ひとり

文字数 2,335文字

ウマウマと言っている彼の顔を仰ぐ。ああ、この人がよかった、あのゴミ人間よりも。
 やっぱり別れられないのかな、あいつと。
 考えるだけで吐き気がしたから、今は目の前の人のことだけ考えることにした。

 この人と一緒にいたら、どうなるんだろうか。この顔の隈も消えるのだろうか、笑って眠りにつくことができるのだろうか、夕飯は二人でワインの旨さを語り合えるのだろうか。

 考えるな考えるな考えるな、また声が聞こえた。私の声。

 考えると考えた分不幸に感じるから、考えるなと、私に言ってきた。
 しょうがない、考えてしまうのはしょうがないんだ。
 じゃあ何を考えろと言うんだ、反抗した。自分に反抗した。強く、強く。

 ほろり、緩んでいた涙腺がボロを出して、涙袋に溜まっていたものを放出し始めた。しまった、これではメイクが、さっきはハンカチでなんとか凌いだが、今回はヤバい。そう考えても止まらなかった。
 フォークを置いてハンカチで拭い続けた。彼の手は止まっても、私の涙は止まる事を知らないようだった。

 泣きながらちらりと彼の顔が見えると、彼の肩が少し震えたように見えた。でもそれは、きっと私の勘違いだろう。そんなことを感じながら、十分ほど泣いていた。

「ゴメン、洗面所借りる」
「良いよ」

 彼の顔に何も出来なくて済まない、と書いてあった。その顔を見つめながら、

「大丈夫、これは私の問題だから」

 それだけ言って洗面所へ走り去った。途方に暮れた顔がこちらを見ていた。

 鏡の中の私は、人生史上一番かわいくない顔で、ぐしゃぐしゃだった。
 覚悟を決めて、バッグの中からクレンジングシートを手に取った
 何かのため、と絶対使わないことがわかった上で入れていて良かったと思う。

 ゆっくりと顔を擦る。

 外出する時には見せたことの無い私が現れる。

 あまり濃い化粧はしていないつもりだが、彼はがっかりするだろうか、幻滅するだろうか、突き放すだろうか。
 妄想が加速する。

 最後に顔を洗ったあと、ふと鏡を見ると彼氏が後ろにいる幻覚を見た。
 後ろを向いて空を張った。もちろん私の手はふっと空気を掠めるだけ。

 慧くんと付き合えたら良いのに、私にとって彼は百点なのに、と考えた。
 それと同時に彼から見た今の私は彼にとって何なのだろう、と思考する。

 化粧を落として、目の前で泣いちゃって、それでも彼は私とまた映画に行ってくれるだろうか、また不幸話を聞いて貰えるだろうか。
 また、私と……。

===

「ゴメン、スパゲティー冷めちゃったね」
「俺は良いんだけど、七瀬のがね。チンしてこようか?」
「ありがとう」
「にしても、落としてもかわいいとかずるいよな」

 わたし? わたしの話をしているの? 目を見開いた。

「やめて」

 言ってしまった。こんな台詞絶対言いたくなかったのに、口もどこもかしこも今日は緩んでいるようだった。

「何で?」
「そ、それは……」

肩が、膝が、顎が、震える。頭の中が真っ白になる。体温が急に上がって、全身が火照る。
肌の温度が体に沁み込んで、段々それが体の真ん中を温めるのを感じる。
人生で一番と言っていい程の震えの中で、私は一言だけ言った。

「好きになっちゃうから」

===

「一つ提案があるんだけどいいかな」
「なに?」
「俺、東京に移動になったんだ、ここを離れるのは寂しいけど」

 ガシャン、と唐突に何かが崩れるような音が聞こえた。もしかしたら聞いてもらえるはずだった愚痴も、これから二人で食べる食事も全部なくなった。
 心配していたことが現実になった。

 想像した彼の姿も、今まで見てきた彼の姿も、全部陽炎だったんじゃないかと思うほどに歪んで見えた。

 取り残される。また取り残される、一人で食べる惨めな夕飯、あいつの唇、嗤う男、吐瀉物、涙、記憶、全部一人で抱えて生きていかなくちゃいけない。


 そうだ、私は浮かれていたんだ、なんだかんだこんな関係がずっと続くと、ずっと彼が側にいる気が少ししていた。
 このまま夏の匂い、青嵐、桜、雪、蝉時雨、紅葉、一生分の嬉しいを彼と一緒に体験すると体が勝手に思い込んでいたんだ。

 馬鹿、馬鹿、馬鹿、私はなんでこんなに馬鹿なんだろう。
 そんなわけないのに、自分が変わらないのに何が変わると言うんだろう。

 環境が変われ、という傲慢な思想を持っていた自分が惨めで、汚くて、限界で、それでもまだ彼を求めていた。

 行かないでと、心が叫んでいた。
 私の横に居て、と。

 でもやっぱり私は私、口に出せない。

 こんなに顔をくしゃくしゃにしても、結局なにも変わらないんだ。と諦めた。彼を、自分を。
 もうどうでもよくなって、逆に冷静になった。

 彼が口を小さく開く。

「それで、いいかな? 俺さ、お前も連れて行きたいと思うんだ」
「え?」
「やっぱり例の彼は別れる気が無いらしいしさ、浮気してみないか? 彼氏のことはちょっとかわいそうだとは思うけどさ、逃げる、というか、夜逃げ、というか。とにかく、俺はお前が好きで、俺がお前を守ってやらないといけないって会うたびに思うんだ。自分勝手なのは重々承知だけど。どう、かな?」
 さっきまで考えて考えて捨ててきた考えが甦って来た。心の中を暖める彼の言葉は、私の考えていた全てだった。

 心の中で浮気なんてやっちゃ駄目だと思った。
 それでも、それでもあいつが私にしてきたことの方が何億倍も残酷だ、と心の中で完結させた。

 数十秒、体を前後に揺らしながら考えた。
 ダラダラと彼と付き合っていてこれから変わるのか、考えた、結婚は? 
 考えて考え抜いた結果が言葉になって涙と共に身体から零れた。

「浮気する」

「ありがとう。これからよろしく、玲」そう言って彼は頭を下げた。
 雲の隙間から太陽が覗きスパゲティーを照らした。
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