見えない足あと

文字数 2,020文字

 ない。僕には足あとがない。なんで?
 たしかにあったんだよ、さっきまでは。さっきっていうのはえーっと…お母さんに頼まれた砂糖を買いに、スーパーに入るまでは。

 前日から降り続いた嵐のような雨は町にいくつもの小さな池を作った。
 僕は好奇心旺盛な小学生だから、そんな水溜りを見つけてはちゃぷんと足首くらいまで長靴を沈ませて、自分の歩いた跡を残して行った。
 時にはくねくね歩んでみたり、ハの字を描いてみたり。僕が歩んだ通りに靴のスタンプが押されるから、それはそれは楽しかった。
 それなのに、ねえ。どうして帰り道になった途端に僕はそのスタンプが押せなくなったのだろう。
 ちゃんと雨水に浸してるよ、ちゃっぷんと。だけど何回やってもだめだったから、少し寄り道をして公園にも寄ってみた。そこには蛇口が馬鹿になっちゃった水道があるんだ。バシャバシャと出続ける水道水を、長靴たっぷり浴びさせて、「えい」とコンクリートに大ジャンプ。
 だけどつかない僕の足あと。どうしてだろう?
「まあいっか。しょうがない」
 お母さんは家で煮物を作ってる。砂糖が足りなくて困ってたから、早く帰ろう。

「ただいまー!」
 玄関先、大きな声で言った。
「お砂糖買ってきたよー!」
 今日は僕のはじめてのおつかいだから。喜んでくれるかなって期待して。
 それなのにお母さんはおかえりも言わずに僕の方へとやってきた。
 あれあれ?泣いてる?そんなに嬉しかったのかな。
 僕はえへへと照れ隠し。だけどね。お母さんはそのまま僕を無視して行っちゃったの。ビュンッてすごい勢いでお外に行っちゃった。
「え、お母さぁん!?」
 待ってよ待ってよと僕は追いかける。今日のお母さんはおかしいなあ。だって僕はちゃんと帰ってきたのに、すぐ目の前に居たのに、「辰彦(たつひこ)!」って僕の名前を叫びながら走るんだもん。

 必死に走って追ったお母さんが着いた先はスーパーだった。
 どうしてスーパーに来たの?僕のはじめてのおつかいはもう終わったよ?
 お母さんはスーパーに入るのかなと思って少し後ろから見ていたけれど、お母さんはスーパー手前の駐車場でくたんと座った。僕にはいつも「そんなとこでしゃがまないの!」って怒鳴るくせに、ずるいなあ。
「お母さんだってお外で座ってるじゃないか」って言ってやろうと思って、僕はそっとお母さんの前にまわりこむ。
「あれぇ…」
 だけど言えなかった。
「僕だ……」
 そこには背中を大きく振るわせて泣きじゃくるお母さんと、傷だらけの僕が横たわっていたから。
 僕は自分の手を見た。そこに砂糖なんてなかったよ。横たわっている僕の手をじっと見てみたら、そこには五百円玉が握られていた。
「なんだ。まだ買ってなかったのか」
 てっきりおつかい成功だと思ったのになあ。
 お母さんはいつまでも泣いていた。「辰彦、辰彦」って呼ばれるたびに「なあに?」と言ってみたけれど、僕の姿は見えないみたい。
 ふと周りを見渡してみると駐車場の入り口に大きな大きな水溜り。
 ああそうだ。そういえば僕、これをぱちゃんってやったなあ。足あとはどこにつけたんだっけ。
「あ…」
 目の前の僕は長靴なんて履いてなかった。後ろの知らないおじちゃんが言ってたよ。ずいぶん遠くに飛ばされたってさ。よっぽどの衝撃だったって。
 なんか僕、それを聞いたら分かっちゃって。自分になにが起きたのか。
「辰彦…辰彦!」
「お母さん…お母さん!」
 泣かないで、お母さん。
「ごめんね……母さんも一緒に買い物行けばよかったね…ごめん…」
 謝らないで、お母さん。僕がいけなかったの。真っ直ぐ歩かないで遊びながらおつかいしたから。僕が悪かったんだよ。
「辰彦…」
 僕はグッと目を閉じた。お母さんの泣き顔を見るのは辛かったし、かわいそうだと思ったから。
 ごめんねお母さん。ごめん。最後にお母さんの作った煮物、食べたかったな。


「辰彦!」
 僕は全身に痛みを感じるとともに、お母さんの落とした涙がほっぺたにあたって冷たいって思った。
「…お、母さん…」
「辰彦わかる!?わかるのね!?」
「うん…」
 あれ。今度はさっきまでの僕と入れ替わっちゃったのかな?僕はお母さんの隣に目をやった。だけどそこには警察みたいな人がいるだけで、僕の姿はなかった。
「お砂糖……」
 ぽつりとそう呟いた僕に、お母さんは「え?」と言った。
「お砂糖…買わないとね、お母さん」
 お母さんはそんな僕を抱きしめると、さっきよりも大きな声で泣いた。わんわんわんわん。僕より子供みたいっ。


 それから数ヶ月。今日ははじめてのおつかいリベンジの日。
「もー。後ろからついてきてるのバレバレだよう」
 お母さんは数メートルの間隔を保ちながらずっと僕を追ってくる。
「真っ直ぐ歩いてよー?」
「わかってるってばー」
 今日は快晴。最近雨が降らないから水溜りもなし。
 だけど後ろを振り向くと、そこには小さな僕の足あとと、それを守るような大きなお母さんの足あとが見える気がした。
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