏前に線香を上げると、母は生前と同じ微笑みを詩織に向けてくる。
 またその隣りの伯母の昌子も十年前と同じ、あの包み込むような笑顔をこちらに向けている。 
 詩織は唇をぐいと噛み締めた。

 人ってどうして死んじゃうんだろ。

 そんな感慨を催してしまい、詩織は「どうしてなの?」と言う言葉が無意識に口から零れ落ちるのを自身で聴いた。
 眼を伏せて眼前で微笑む母と伯母に手を合わせる。

 手を合わせたときに俯いたせいで、眼を開けた拍子についさっき涙を拭ったときのアイライナーの黒が、真っ白なエプロンに瞼の形の隈取を描いているのが眼に入った。
 ちょうどパンダの目のようなそれに詩織ははたと気付いて、仏壇の横に嵌められた窓を少しだけこちらにずらしてみた。
 やはりパンダのような眼をした自分がガラス窓に映っていたので、思わず声を上げて笑ってしまった。
 しかし笑顔でいられたのはほんの少しの間で、その後すぐにガラス窓のパンダがじわりと眼を滲ませるのを見ることになる。

 「泣いたり笑ったり、あんた何してんの?」

 取り留めのない自分が無性に腹立たしく、詩織はガラス窓のパンダにそう吐き捨て、力任せに窓を閉めようとした。
 しかし思わず手を止めることになってしまったのは、仏前に供された薔薇の甘い香りを押し返す、夏の夜のむっとする草いきれが鼻を衝いたからだ。
 顔を背け、息を詰めてから窓を閉める。
 ところが視線の先にあった庭の緑が、いつもより妙に明るかったことが引っ掛かって、矢も楯も堪らず閉めた窓を再度開けてみた。

 ふと窓から顔を突き出して見上げると、すぐそこに群青の空に瞬く星々があった。
                     
 蝉が集くには少し早い、七月十五日。
 梅雨は明けてしまったが、庭の紫陽花は、白、薄紅、そして薄紫と、未だ色とりどりの花を咲かせている。  
         (6)

 詩織が翔と付き合い出したのも、沿道の紫陽花が咲き溢(こぼ)れる去年の今ほど、ちょうど七月だった。 

 翔が詩織のアルバイト先の生花店で働き出して数日経ったその日、仏前に供するお盆の花を客が買って行ったあと、詩織は彼の執拗な質問攻めにあった。
「どうして海の日にお盆なんですかね。僕もそうですけど、東京って地方人ばっかだから、東京も地方も八月に同時にお盆だと、皆地元で集まれなくなるからですかね。それで気を利かせて、東京だけ七月にお盆なのかな」
 一生懸命口を尖らせて訊いてくる翔に、詩織は愛おしさと歯痒さの綯い交ぜになった顔を向けた。
「さあね」
「もう一つ考えられるのは大家の爺ちゃんに聞いたんですけど、東京には江戸の昔から『薮入り』って風習があるとか?」
 第一印象で得た翔の好印象を掻き消すような、些事に拘ったつまらない質問に、つい嘆息を漏らしてしまった。
「東京の人間が、単にせっかちなだけだと思うけど」

 アルバイト先で詩織に出来た初めての後輩だった。
 大学在学中ずっと続けてきた生花店のアルバイトも、大学の卒業と共に最後の一年を迎えようとしていた。
                    
 大学こそ違えども、同じアルバイトの一つ年下の後輩。
 花束の作り方は元より、それぞれの顧客の好む花の種類、色など、詩織が三年掛かって培った花屋の店員としての知識の総てを教える。
 それが店主から言い渡された詩織の翔に対する教育係としての役割で、それ以外に彼女が翔と拘わることなど有ろう筈もなく、また彼に対してそれ以外の感情を抱くことも、言葉を交わすことも有ろう筈などなかったあのとき、去年の七月の夏。

 あの内気で朴訥とした翔が、頬を真っ赤に染めて切り出した。
 今にして思えばあのつまらない質問の数々も、総てその為だったのかと思うと、胸が押し潰されそうになる。
 巻き毛で猫毛で、つぶらな瞳。
 優柔不断なところは、何処かしら伯父に似ている。

 翔を急き立てる何かが、そのときの詩織には皆目分からなかった。
 翔は口角泡を飛ばしながら詩織に詰め寄る。
「やっぱ知りたいんです。もっともっと知りたいんです! 俺もっと色んなこと・・・・・」
         (7)

 翔の度を過ぎた些事に対する偏執に、詩織の怒りが頂点に達すると共に、彼を射る視線の破壊力もまた頂点に達す。
 翔はそれが自身に向けられたものだとは思っていない様子で、詩織の視線の行方を探るように、前後左右ありとあらゆる方向をきょろきょろと見廻していた。
 暫くして漸くそれが自身に向けられたものだと悟った翔は、幾らか後退って、固唾を呑んで次の詩織の言葉を待った。
「あのさ、うちは花屋なんだよ。仏具屋でもなければお寺でもないの。
 知りたきゃ仏具屋の社長か、どっかのお寺の和尚さんにでも聞けばいい。そんなことよりも今、君には花屋の店員としてもっと覚えなきゃいけないことがあるでしょ。
 大体東京のお盆が七月だっていう理由を知って、君が何か得することでもあるわけ!」
 詩織が語気を強めることになってしまったのは致し方ない。
 先輩として翔の勢いに押されるわけにはいかないのだ。
 それに対し翔はと言うと詩織の言葉に圧倒されたのか、唇をへの字に歪めると、みるみるうちに眼を滲ませてしまった。
「ごめんなさい。お、おれ、思ってること上手く・・・・・」
 そんな翔を一瞥した詩織は肩をがっくりと落とすと、嘆息と共に先輩として述べるべき諫言を吐き出した。
「あのさ。そのくらいのことで泣く? 君男だろ。聞きたいことや言いたいことがあるなら、はっきりと言いなさい。はっきりと!」   
 詩織が言い終わると、翔は眼を潤ませながらも背筋をピンと伸ばし、今更になって決然と彼女を見据えた。
「じゃ、はっきりと言わせて貰います。自分が知りたいのは秋月先輩のことです」
「は?」
「秋月先輩のことが、もっともっと知りたいんです!」
 そのとき詩織は焦点の定まらないまま裁(た)ち鋏を取り落としてしまったので、危うく足に怪我を負うところだった。

 そしてそれから暫くの時が過ぎて、翔が詩織のことを呼ぶ名が秋月先輩から秋月さんになり、次に詩織さんになり詩織ちゃんになり、店にも家族にも誰にも内緒で二人きりの旅行に出掛けたあと、漸くしーちゃんになった。
 一年経った今では、翔は詩織のことを何の衒いもなく詩織と呼ぶ。

 昨日の夜、何故翔にあんなことを言ってしまったのだろう。
「私、実は伯父にお見合いさせられて、その人が私のこと気に入っちゃって、昨日プロポーズされちゃったんだ。色々と悩んだけど翔は若いし、将来もあるから・・・・・私のことは忘れて」 
         (8)

 それでも翔は結婚しようと言ってくれた。
 或いは東京に居られないのなら、一緒に何処か遠くへ行こうと迄。
 何故あんな馬鹿なことを言ってしまったのだろうか。
 有りもしない嘘を真摯に受け止めてくれる、唯一人の男に対して。
 どうしてあんなことを・・・・・。

 そうして翔とのことをあれやこれやと思い出しながら星空を見上げていた詩織だったが、いつの間にか庭を眼前に見据える体勢で、呆けるようにして座っていた。
 ふと見るとさっき窓を開け直したときに、開け切れずに少しだけこちらに残っていたガラス窓に自分の顔が映っている。

 思い返せば、翔が私を抱いたことなんて一度もない。
 いつも私が翔に私を抱かせていた。
 酷い女、何て我が儘で、何て性悪な女だろう。

 ガラス窓のパンダにそうして毒づいてみたが、そんなことで気が晴れよう筈もない。
 改めて見ることになってしまったそれは、もはや懊悩する自身の内奥が具現化したものにしか過ぎない。
 間抜けで、滑稽で、哀れで、とてもではないが本来のパンダの持つ、可愛い、或いは愛らしいなどと言う印象ではない。 
 じっと見詰めていても、苦笑することすら出来なかった。
 ガラス窓をパンダの道化と共に叩き潰してしまいたい衝動に駆られ、嵌められたガラスが砕け散らんばかりの勢いで一気に閉める。
 バタンという音が部屋中に響いた。

 口を結んで嗚咽を噛み殺しながら、リビングのソファに置いてあったトートバッグの中から化粧ポーチを取り出す。
 急ぎ洗面所に辿り着くと、詩織はクレンジングオイルの携帯用パックを化粧ポーチの中から掻き出し、いつもなら使う筈のコットンを使おうともせずに、それを直接手に搾り出して顔に塗り手繰った。
 鎧われていた道化の仮面を一心不乱に洗い流す。
 すると眼の廻りの隈取が消えて、漸く素の自分が鏡の中に現れた。

 ぞっとするくらい母の素顔に似ていた。
 ひょっとすると翔と決別しようとした自分は、母に似ている自分を否定したかったからかもしれない。
 両親に反対された末、貧乏な年下の父と結婚して自分を生んだ母のように、まさか生き方まで同じようになってしまうのだろうか?
         (9)

 そう言えば丙午(ひのえうま)の年に生まれた母は、いつも廻りから陰口を叩かれていたとよく愚痴っていた。

「あの娘丙午らしいよ。縁付くこと出来るのかね?」
「え、丙午なの。可哀相、結婚できないかもね」
「結婚は出来ても、旦那を殺しちゃったんじゃね」

 興味本位の陰口は後を絶たず、短大まで母とずっと一緒だった同級生の伯母の昌子も、その年に生まれた者は一応にそうだったらしく、喩え迷信とは言え何故自分は丙午の年に生まれたのか、そのことで親を恨んだことさえあると言っていた。

 一度詩織も同じことを言って、母を泣かせてしまったことがある。
 母が行政書士の資格を取って三年後、事務所を開設した夜。
 詩織が高校に進学して直ぐの春のことだった。
 何故仕事を持つのか、何故裕福な秋月の家を頼らないのかと、詩織は開所祝いを述べるどころか、母を責め立てたことを思い出した。
『そんなに仕事が大事なの? 
 父さんが死んでからずっと仕事。仕事、仕事って、何も事務所まで開くことないでしょ。
 家放ったらかしにして。伯父さんに言えば生活費くらい何とでもなるのに。
 母さんが秋月の家に頭を下げていれば、父さんは死なずに済んだ筈よ。
 働いて、働いて、父さんが過労死したって言うのに。今度は自分が過労死するつもり? 
 どうしてそんなに仕事が大事なの。どうして
秋月の家を頼ろうとしないの。
 伯父さんだってそうしろって言ってくれてるじゃない。自分ばっかり意地張ってさ。
 父さんが死んだのも母さんのせいだよ! 
そうやって父さんは、意地っ張りの母さんに殺されたのよ。丙午の母さんに』
 今更ながら酷いことを言ったものだ、と。

 詩織は鏡の中の自分と眼が合っていることに気付き、自らを射返してくる自身の視線から逃れるように、くるりと鏡面に背を向けた。
 ゴシゴシと音が聞こえるくらい、勢い良くタオルで顔を拭う。

 思い返せば物心がついてからと言うもの、詩織は自分の中でずっと父に代わる誰かを追い求めて来た。
 ごく僅かに残る父と言うものの記憶を頼りにして。
 仕事を持つ母はと言えば忙しさに感け、詩織が小学生のときも、中学高校と進学してからも、運動会や文化祭に直接自分が来たことは一度も無く、代わりに殆どの行事には伯父が出席してくれた。
 しかしどんなに好くしてくれても、どんなに優しくしてくれても、飽くまでも伯父は伯父で
        (10)

あり、父ではない。
 伯父に重ねれば重ねるほど、遠のいていく父の姿。
 ところが或る日、父の姿を輪郭だけではあるが、何となく捉えることが出来るようになった。
 それは翔と出会ってからのことだった。
 彼が遠のいていく父の姿を引き寄せてくれたのだ。
 それなのにあんな支離滅裂なことを言ってしまった。
 今思えば彼が父の姿に重なっていたからこそ、あんなことを言ってしまったのかも知れない。

 唐突に良く聞き知った男の声が、立ち尽くす詩織の耳朶を打つ。
「ここに居たか。詩織の着けてるそのエプロンなんだけど、織江が使ってたやつだ」
 俯いていた詩織には、その男の足元だけしか見えなかった。
 もしかすると、父さん?
 そう直感した詩織は、早鐘を打つ心臓を片手で抑えながら、ゆっくりと顔を上げてみた。

 何のことはない、声の主は幸雄だ。
 書類サイズの茶封筒を手にした幸雄がすぐそこに立っていた。
 詩織は嘆息と共に、吸い込んだ夢まで吐き出すことになった。
「なあんだ。伯父さんか」
「なあんだはないだろう。誰だったら良かったんだ?」
「別に」
 エプロンを外しながらそう応える詩織を一瞥し、幸雄は茶封筒を振ってみせて、顎でリビングの応接セットを指した。
「さ、こっちで話そう。これは相続手続きの書類だ。そのエプロン以外にも、秋月の家には詩織に残された織江の遺産がある」

 幸雄が顎で指した先には応接セットがあり、テーブルの上にはA4サイズの大学ノートが置かれていた。
 幸雄が相続のことを詩織に説明する為に、何か書いたのだろう。
 詩織は相続の手続きについて、素人の伯父が自分に説明すべく一生懸命大学ノートに何かを書いている姿を想像して可笑しくなってしまったが、眼を逸らせて何とか笑うのを堪えた。
 手で口を覆いながら、笑いを堪えていることに気付かれぬよう、声に表情を籠めずに聞いた。
「この大学ノートは?」
「あ、これは一番大事なもんだから。話の一番最後に」
 そう答えてから幸雄は大学ノートをテーブルの隅に置くと、ソファに腰掛けて茶封筒の中か
        (11)

ら、如何にも相続手続き然とした書類の束を取り出した。
「行政書士の詩織ちゃんに伯父さんが説明するのは釈迦に説法だが、ま、こっちにも立場と言うもんがある。それに顧問弁護士にもな」
 幸雄が席に着くよう顎で促す。
 突っ立っていた詩織は、腕組みを解いて向かい側のソファに腰掛けると、エプロンを脱いで膝の上に小さく丸めた。
「私もその方がいい。相続手続きなんて依頼のあった件だけで沢山。
自分のなんて面倒臭いだけだもの」
「そう言ってくれると有難い。先ずは基本的な詩織ちゃんの、織江の遺産に対する相続の権利についてなんだけど」
 照れ臭そうに頭を掻く幸雄を一瞥すると、詩織は再び腕を組んだ。
「じゃ、そこだけ私が伯父さんに代わって説明しようか」
「そいつは助かる」
 詩織は白いブラウスの襟を但し、精悍な行政書士の顔になった。
 夏場はジャケットを着用しない分、白い半袖のブラウスが彼女の仕事着である。
 襟元には行政書士のバッジが輝いていた。
「通常日本国籍を有する者が死亡した場合、その時点で配偶者が生存している場合は配偶者が二分の一、その子等が二分の一を頭数で等分します。今回の相続案件で、戸籍上認められる秋月織江の配偶者は彼女の死亡時点では存在せず、嫡出非嫡出に拘わらず秋月織江の子は秋月詩織だけなので、遺言の無い場合の相続権を有する被相続人は、嫡出子たる秋月詩織に限られます。また秋月織江自身の資産と相殺されるべき借入金は、現時点で存在しません。従って今回の相続で秋月織江の所有する本人名義の現金預金、有価証券などの債権、或いは不動産、貴金属車両等の動産、それ等総ての遺産に対し、秋月詩織だけが相続権を有するということになります」
                     
「さすがは秋月地所の新たな顧問行政書士」
 うんうんと肯く幸雄に対し、詩織は嘆息で応じた。
「と言っても定期預金も一千万弱だし、生命保険とか阿佐ヶ谷のマンションを入れても、全部で五千万に満たないくらい。相続税を納税したら、収入どころか足が出るわ」
「それは伯父さんの織江から預かっている遺産をどけての話だ。
 秋月地所を舐めるんじゃない」
 そう言うと幸雄は詩織に対し、一通の通帳を差し出した。
「どういう意味?」
 怪訝そうに首を傾げる詩織に、諭すように幸雄は言った。
「まずはこれが織江から預かっている預金だ。一括で五井銀行に預けてある。印鑑は詩織ちゃんが行政書士の試験に受かった時に、織江から
        (12)

詩織ちゃんにお祝いとして渡した、詩織ちゃん名義の通帳の印鑑と同じものらしい。織江曰くこの預金は自分では絶対に引き出さないつもりだから、預かって欲しいと言うことだった。
 この間も秋月地所の配当金を、この口座に振り込んで良いか聞いた時もそう言ってた。
 まさかそれが織江名義の口座に振り込む最後の配当になるとは、思ってもみなかった。
 これだけの預金を一円も使わないで逝っちゃうなんてさ。
 幾ら入ってるか確認してみろよ」
 詩織は幸雄に言われるがまま通帳に眼を落とした。
 これだけの預金と言うだけあって、結構な量の数字が並んでいる。
 詩織は口に出して預金額を数え上げてみた。
「一、十、百、千、万・・・・・億。えっ、さ、さ、三億?」
 眼を丸める詩織に、幸雄は苦笑混じりに応えた。
「一桁違うだろ?」
 幸雄にそう言われて、詩織はホッとしたように小さく息を吐いた。
「何だ、三千万か。それにしても三千万もの預金・・・・・」
 幸雄は呆れ顔で詩織を見遣ると、少しだけ語気を強めた。
「だから一桁桁多いんじゃなくて、少ないんだよそれじゃ。もう一度ちゃんと数えてみろよ」
「えっ、少ないの? 待って、一、十、百、千、万・・・・・億、十億。さ、さ、三十一億二千三百五十三万・・・・・三十億一なの、こ
れ? 何これ、何なのこれ? 全然意味分かんないんだけど」
 取り乱す詩織を制するように、幸雄は一つ咳払いをした。
 幸雄のわざとらしいとも取れる咳払いで、詩織は一瞬現実に引き戻されたものの、やはりそれが現実だと言う確信が持てなかった。
「ねえ、伯父さんこれどういうこと?」
 困惑の渦中に身を沈めた詩織は、瞠目した眼を幸雄に向ける。
 幸雄は一度きっかりと彼女を見据えてから、その眦を決した。

 順を追って織江の残した預金の来歴について語り始める。
 詩織の父星名武彦が過労死した後、織江の結婚に反対していた父が詩織を連れて家に戻って来いと言ったが、織江が頑として言うことを聞かず突っぱねたこと。
 そしてその父の死後、妻名義になる筈の秋月地所の株や、譲り受ける筈だった預金を放棄し、母がそれを幸雄と織江に残したこと。
 また自分に残された分の株も預金も、詩織は受け取るには受け取ったが、相続税納税後はそれ等に一切手を着けなかったことなどだ。
                      そうして最後に、幸雄はまるで独りごちるようにぼそりと言った。
「それだけじゃない。織江には生前返せなかった借りがあるんだ」
「借り?」
         (13)

 怪訝そうに首を傾げる詩織に対し、幸雄は駅前の「オータムーン・ステーションプラザ」開発時の話を始めた。
 幸雄の親友が経営する開発業者に、秋月家が駅前に所有していた二千五百坪の土地の開発を任せたはいいが、契約を交わした直後に不渡りを出した親友が行方知れずになったことをだ。

 最初で最後、唯一の秋月地所の存亡の危機であった。
 土地開発の契約締結に伴い、その土地の所有権が開発業者に一時的に移転されていたのだが、そのことが秋月地所を窮地に陥れた。
 その状況を説く簡潔な言葉としては「親友に裏切られた」、或いは「偽装倒産による詐欺」と言った方が適当か。
 そのとき施工は既に開始されており、倒産した開発業者から工事を請負った建設業者は、請負契約に基き施工費用を完済するか、さもなくば土地の所有権の一部を以て代物弁済をして欲しいとの要求を、本来の地権者たる幸雄に打診して来た。
 その際資金が枯渇しており、尚且つ主要な秋月家の所有地を開発の為に差し出していたせいで、銀行に供する為の担保が乏しく、メインバンクも融資を渋った。

 そうしてその際の経緯を包み隠さず話し終えると、幸雄は俯いて独りごちるように言った。
「もしそのとき織江が、兄さんの思うようにやってみて、一文無しになったらその時に考えればいいのよ。って言ってくれなかったら、今の秋月地所は無かったかも知れない。当時織江の預金を担保に、銀行から融資を受けることが出来ていなかったらって考えると」
         
「つまり母さんは、ここにあるこの非現実的な、天文学的な金額の預金を伯父さんに使って良いいよって言った訳ね」
「そうだ。当時でも今の額の半分はあった。この預金がこんなにも大きい額になった理由は、配当金の蓄積と「ステーションプラザ」の開発の成功で、跳ね上がった織江の所有株の一部を会社で買い入れたからだ。自社株買いが承認されるようになってな。こんなに残して、この預金の担保なんてとっくに外れてるってのに」
 
 それからも幸雄は、織江についての思い出話を切々と語った。
 幸雄の妻だった昌子が織江と同級生で、二人は仲が良かったこと。
 織江が昌子を紹介してくれて、幸雄が昌子と結婚したことなど。
 いよいよ興が乗り夫婦ののろけ話になった件で、突然降り落ちた雷のような詩織の絶叫で、幸雄は話を中断せざるを得なくなった。
「ちょっと待って伯父さん、ちょっと待ってよ!」
「詩織ちゃん・・・・・」
        (14)

「たとえば食べられなくて水商売をしてたって言うなら、私は母さんに心の底から感謝出来たと思う。けどさ、直ぐそこにあるお金に手を付けずに、働いて私を育てたのよ母さんは。
 それは飛びっきりの美談よね。ええ美談だわ、凄い美談よ。
 でもね、娘のことは、私はどうでもいいの? 戯んじゃないわよ! 
 いつも放ったらかされて。母さんの訳の分からない意地の為に、私はずっと一人だったの。
運動会の時も、文化祭の時も、いつも、いつも。それって母さんのエゴでしょ。
 死んで今頃になって三十一億とかって」
「いや、それに会社の持ち株を足すと、五十億はある」
「どっちでも一緒よ! ねえ、伯父さん。
 そう思わない?
 酷すぎるって。ちゃんちゃら可笑しいよ。
 意味分かんないよ、意味が」

 メールだよ。メールだよ。
 間の抜けた着信音が、詩織の絶叫を遮った。
 今日スマホの番号を変えてから、今のスマホの番号とアドレスを教えたのはたった一人だけであり、勿論その人物は翔ではない。   
 確認するとそれは、やはり今は見たくない内容のものだった。
                  
 しかし間の抜けた着信音のお陰で、険悪な空気だけは一掃された。 

 携帯をエプロンのポッケに戻すと、詩織は行政書士の顔に戻った。
「で、顧問弁護士からはそれだけ? まさか母さんが遺言を預けてるとかって言うんじゃないでしょうね」
「それは無い。でも万一の場合、詩織ちゃんに話をして欲しいと織江から言われていた話がある。ま、遺言と言えば遺言になるかも」
「あ、そ。仮にその遺言が公正証書遺言書でない場合・・・・・」
「おい、おい、待ってくれ。そう言うんじゃないんだ。弁護士から言われてるのは簡単な話さ。織江名義の会社の株の詩織ちゃんへの名義変更と、この預金の名義変更。それだけだ」
「じゃなによ、遺言みたいなもんって?」
 幸雄は嘆息を吐いた後、半ば苦笑するように口元を歪めた。
「婆ちゃんの御伽噺を聞かせてやってくれって」
「お婆ちゃんの御伽噺? 何それ」
「詩織ちゃんからすれば、曽(ひい)婆ちゃんってことになるか」

 そう言って幸雄はテーブルの隅に置かれた大学ノートを手にした。
 織江が幼い頃近所の悪童に、お前は丙午だから結婚出来ないんだとか、或いはお前は結婚しても男を殺すんだとか悪態を吐かれたとき、そんなことは無いんだよと、お前はとても良い子なんだよと、そう言って織江やそのとき傍に居た自分に、詩織の曽婆ちゃんが聞かせてくれた話だという前置きをした後、幸雄はゆっくりとその話を詩織に語り始めた。
        (15)
      
 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 四郎は切り立った崖の上から顔を突き出し、何か得体の知れない
禍々しい魔物が蠢いているような色の混ざり合った、深い深い海の群青を覗き込んでいた。

 歩み寄る人の気配を感じて振り返ると、いつの間にやら山田右衛門作が膝を突いて控えていた。
「四郎様、ここにおいででござりましたか。ずいぶんと辺りをお探し致しました」
 甲冑を纏った右衛門作は闘う気力に満ち溢れていた。
 四郎は胸元でクルスを切り、両手を彼の肩の上に置いて、神妙な面持ちで右衛門作を見下ろした。
「そなたに辛い役回りを強いねばならぬ」
「覚悟は出来ております。何なりと御下命を」
 射返して来る右衛門作の視線から顔を逸らすように、四郎は一歩だけ後退った。
「上使板倉重昌の幕府軍は十二万らしいが」
「何の。ご懸念には及びませぬ。我等には教皇様の援軍が、間もなく南蛮より馳せ参じましょうほどに」
 右衛門作の言葉に頭を振り、四郎は絶望の眼差しで天を仰いだ。
「そなた真(まこと)に援軍が来ると思うてか?」
「必ずや参りましょうぞ。さもなくばここに籠城した意味がございませぬ。それに教皇様より殉教をも厭わぬ宣教師の大群を、この島原に贈り込むとのお言葉も頂戴致しておりますれば」
「そうだな。しかし万が一にでも援軍が来ずば如何いたす?」
 四郎の問い掛けに、右衛門作は殊更に大きな声で請合った。
「そのようなことは断じてありますまい」
「そうは申すが事態はそれほど良うはない。南蛮では打ち続く戦のせいで、我等にかかずりあっている余裕などなかろう。私はもはや教皇様よりの援軍は望めぬと思うておる」

 総大将とは云え四郎は僅か十六歳。
 単に弱気になっているだけのことだ。
 弱気になるのも無理からぬことであろうと思い、右衛門作は四郎を鼓舞するように胸を叩いた。
「そのようなことを仰ってはなりませぬ。仮にも天草四郎時貞様は、我等の総大将にあらせられまする。それに我等とて三万七千もの大軍にござりますれば」
         (16)

「その通り我等も大軍である。しかし幕府軍は我等を遥かに上回る大軍。
 何故斯様な大軍を率いて我等を攻むるのか。 それは幕府が我等一揆勢そのものを恐れている訳ではなく、我等が蜂起したことによって関が原の合戦の後、なりを潜めておった豊家恩顧のキリシタン大名であった方々が我等に迎合し、徳川を討つような勢力となることを恐れておるのだ。
 我等は一揆勢としては多勢集まった。これ
もデウス様のご加護であろう。
 しかし幕府軍に比ぶれば些か心許ない。
 恐らく互角に渡り合う事は叶わぬであろう。 そなたにだけは言っておく、私が何よりも待っておったのは、教皇様の援軍よりも。
 先ずはキリシタン大名であった方々の援軍であった。その方々と我等で幕府軍を鋏み討ちに出来れば、その時こそ教皇様よりの援軍を賜り、一気に幕府を滅ぼすことが出来ると思うていた」
 四郎は再び胸元でクルスを切り、きつく眼を閉じて言った。
「各地に放った使者よりの返事は今日に至る迄皆無。恐らく我等は生き残れぬであろう。されば我等の殉教の姿を、在りのまま後世に伝えおく者が必要となる」

 四郎の言葉は尤もであるが、その命の遂行は死よりも辛いこと。
 右衛門作は膝に置いていた片方の拳で、地面を叩き付けた。
 勿論幕府軍に勝つことが出来るのであれば、四郎の命を遂行する必要はなくなる。
 しかし右衛門作もまた、四郎の言葉は是であると思っていた。
「それは某(それがし)が幕府方に内通し、生き残れと云うご命令にござりましょうや」
「島原藩松倉家の家臣であったそなたの幕府方への内通は、考えられぬことではない。
 さればそなたが妻子を我等に人質に取られ、已む無く従ったと申せば信じるのではないか。
 
幕府軍とて間者は喉から手が出るほど欲しい筈だ」
「お言葉にはござりますが、某は独り身にございます。
 それに裏切り者になりとうて、ここに居るのではございませぬゆえ、たとえこの身が砕け散ろうと、四郎様と最後を供にする覚悟にござりますれば、デウス様の御許へはいつなりとお供仕ります」
「そなたの信仰に偽り無きことは、この私が一番よく存じておる」
「ならば何ゆえに。それではまるで私が、イスカリオテのユダのようではございませぬか」
 きりきりと何かが軋むような音が四郎の耳朶を打ち、ふと右衛門作の方を見遣ると、唇を噛み締め、眼を滲ませているのが分かった。
「何を申すか。そなたはユダとなって生きるのではない。
 我等の為生きるのじゃ。
 それにそなたは、陣中旗の画をあれ程見事に描く絵師ではないか。我等の殉教の在りのままの姿を、後世に画で記して伝えて欲しいのだ」
        (17)

 四郎を射る右衛門作の眼が、より一層細くなった。
「某には合点がいきませぬ」
「そなたも存じておる通り、元来この蜂起は島原、唐津両藩による過酷な年貢の取り立てなど、悪政による結果生まれたもの。
 我等は死か一揆を蜂起するかどちらを取るか迫られ、座して死すよりデウス様の教えの下殉教の道を選ぼうと、図らずも此度の蜂起と相成った。
 それを島原、唐津の両藩は己が失政を問われるのを恐れ、悪政に対しての抗議などではなく、我等がその信仰を認めて貰わんが為蜂起したのだと、本質を摩り替えた。勿論幕閣の耳に入るようにだ。
 しかしそれは我等も望むところ。そもそも私はキリシタン大名であった方々の援軍が、必ず得られると信じておった。
 しかし豊家の威信は地に落ち、もはや我が益田の家が仕えた小西行長様のような敬虔な信者などこの世に存在はせぬ。
 今や徳川に服はぬ者などおろう筈もなく、我等に組して下さるお方は皆無。
 いずれ徳川によって罪深き島原、唐津の両藩は改易されるであろうが、そのことと我等が生き残れることとは無縁。
 我等もまた、その徳川に討たれる運命にある。さればである。分かるな右衛門作」
 右衛門作は眦に熱いものを湛えながら、何も言わずに頷いた。
 そして天を仰ぎながら胸元で切った彼のクルスは、空しく宙を彷徨って、西の汀渚(みぎわ)を紅に染める日輪と共に沈んで逝った。
                    
 その夜は、蒼く淡い光を放つ三日月の夜だった。
それはまるで、決して満たされることのない、四郎と万の二人の運命のように儚い。
「万にございます。膳の支度が整いましたのでお持ち致しました」
「おぉ、待っておったぞ」
「明日は元日だと申しますのに、このようなものしか膳に出すことが出来ず、誠に申し訳ございません」
 万が膳を運び入れて襖を閉めると、この時間になって漸く邪魔者の居なくなった寝所に、四郎と二人だけの時間が訪れる。
 果たしてこれを夕食と呼べるのかどうか、一汁一菜の二つの膳ではあったが、それでも二人だけで過ごす貴重な夕餉の時間である。
「そのようなことは気にするな。明日は元日ではあるが、我等デウス様に仕える者に取っては元日などさしての意味もない。
 それに籠城の期間が如何ほど永きに亘るものかわからぬ今、贅沢などしてはおられぬ。
 只二人で膳を取れるだけで私は満足なのだ」
「万も四郎様と夕餉をともにできるのは、この上もない幸せにございます。されど、せめて元日くらいはもう少し」
 万の言葉を遮るように、四郎は万を自分の下に抱き寄せた。
         (18)

「すまぬ。そなたには苦労を懸ける。
 こうして一揆勢の大将となったからには、我が身に死が訪れるのは明日やも知れぬ。
 そのような身の上で子を為すわけにいかぬとは言え、そなたを妹としてしか迎え入れることが出来ぬのは、何とも口惜しい限り」
「そのようなこと。万は妹で十分にございます。こうして四郎様と共に、二人だけの時間を過ごせるだけで幸せにございます」

 この一揆さえ無ければ、四郎と万は祝言を済ませている筈だった。
 しかし斯く籠城するともなれば、総大将の祝言など叶う筈がない。
 四郎はそんな身上を不憫に思い、籠城の前にこの地を離れるよう命じたが、万は頑なに四郎と生死を共にする道を選んだのであった。  
 然して一つ年下の万は表向き四郎の妹として、身の回りの世話をすることとなった。
 このように夕餉の時間を共にすることだけが、せめて二人に許された夫婦の時間である。
「共に過ごす時間も残り僅かであろう。援軍も我等には一兵も来ぬ
ようじゃ。
 そなたにはこれと言うて何もしてやってはおらぬ。
 本当にすまぬことをした」
「そのようなことを仰いますな。喩えそうであろうとも、万がデウス様の許へ参る折は、誰にも憚ることなく四郎様の妻になれるのでございます。
 あなた様とともに旅立つのに、何の不安がございましょうや。
 何処へなりともお供いたしますほどに」

 差し出した腕に身体を預ける万のことが、四郎は愛おしくて堪らなく、また四郎の腕に身を委ねる万は、四郎が愛おしくて堪らない。
 未だ男女の契りを交わしていない二人ではあっても、互いを思い遣る心は、永い年月を連れ添った夫婦と何等変わるものではない。
「そう言うてくれると、私も少しは気が楽になれる。
 皆とは毎日戦のことしか話をせんのでな。
 そなたとだけは、血生臭い話をしたくはないのだ」
「私も然様心得ます。
 戦のお話は四郎様に似つかわしゅうございま
せぬ。
 万の他に人が誰も居らぬときは、どうか戦以外のことをお話下さいませ。
 戦のお話で無ければどんなお話でもようございます」
「そうか。さて、ではどのような話をすれば良いかの」
 何の話をしようかと暫く思案していた四郎であったが、はたと膝を叩くと、その黒目の勝った瞳を輝かせた。
「そうであった。そう言えばそなたに『キセキ』の事を聞かせてやるのを忘れておった」
「そのお話であれば、右衛門作殿に何度かお聞きいたしました。
 四郎様は病人に御手をお翳しになられるだけで、病を治しておしまいになられるのだと」
        (19)

 万の言葉に四郎は口元を歪め、苦笑で応える他なかった。
「その『奇跡』のことでは無い。それにそれは篭城している味方の士気を高める為に右衛門作が創った話だ。
 手を翳しただけで病が治るのであれば、幕府軍が如何ほど我等を斬ってもすぐに生き返って
しまおうほどに。
 もしそれが事実であればどのような大軍も我等が敵ではないのだが・・・・・尤も皆が信じておるゆえ、今更そのようなことは、右衛門作の創り話だったなどと言えよう筈もないが」
「まぁ、然様でございましたか」
 幾分がっかりした表情の万に対し、本当のことを言うべきではなかったかと後悔したが、四郎はやはり万に嘘を吐くべきではない、これで良かったのだと思い直した。
「がっかりさせたか。しかし私はデウス様ではないのだ。
 そなたと等しく人にしか過ぎぬ。但し我等はデウス様を信じる人なのだ」
「はい」
 万が笑顔でそう応えるのを待って、四郎も頬を綻ばせた。
「それから先程はそなたの言うた『奇跡』では無く、わたしの愛馬である『キセキ』の話をしようとしておったのだ」
「四郎様の御馬なら存じております。
 結納の折に私の家にお越しになられた四郎様が、とても美しい白馬に乗っておいででございました。
 今でもはっきりと覚えております。あの御馬にキセキと言う名をお付けになられたのですか?」
「左様。私がキセキと名付けた。
 私がまだ十二の年、その頃益田の実家で牝の馬を飼っておった。
 種付けの時期が来て村で最も速く走ると評判の牡の馬と掛け合わせたのだが、そのとき少し変わった子馬が生まれてな。それがキセキだ」
「変わったと申しますと?」
「背中に大きな瘤が二つもあったのだ。
 尤も大きくなってからはあまり目立ちはせぬが、それでも今も瘤はある」
「左様でござりましたか」
「それ故早死にすると言われたが、それでもキセキは死ななかった。
 私は一年経っても元気でいてくれたその馬に、キセキと言う名を付けた。  
 キセキは牝(めす)なのだが、牡(おす)のように速く走る。
 否、牡よりもどの馬よりも速く走る。
 宛ら天を駆ける天馬に乗った心地になる」

 そう言ってから四郎は万の肩を抱きしめ、僅かに開けられた障子の隙間から覗く、蒼く淡い光を放つ三日月を見上げた。
「せっかく子馬が産まれたと云うのに、厩のほうから何やら重苦しい空気が流れておってな。わたしが厩に駆けつけたときには、もう既に父
        (20)

が厩に来ておって、下男に申しつけその子馬を処分しようかどうか話しておった。悪い病に掛かっているのではないかと」
「その瘤とは、やはり腫れ物のようなものですか?」
「うん。一見すると大きな腫れ物のようでな。父は勿論周りの者達もそのようなことは初めてであったし、後にも先にも腫れ物のある馬が生まれたことなど無かった。それゆえ父は処分するのが、最も賢明だと判断した」
 万は四郎の腕の中でぎゅっと身を縮めた。
「まあ」
「しかしキセキは産まれたときから、真っ白な美しい体をしておってな。
 私はそのように美しいキセキを目の当りにして、この馬を絶対に殺させてはならないと思った。そして何とかキセキを助けて欲しいと父に懇願した。
 余りにも私が執拗なので父は渋々承諾した。
それほどこの馬が良いのならそなたの馬にすれば良い。
 されどこのような体の馬は永くは生きられぬ。じきに死ぬやも知れぬが、死んでも泣かぬと約束するのなら、生かしておいてやろうと仰ってな」

 何かに弾かれたように、急に万が四郎の腕の中から飛び起きた。
「それでもキセキは生きております」
「そうだな」
「四郎様のお話しをお聞きしておりますと、キセキが生きているのも、キセキが四郎様の御馬になったのも、それが総て運命だったのではないかと御見受け致します。
 きっと生きながら得たキセキが、此度の戦も勝利に導いてくれるのではないかと」
「だと良いのだが・・・・・」
「はい。然様でございますとも。四郎様は必ず此度の戦に勝利されます。キセキと万が付いておりますゆえ」
                     
 励ますつもりで言った言葉であったが、万の意図するところとは逆に、四郎は黙って下を向いてしまった。
「これは申し訳ござりませぬ。戦の話など・・
・・・」
「良いのだ。私こそすまぬ。そなたと話をしているときに、戦のことを考えてしもうた」
「四郎様・・・・・」
                      四郎は片方の手で膳を部屋の隅に追い遣り、もう片方の手で僅かに三日月が覗く障子をぴたりと閉めた。
 同時に万が石を打つと、暗闇の中から再び二人の顔が現れて、寝所には行灯の灯だけが揺蕩(たゆた)う静寂が訪れる。
「肌寒い夜だな」
 四郎は万の肩を抱き寄せた。
        (21)

「はい。でも今万は暖かこうございます」
「そうか。私も万のお陰で暖かい」
 見上げた眼が四郎の眼と合ってしまい、万は頬を桜色に染めた。
「四郎様、先程のお話の続きをお聞かせ下さいませ」
「さて、どこまで話したか?」
「四郎様がキセキをお助けにならたところ迄でございます」
「そうであった。では万、天馬のことなど知っておるか?」
「天馬と申しますと、天を翔る翼を持つ馬のことでございますか」
 万が弾かれたように立ち上がり、両腕を使って羽ばたいてみせると、四郎は頤(おとがい)を解いて相好を崩した。
「然様、そのように天を翔る馬のことだ」
 そんな四郎の表情を見て取ると、自然と笑顔になれる。
 万はほっとして再び夫の前に畏まった。
「この話は南蛮より来られた宣教師様よりお聞きしたのだが、あちらでは天馬のことをぺガススと呼ぶらしい。そのペガススは見た者を石に変える力を持つ、メドゥーサと云う魔物を母に持つそうだ。
 そしてその魔物は、何と髪が無数の毒蛇で出来ているらしい」
 毒蛇に覆われた魔物の頭を思い描いただけで、背筋がゾッとする。
 万は身を硬くして、脅すような眼をして覆い被さってくる四郎の胸に咄嗟に飛び込んだ。
「何と恐ろしい。やはりそのような魔物から産まれたペガススは、同じように恐ろしい姿をしておるのでございましょうね」
「それが母とは違うて、ぺガススは美しい姿をしておったそうだ」
 万は四郎の腕に抱かれながら、怪訝そうな顔を擡げた。
「四郎様、私はどうも合点がいきませぬ。魔物からそのような美しい馬が生まれるなど」
「確かに。然りながらそのメドゥーサなる魔物も、天空神ゼウスの娘アテーナーに怒りを買って醜くされる前は、相当な美貌であった
らしいのだ」
「なるほど、そうだったのですか。されど何ゆえメドゥーサなる魔物は、アテーナーの怒りを買ったのでございましょう」
「何でもメドゥーサは自分の髪はアテーナーの髪より美しいと自慢したそうだ」
「ならばその原因は女子同士の嫉妬でございますね」
「左様。万も美しい髪をしておるゆえ気を付けることだ」
 眼を丸くして固唾を呑む万を、四郎は愛しいと思った。
「またそのメドゥーサは海の神ポセイドーンの側室であったらしいが、メドゥーサが子を身篭っているときに、天空神ゼウスの子ペルセウスによって首を切り落とされた。そしてその折にメドゥーサの首の切り口より産まれ出でたるものこそ、ペガススなのだそうだ」
        (22)

「何とも恐ろしいお話」
「そうだな。余り心地の良い話とは言えぬな」
 万は四郎の腕の中で益々縮こまって、顔を背けた。
「真(まこと)然様にございます。
 メドゥーサは魔物にされた上、妻としてでなく側室として海の神に仕え、我が子を産み落ととすときに殺されてしまうのですから、魔物と言えど余りに哀れ」
「しかし自分も罰を受けるようなことをしたのだから、自業自得と言えば、自業自得であるが」
「そうかも知れませぬが、余りに悲しい運命ゆえ・・・・・ときに四郎様はそのメドゥーサなる魔物を、哀れだとは思われぬのですか?」
 四郎は万の言葉に含まれた意味に気付かず、素っ気無く答えた。
「さあ、そう言われればそうかも知れぬが」
 万は四郎の腕の中で一瞬顔を擡げたが、また直ぐに顔を背けた。
 その仕草を見て、漸く万がメドゥーサに自身の運命を重ね併せていたのだと言うことに気付き、四郎は息を呑んだ。
「嗚呼、すまぬ・・・・・」
                  
 行灯の灯りだけが揺蕩う暗い闇の中に、沈黙と言う名の空洞がぽっかりと口を開けた。
「万のほうこそ、申し訳ございませぬ」
「いや・・・・・」
「万が悪いのです。それ以上何も仰いますな四郎様」                 
 そう言って次の言葉を遮ると、万は四郎の顔を真っ直ぐに見た。
「万は四郎様の笑顔が好きにございます。ゆえにどうか四郎様、そのように哀しいお顔をするのはお止め下さいませ」
 万の屈託のない笑顔と共に紡ぎ出された言葉が言霊となって、穿たれた空洞をゆっくりと閉じさせていく。
「そうか?」
「はい、四郎様。それより万はお話の続きを聞きとうございます」
「そうであったな。話は何処からであったか・・・・・」
 四郎が話の続きを始めると、万は長い睫毛の動きがそれと分かるほどゆっくりと瞬きをした。
「そうだ、思い出したぞ。それからメドゥーサを退治したペルセウスはぺガススを得るのだが、ペガススに跨り天空を翔ているときに、
岩に縛り付けられたアンドロメダーを見つけるのだ。
 またペルセウスはこれを救い出して自らの妻とする」
「それでしたら私もキセキに乗った四郎様に妻にして戴きましたので、同じにございます」
「確かにそうだ」
 頤を解いて笑う二人の声が響き渡り、寝所の中にだけ春が訪れる。
        (23)

「ところで四郎様、そのぺガススと天馬座は、はたまた四郎様のキセキとそれ等はどのような関係があるのですか?」 
「そのことなのだが、後に天に昇ったぺガススは天馬座となったのだそうだが・・・・・実は宣教師様よりこの話を聞いてから、時折星空を見るたびに、母上のことを思い出すのだ」
「母上様?」
怪訝そうな顔で首を傾げる万に、四郎は微笑を添えて応える。
「そなた天馬、即ちペガススのことを丙午(ひのえうま)とも申すことを知っておるか? 
 火の兄の意味を為すのだそうだが」
「はい。六十年に一度巡って来ると言う干支の?」
「そうだ。何の偶然か、亡くなった私の母の干支がその丙午にあたるらしくてな」
「然様でございましたか」
 微笑んでいる筈の四郎の瞼がみるみるうちに滲み、熱いものが滴り落ちて行くのを見て取ると、万は何も言わず、それを小袖の袂でそっと拭った。
「それゆえ宣教師様よりぺガススの話を聞いてからは、亡き母が天馬座になったのだと思えてならぬのだ。そしてキセキは天馬座となった母の遣わした天馬なのではないかと・・・・・いずれあの背中の瘤から翼が生え出て、キセキは天を翔るペガススになるのではな
いかと。
 時折そんな他愛もないことを考える」 
「はい、如何にも。万もそのように思われて宜しいかと存じます」

 万は四郎の腕を抜け出し、障子を開け放って夜空を見上げた。
 しかし見上げた夜空には天馬座はおろか、先程まで蒼く淡い光を放っていた三日月さえ、もはや見ることは出来なかった。
 そこにはまるで四郎と万の行く末がそうであると暗示するかのように、暗く静かな闇が拡がるばかりであった。
 腰を上げて自分に近付こうとする四郎の視界を遮るように立つと、万は後ろ手で障子をぴしゃりと閉めた。
「少し外の風を、取り込みたかっただけにございます」
 そうとだけ言って、万は再び四郎の腕の中に飛び込んだ。 
 そして二人はそのままゆっくりと、深い眠りへと落ちていった。
                
 寛永十五年一月一日早暁、十二万と数に於いて優勢な幕府軍が、四郎の率いる一揆勢の立て籠る原城に襲い掛かった。
 直ぐに決着がつくとの幕府方の思惑に反し、僅か三万七千とは言え、一揆勢の死をも顧みない果敢な攻撃に対し、幕府軍は四千もの死傷者を出し、挙句の果ては指揮官の板倉重昌さえも討ち死にする
という、幕府方に取っては惨憺たる結果に終わった。
        (24)

 男は鉄砲を打ち、女は石を投げ、一揆勢が一丸となって抵抗をした成果である。 
 一揆勢の方は死傷者も僅か十七名と、数の上での劣勢を見事に撥ね返して退けたのだった。
 但しそれは新しい指揮官、「知恵伊豆」と謳われた松平伊豆守信綱が着陣するまでの、束の間の勝利と言えばそれまでであった。

 城内に勝ち鬨が何度も騰がる中、敗走する城外の幕府軍に眼を向ける四郎に対し、眼前に跪いた右衛門作は誇らしげに戦勝を告げる。
「御味方の大勝利、まずは執着にございます」
 普段は感情を余り表に出さない四郎ではあったが、此度ばかりはと眦を下げる右衛門作に対し、口をへの字に結んだ四郎の表情は、以外にも硬く沈鬱なものであった。
「ご苦労であった。今宵は皆で祝杯を挙げれば良い。されど此度の我等の勝利で、いよいよ幕府は本気になるであろう」
「如何にも。これからが正念場にございます。我等は僅かな被害に留まっておりますが、何しろ敵方は四千もの被害を出し大将首を掻かれたのでございますから、我等の力を認めざるを得ないでございましょう。今一度敵の出方を見て、一蹴してやりましょうぞ。何の恐るることなどござりますまい。我等にはデウス様のご加護がございますれば」
                       四郎は右衛門作の方に向き直ると、不安気に嘆息を漏らした。
「そうだと良いが。しかし気になるのはいよいよ老中松平伊豆守が、重い腰を上げたということだ」
「この三日のうちには着陣するらしいのですが、何、我等の優位は変わりますまい。板倉重昌同様蹴散らしてくれましょうぞ」
「筆頭老中の智恵伊豆を、そのように簡単に退けれるとは思えぬが。
もしものときは予てよりそなたに申し付けてある通り・・・・・」
 右衛門作は四郎から眼を逸らせ、吐き捨てるように言った。        
「そのようなこと、今から考えるべきものでもござりますまい。我等が勝てばそのようなことはどうでも良いことでござる。四郎様の取り越し苦労にござりますれば」
「そうだと良いのだが・・・・・」

 彼等の眼前には、折り重なって出来た幕府軍の兵の屍の山々が、原城を取り巻くようにして聳え立っていた。
 四郎は胸元でクルスを切り、瞑目すると手を合わせた。
「何よりも先ずは殉教した者達の為、また敵方に於いてもこの戦に於いて命を落とした者達の為、祈りを捧げようぞ」
「某としたことが肝心なことを忘れておりました。では共に」        
        (25)

 四郎の傍で祈りを捧げながら、右衛門作はふと思った。
 自分は四郎の生まれる前から彼に仕えていたのではないか、と。
 或いは喩え命が儚くあろうとも、四郎に仕えて良かった、と。

 寛永十五年一月四日、愈々筆頭老中松平伊豆守信綱が幕府方の総指揮官として着陣した。
 攻勢に転じて来ると予測していた四郎達一揆勢の思惑に反し、伊豆守は着陣してから早々矢文で降伏を促す以外、別段これと言った動きを見せない。
 右衛門作は気色満面の得意顔で、そのことを四郎に注進した。
「筆頭老中を新たに総大将に立てたとは言え、敵は攻めてくる気配を見せませぬ。矢文にて降伏を促すのみにて、恐るるに足らず」
「してその矢文に対し、何と返答したのだ?」
「我々は神に対し命を捧げる覚悟である。よって降伏などあろう筈は無し。命尽きるまで戦い続けると」
「うん。良い返答である」
「はっ。有難き幸せにて」
 四郎は懐から書付を取り出し、跪く右衛門作の眼前に差し出した。
「ところで右衛門作、念の為この文をそなたの筆で書き写し、矢文にて幕府方の陣中へ投げ返してはくれぬか?」

 そこには自分が元島原藩松倉家の家臣であり、幕府への内通を欲する旨が認(したため)られていた。
 妻子を人質に取られ、已む無く四郎等に従ったという訳である。  
「なりませぬ御大将。負けているときならばいざ知らず、このように戦況が有利なときになど」
「今だからこそだ。今だからこそ意味があるのだ。早うから準備しておかねば敵は信じぬゆえな」
「しかしそのようなことは」
「とにかく今日よりこの矢文を、幕府方の陣中へ投げ入れてくれ」
「しかし・・・・・」
「これはこの聖戦の総大将四郎時貞の命である」
 総大将の命と言われれば、右衛門作は従うしかなかい。
 矢文は連日の如く、幕府軍の陣中に投げ込まれた。
                   
 そして四郎の読み通り、一揆勢の命運が尽きるときがやって来た。
 何と言っても堪えたのは、オランダ艦船よりの艦砲射撃である。
 南蛮より教皇の援軍が来ると信じていた一揆勢に取っては、実に耐え難いものとなった。
 加えて最も一揆勢の気勢を削がれることになった出来事は、幕府軍よりの銃弾が四郎にさえ
        (26)

も襲い掛かったことである。
 廻りにいたものは即死し、四郎もまた着物の左袖を打ち抜かれた。
 今まで四郎の不死身を信じていた一揆勢は、皆総毛立った。

 一握りの闘志さえも削ぎ落とされた一揆勢は、一人、また一人と原城を去って行った。
 そしていよいよ一揆勢の兵糧は尽き、幕府軍の総攻撃が一月二十七日に敢行されるに至り、遂に原城は落城の時を迎えることになる。

 一月二十八日早暁、四郎と万の二人は最後の別れを馬上より右衛門作に告げた。
「右衛門作、そなたには今まで色々と世話になった。また最後はそなたを裏切り者にしてしもうた。真にすまぬ」
 銃声の飛び交う中、右衛門作がキセキの口を取る。
「何を仰せです。某は四郎様とともに戦うことができて、真幸せでございました」
「祝着である。また重ね重ね申し置くが、これよりそなたがせねばならぬこと、分かっておろうな」
「はっ。まずは天草丸の牢に入り内より鍵をかけ、この矢文を懐に抱いたまま、只管(ひたすら)幕府方が某を見付け出すのを待ちまする。
 されど武運拙く、我が命が尽きましたならご容赦を」
「案ずるな、きっとそなたにはデウス様のご加護があるだろう」      
 右衛門作はキセキの口を取った儘、躊躇いがちに四郎を見上げた。
「四郎様最後に一つだけ、某よりのお願いがございます」
「何か?」
「せめて万様だけでも、お逃げ戴くわけにはいきますまいか」
 四郎は右衛門作に答える代わりに、黙ったまま万を振り返った。
 すると万は死を目前にしている様子など微塵も見せずに、四郎の背中に預けていた顔を擡げ、にこやかに微笑んで見せた。
 そして右衛門作の方に顔を向け、四郎に代わって万が口を開く。
「お気遣いはご無用に存知ます。万はこうして四郎様と共に旅立つことが、この上ない果報と心得ますゆえ」
 何かを言いたげな様子の右衛門作を遮るように、四郎がその後を受け取って言葉を繋いだ。
「この様子では、私も万も何処へ逃げても生きてはおれまい」           

 四郎がそう言い終えると、手綱が右衛門作の手からするりと抜け落ち、それ自体が魂を宿しているかの如く、ゆっくりと宙を舞った。 
 嘶くキセキを御しながら、四郎は右衛門作に最後の言葉を告げる。
「そなたも武士ならば切腹するのが本望であろうが、我等キリシタンに自害は赦されぬ。
         (27)

 重ねて申し置く、決して自害はならぬぞ」

 その後四郎は火矢を受けながらも、万を背に突撃を敢行した。
 そのときには既に幕府軍の放った火矢によって、原城は元より一揆勢の誰も彼もが炎に包まれていた。

 いよいよ落城の断末魔を迎えたそのとき、突如として全身に炎を纏った一頭の馬が原城から飛び降りたのだった。
 それは幕府軍の陣中からもはっきりと見て取れた。
 四郎の駆るキセキである。

 憐れ火矢を受けた馬が飛び降りたのかと、幕府軍の兵士達は皆眼を覆ったが、いよいよ地面に叩きつけられようとしたその刹那、紅蓮の炎に身を包んだその馬が、背中から伸ばした翼を一杯に拡げてふわりと浮き上がったのだ。

 全身に炎を纏った馬が羽ばたくその姿は、えも言われぬ美しさで見る者総てを魅了した。
 感嘆の声を上げる幕府軍の兵士達。
 しかし刹那、燃え上がる紅蓮の炎が怒涛の如く彼等を包み込んだ。
 その馬が羽ばたけば、真っ赤な炎が瞬く間に四方を覆い尽す。
 あっと言う間に伊豆守一人だけを残し、幕府軍の本隊を総て炎が呑み込んで行った。

 一瞬のうちに本隊を失って立ち尽くす伊豆守の前に、炎を纏った天馬を駆る武者が眼前に現れる。
 その背後にはうら若き女も馬上にあった。
「そなたは誰か?」
 伊豆守の問い掛けに、馬上の武者は唄うように告げる。
「お初にお目にかかる。我こそが天草四郎時貞でござる」

 これはもはやこの世の者にあらず。
 そう思い定めた伊豆守は、大きく頭(かぶり)を振った。
 その炎を纏った天馬を駆る武者は、神なのか魔物なのか、はたまた幻影に過ぎないのか、焔に包まれたその面差しからは、蓋し若武者であろうと窺えるのみであった。
 伊豆守は焔の眩しさに眼を細め、馬上の若武者を睨め付けるようにして見上げた。
      
「化け物め! 何故(なにゆえ)我が兵を焼き尽くした。我こそは老中松平伊豆守である。殺すなら大将の私を殺せば良いものを」
        (28)

「如何にも左様。されど某は御老中に頼みごとがござる。それゆえ束の間其許(そこもと)の兵の命を預かり申した。
 されど其許が我が思いを叶えてくれると言うのなら、兵に危害を加えるものには非ず。
 暫くの後、兵も返してしんぜようほどに」 
「何と、それは真か・・・・・して、望みとは何か?」
 怪訝そうな顔でやや後退りながら問い返す伊豆守に対し、馬上の若武者は焔の中に在るとは思えぬほど、涼やかな顔で答えた。
「此度の戦は我等の信仰の為、聖戦にして決して私の諍いに非ず。
 武運拙く敗れはしたが、我等は死しても信仰を捨てることを潔しとせず。
 死しても、死しても、幕府に立ち向かうものなり。
 されど向後も幕府は我等デウス様を信ずる者を見付けてはこれを討ち、根絶やしにするつもりかと存ずる」
「如何にも。しかしそれは耶蘇に限らず、異国の宗門総てに及ぶ」
「さもありなん。さればでござる。これを一度だけで構わぬゆえ、其許自身の眼で検めては戴けまいか」

 そう言い終えると馬上の若武者は懐から何かを取り出し、それをその手に掲げるようにして捧げ持った。
 するとそれはそれ自身が意思を持っているかのように、彼を鎧う焔の中より飛び出し、宙を舞って伊豆守の手の中に納まった。
 和綴装丁からなる表紙には、「聖書」という文字が刻まれていた。
「そなたが検めよと申すは、この書物のことか?」
「如何にも。デウス様の教えを書き留めたる書物にて」
「これを検めれば良いのか? しかし何ゆえ・・・・・」
「聡明な其許ならば、その書を検めれば総てをお分かり戴ける」
 背後で微笑むうら若き女と共に、若武者もまた微笑んでいた。          
 彼等は伊豆守に一礼すると、翼から迸る焔の尾を引く天馬と共に、天高く日輪に向かって舞い上がって行った。

 伊豆守は彼等の姿が見えなくなっても、暫く呆けたように立ち尽くしていたが、陽光を弾き返す何かの光にふと眼を射られたせいで、漸く我に返ることが出来た。
 それはクルスが放つ、銀色の輝きであった。
 彼の聖書を持つ手のもう片方の手には、何時の間に授かったものか、銀のクルスが握られていたのだ。
「何と不可思議なことよ」
 伊豆守はそう独りごちて、クルスを日輪に翳してみた。
 するとどうしたものか、炎に呑み込まれた筈の幕府軍の兵士達が、まるで何事も無かったかのように、見る見るうちに伊豆守の眼前に全き姿を現した。
         (29)

 その後伊豆守がその聖書を検めたかどうかは定かでない。
 また彼が耶蘇の神を信仰したと言う記録も一切ない。
 しかし彼が隠れて耶蘇の神に帰依していたことを示す、確固たる証拠が在ると言う伝承がある。

 それこそが今も尚、巷間実しやかに囁かれる迷信のことだそうだ。
 「丙午の年には火災が多い」
 「丙午の年に生まれた女は夫を殺す」
 などと言うものが、それであると言うことである。

 何でもその伝承によれば、島原の乱以降幕府の眼を掻い潜って耶蘇の神への帰依を欲する者の為、何者かが意図的にそのような迷信を流布したのだそうである。
 巷にばら撒かれたその迷信は日本全土に及び、当時その迷信を聞いた者の中で何故?、どうしてそんなことが言われるの? などと言う問い掛けがあった場合、それを訊きたければ地下に潜った秘密の教会に行けば良いという、尾鰭が(おひれ)が付いていたらしい。
 そしてその秘密の教会に行けば、生き残った山田右衛門作や彼の同志達が、島原の乱の折に起こった不思議な出来事と、その後四郎と万が神の国で永久(とこしえ)の幸せを得て、仲睦まじく暮らしたと言う話を、デウス様の福音と共に説いてくれたらしい。
 
 然して現在も尚消えることの無い、これほど大掛かりな迷信の流布を果たすことの出来た何者かは、当時の幕閣を措いて他にない。
 なるほど筆頭老中の松平伊豆守をして、彼が耶蘇の神に帰依していたと言うのなら、その迷信を流布したのだと言うことも肯ける。
 つまりその迷信こそが、松平伊豆守が隠れて耶蘇の神に帰依していたことを示す確固たる証拠だと言うのが、その伝承の顛末である。

 尤もこの話を信じる信じないは、各人の自由な意思に委ねられるところではあるが。
 しかし炎を纏い四郎を神の国へと誘った牝馬のキセキのことを、或いは四郎と共に神の国へと昇った万のことを説く為に用意された逸話として、それ等の迷信は余りに良く出来たものだと言えるのではあるまいか。

 話し終えると幸雄は、手にしていた大学ノートを静かに閉じた。
 そして只呆然とこちらを見詰める詩織に、そのノートを手渡す。
「大切にしろ。伯父さん一生懸命思い出して書いたんだから」
        (30)

 詩織は未だ焦点の定まらない様子で、幸雄を凝視し続けている。
「おい、大丈夫か詩織ちゃん?」

 メールだよ。メールだよ。
 間の抜けた着信音が、物語の紡ぎ出した神聖な静寂を破る。
 幸雄には大丈夫とだけ返事をして、詩織はポッケからスマホを取り出し、今度は直ぐに返信のメールを送る。

 送付先は「富塚産婦人科」である。
 今日スマホの番号を変えてから、今のスマホの番号とアドレスを教えたたった一人の人物とは、その産婦人科の窓口の看護師であった。

 先刻手術の日程の問い合わせをして来たのだが、返信をしないで放ったらかしていたので、再びそのことを打診して来たのだ。
 ふっくらとした顔の看護師で、屈託の無い笑顔で訊いて来るものだから、診察を受けたときはその場で堕胎手術の予約をする気が失せてしまって、家に帰ってから返事をするとお茶を濁してしまった。
 すると電話がし難いようであれば、メールで良いから希望の日程を今日中に伝えるよう、その看護師は詩織に釘を刺したのである。
 再三の詩織への打診メールは、当然と言えば当然の帰結だ。
 返信はたったの二行、もはや詩織は返信を躊躇わなかった。 

 手術はキャンセルして下さい。
 出産したいと思いますので、宜しくお願いします。

 そのようにメールを送信して携帯を閉じると、詩織はあのとき自分がしようとしていたことを考えて鳥肌が立った。
 ゆっくりと深呼吸をし、何とか気を取り直して幸雄に向き直る。
「ねえ、伯父さん。今の曽お婆ちゃんの御伽噺を私にして欲しいって、母さんに頼まれたのいつ頃?」
「さあ、あれはいつだったか。只、その日は織江が詩織ちゃんに、父さんは丙午の母さんに殺されたって言われたらしくて、泣いてたのを覚えてる。
 それに飲めない酒を飲んで酔っぱらってた。
 しかもぐでんぐでんに。
 それで何を思ったのか、私にもしものことがあったら、あのお婆ちゃんの御伽噺を詩織にしてやって欲しいって言ってさ。
 約束させられたんだ。丙午の女は夫を殺したりなんかしない、夫と共に神の国に召されたんだって、そこんとこちゃんと伝えてよねって。自分で話しすれば良いのにさ。詩織ちゃんこの話聞くの、これが初めてなんだろ?」
「うん」
「でも、こんなのって遺言にはならないよな?」
        (31)
 
 詩織はそんなことないよと言いながら、首を左右に振った。
「ありがとう伯父さん。上手くは言えないけど、何だか私、今の話で救われた気がした。
 今更謝りたくてもも母さんはもう居ないし。
 だから心の中がもやもやしてたの。
 でもさっきのお噺を聞いたことで、母さんをお導き下さいって、イエス様にお祈りを捧げたみたいな、そんな感じ。
 変ね、クリスチャンでもないのに」
「それを言うなら、伯父さんだってそうさ。家は皆クリスチャンじゃないけど、確かに伯父さんもそう思う。良い話だって」
「そうね。さっき聞いてて思ったの。母さんは丙午の年に生まれて、
 それで父さんと出会えて、人が何と言おうと幸せだったんだろうなって。
 何だかそんな母さんが素敵だなって、今はそんな風に心から思える。
 この曽お婆ちゃんの御伽噺のお陰で」
 手にしたノートをパラパラと捲る詩織が、ソファの向かい側で晴れやかに微笑んでいるのを見ると、幸雄も何やら笑顔になった。
「そりゃ良かった。でも、知ってるよ。この話を聞くずっと前から詩織ちゃんは、織江のことが好きだったってこと」
「どして?」
「その襟元のバッジ、伊達じゃないだろ」
 そう言い終えると、幸雄は席を立って何処かへ行ってしまった。   
 
 幸雄の言葉が、母の笑顔を、そして母との思い出を呼び覚ます。
 母に倣って行政書士を志し、大学在学中に国家試験を受験した日。
 そして何とか試験に一回でパスしたあの日。
 あの日翔と二人で合格祝いをして、帰るのが遅くなってしまった。
 家で待っていた尾頭付の鯛と赤飯。
 そして母の流した大量の涙と、少しの冷や汗。           

 詩織がそうして感慨に耽っている間に、織江が国家試験に合格した日に撮ったと言う写真を携えて、幸雄がリビングに戻って来た。
 幸雄は写真が詩織の方を向くよう、それをテーブルの上に置いた。
「詩織ちゃんは、織江が何で行政書士になったか知ってる?」
「その話は母さんから何度も聞いたわ。亡くなった父さんの為」            
「そう、亡くなった武彦君の為だ。
 武彦君が過労死したときに、勤めていた運送会社が何の責任も取らなくてね。
 そんな理不尽が許せないってあいつ、訴訟の手続きを始めたんだ。そのときの織江は行政書士からはほど遠い、法律なんて何も分からないずぶの素人だった。
 結果は見事な完敗。おまけに掛かった訴訟費用は全部パーさ」
「らしいね。でもその話をするときの母さん、凄く格好良かった。
 私が行政書士になったのも、そんな風に強くなりたかったからよ」
「そっか。そうだったのか。ま、聞いてるとは思うんだけどその後行政書士になって、織江は
        (32)

武彦君の過労を見事に証明してみせた。
 そのときの織江、凄かったよ。
 あいつ格好良かった。
 それからこんなこともあったんだ。
 ステーションプラザの開発のときに工事を請け負った建設会社を、織江が見事にやっつけてくれてさ。
 行方知れずになった開発業者が一番悪いけど、それでも開発業者が危ないと知っていて施工を始めたのなら、そっちにも責任があるって言ってさ。
 そうしたら何と、訴訟になる前に許してくれって、向こうから泣きついてきたんだ。今更金で支払うのは世間体が悪いから、施工を赤字でやらせてくれって話になって。
 お陰でマンション二棟とテナントビル二棟が、大体相場の半額で建つことになった」
「へえ、そんなこともあったんだ」
「だから詩織ちゃんも、自分の信じた道を生きるんだ。それが織江への一番の供養になる」

 お茶でも入れるよと言って席を立った幸雄を手で制して、詩織は私が入れるからと、丸めてあったエプロンを手に席を立った。
 お茶を入れる詩織の背中に、幸雄が思い出したように話し掛ける。
「あの話さ、実のところは長州人が創ったんじゃないかと思うんだ。
維新のときに幕府の出していたキリスト教禁止令を廃止して、一転明治政府がそれを解禁にしただろ。
 家の婆ちゃんって山口の出身だったからさ。
 きっと明治政府の長州閥が創った話なんだと思う」
「それは違うね。
 キリスト教が解禁されたのは幕府が失墜した後だ。
 だからこの話を創ったのは長州じゃなくて、恐らくはGHQだ。マッカーサーだよ。
 戦後日本のキリスト教の帰依率の低さに業を煮やして創った話だと言うのが、一番整合性がある」
 反論の声の主は、リビングの敷居の手前に立つ一樹だった。
「何だ帰ってたのか。
 まったく・・・・・ただいまくらい言えよ」
 呆れ顔でそう呟く幸雄の小言を、軽く肯くだけで受け流すと、一樹は詩織の背中に視線を移した。
「何だ、来てたんだ。お帰り」
「ただいまが先でしょ」
「へえ。詩織姉ちゃんも親父と同じこと言うんだ。ただいまです」

 そう言ってソファに腰掛ける一樹と、そして幸雄とにお茶を出した後、二人が討論を始めたのを機に、詩織は庭の在る方に向かった。
 音を立てずにサッシを開け、サンダルを突っ掛けて庭に出る。
 薩長がどうのだとか、GHQや終戦時の国体護持がどうのだとか。
 男二人が本気で討論する声に、詩織は何だか可笑しくなって声を
上げて笑ったが、リビングの二人には聞こえていないようだ。
 そんな風に難しい問題を討論する男達を、詩織は可愛いと思った。
        (33)

 そしてその二人より更に可愛いと思う男に、番号通知で電話する。

(昨日はごめん)
(別にいいよ。新しい携帯から電話掛けてくるって信じてたから)
(そうなんだ。あのね、プレゼントが有るの、翔に。私にもかも)
(え? それって何)
(新しい家族)

 声の様子から、飛び上がって喜んでいるだろう翔のことを思うと、詩織はホッとして、今になって漸く頬を濡らすものが何かに気付く。
 涙が零れないように顔を上げると、夜空には満点の星々があった。
 そしてそこには、彼女にしか見えない星が確かに瞬いていた。
 大四辺形が織り成すペガサス座が、そう彼女の羽ばたくその雄姿が。

        (34)
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