観音力
文字数 10,431文字
観音力 在本在文
序
凡ての禍がせめて心の裡に留まり、そしてその心がどうか安らかに留まるように。
観音力の御加護を──。
観音力
2年前
ふと鏡を見ると、何故か──顔が真っ黒に消えてしまっている。
その事を理解しようとする僅かな隙間に速やかに音の無い怖ろしさが涌いた。
傍には懐妊した黄の巨人がただ横たわっている。
そして、痙攣的に笑いかけ、激しく嘔吐した。
何度も、何度も──。
パイナップルを浸すシロップに溶けた缶詰の鉄の味が舌の側面と結合して行く暗澹たる日差しに濁った疲労感。
まるで水飴の中を歩いているような毎日毎日──。
全身麻痺のように何も感じないこの頭を早く治してくれ精神外科医。
睡眠障 害遂に崩壊し転がる導入 剤の瓶の透明に綻ぶ此の世界が現実ではないことに気付いてしまった──。
実はマトモだったんだ。
──やっぱりな。
芸術はその為にあったんだ。
拡張しようとする意識の勢いを抑えていた脳はもう耐え切れない──。
1995年 冬
或る寂れた村を訪れ〝死人の生る木〟を確認する。
襤褸布で作った照る照る坊主のようだ。
朽ちた口から最後の息が「コァ」と頭上で漏れ──。
ドチャッ。
──捩じ切れた身体の汚物混じる血溜まりに、
膿垂らし
首が無い
蟲が涌き
口から身
内側に
喰い荒らし
腑に祟り
繰り上がり
憑いた神
月明りに
生み変わり──。
──あれは。
女だ。
水を張った古い棺桶のようなものに腰の辺りまで浸かった女を村の男 達が真剣な表 情で取り囲んでいる。
凍った月光を浴びているのに襦袢姿の女はびっしょりと汗を掻いており、何かに耐えるようにくしゃくしゃになった顔面が不細工で忌まわしかった。
左 手で桶の縁を掴み右手は水の中に突っ込んでいる。不自然な中 腰が──何だか厭だ。
手淫に耽っているように見えた。
恐る恐る近付いてみると、どうやら女は出 産の最中らしかった。
ただ、その女の他には松明を掲げた息遣いの荒い男 達しか居らず、それでいて出 産を手伝うでもなくまるで眼差しで強姦するように女を見詰めている光景が余りに異様で、直ぐにそうだとは判らなかった。
言葉を発する者はなく、擦り切れた女の喘ぎ声だけが淫憐しく松明に爛れていた──。
──真っ白な襦袢に乳房が透けて、
傷と痣
菊の花
水の中
畜生 腹
膣を裂く──。
流れた出来損ないは蛭児となって胞衣を引き摺りべちゃべちゃと跳ねて行った。
もう一匹の鬼子は髪を絞り滴り落ちる血の祟りを氏子共に撒き散らした。
夜より濃い血の赤に錯乱した炎が世界を歪めるその影に──少 女が居た。片袖が風に靡いている。
忽ち辺りは血の海となり、箍が外れ巫山戯ているみたいに痙攣している夥しい数の死体の真ん中に立つ隻腕の少 女は、その時──初潮を迎えた。
2000年4月18日
「そして、ぼうっと向かい合って何を言うでもなくただ視線だけギョロギョロと彼方此方に向けていた──と。うん。成る程。それで、その死んだお姉さんというのは貴方の前に現れてその後どうしたのですか? すうっと消えたのですか? それとも、とことこ歩いて出て行ったのですか?」
神経質が眼鏡を掛けているようだった。
窶れた──臨床心理士と名乗る──男は、思い当たる症 例に半ば確信めいた口調で如何にも手順をなぞるようにそれだけ言うと、じっと此方を見たまま机から生卵を取り出し、慣れた手付きで割ったそれを当たり前のように直 接口に含んだ。
──気持ちが悪かった。
2003年3月30日正 午
気付けば常に何となく──怖い。
思い出せる一番最初の記憶も「怖い」だった気がする。
勿論、その時は言葉も知らない赤ん坊だったからそれは──気がする──というだけなのだが、それでも今考えると矢張りあれは「怖い」だったと思う。
初めて「怖い」という文字を見てその読み方を知った時も意味を問う前に──ああ、こう書くのか──と思ったのだ。
ということは初めて「怖い」と思ったその時、既に言葉として認識していたということだろうか。
そんなことはないだろう。
恐らく初めて見たというのは勘違いで「怖い」という文字の意味を何処かで既に知っていたか、昔のことを思い出すうちに何時の間にか記憶が改竄されてしまったのだろう。
別に珍しくもない能くある話だと思う。
そんな如何でも好いことを不意に思い出し、聞き齧った知識で恐 怖自体に就いて考え、暗いだけで何も無い所に「怖い」と思うことが如何に馬鹿馬鹿しいことかと解っていても、それでも確かに「怖い」は在り、薄くはなれど消えてはくれない。
消えたと思っていても、或る時突然「怖い」は形 無く凝 固して容赦なく私を苛むのである。
──怖い。
密室が怖い──。
日中は何ともないが陽が落ちると風呂に入るのにも難儀する。
陰が怖い──。
人ならざるモノが来る気がする。
無音が怖い──。
自分が無くなる前触れのようで物凄く不安になる。
そして寝る時になると今度は家族が怖い──。
何かの拍 子に両 親がトチ狂って、寝ている私の首を切り落としに来はしないかと思うと毎晩満足に眠れなかった。
どんな時にも隙間から「怖い」が入り込む。
──闇が占めると感じられる──両価性──何が視える──。
此処まで来ると最早自分から怖がりに行っているのではないかと思えないこともないのだが、こればかりは如何にも制御出来ない。
もしも誰かが私のこんな日常を覗いたら、さぞかし滑稽に見えるだろう。
誰かって。
──え? 昼間は来ない筈だろ?
2005年7月
長く綺麗な髪から煙草の臭いが染み出ると急に感じた穢らわしさを無理矢理昂りに混ぜて女を抱いた。
それを見透かすように穢らわしい女は嗤った。
──馬鹿にするのか。穢らわしい女のくせに。
劣情を吐き出し束の間満たされた余韻は瞬きも終えないうちに湿った空気に溶けてチカチカと白んだ意識が輪郭を取り戻すと女は折れ曲がって壊れた人形になっていた。
もう、嗤っていなかった。
──噫、面倒だな──と思った。
2005年7月
「妹が死んでるかもしれない」という連絡が来た。
変な文章だと思ったが、どうやら妹は事件に巻き込まれたらしい。しかも殺人・死体損壊事件だという。だからといって「死んでるかもしれない」という文章は矢っ張りおかしいだろうと思いはしたが、まあしょうがないかなとも思った。
初めて上 京した田舎の両 親と共に警察署に向かった。
久し振りに会った両 親も事情が呑み込めておらず──というより──これから確実に訪れるであろう残酷な現実を何処か必死に拒否しているようで、総ての感情が上擦ってただ只管に余所余所しかった。
──どことなく老けた気がする。
通された割と広い会議室には刑事が一人待っており、畏まった挨拶をされた。
誠実そうで好感が持てた。
遺族に成るかもしれない人間を目の前に話し辛いのか歯切れの悪い刑事の説明は何とも解り難かったのだが、現在、妹と思われる遺体は頭部を除いた総ての身体が発見されているという。どれも剥き出しで遺棄されており、所持品等は一切見付かっていないらしい。
それでどうして警察はその遺体を妹と推定したのか凄く興 味が涌いたのだが、考えてみれば簡単なこと──実際には簡単なことではないのかもしれないのだが──だった。
妹は生まれつき、右手の小指の第二関節と薬 指の第一関節が欠損しているのである──出来損ないなんだよ──。
遺体の右手の写真を見せられ、両 親は息を呑んだ。
それは、紛れもなく妹の手だった。
我我の反応を見て刑事は、直ぐに戻ります──と言って、何か、功を焦る気持ちを抑えるように静かに席を外した。
部屋はしんとして──両 親は何か言おうとしたが、結局 何も言わなかった。
そして本当に直ぐに戻って来た──未だ若い、もしかしたら同い年かもしれない──刑事の妙に深刻なお悔やみの言葉に「あぁ」とか「はぁ」しか言えない両 親は一層小さかった。
それから個別の事情 聴 取となり、それぞれ取調 室に案内された。
どうして個別なのかは少し気になったが、まあこんなものなのだろうと思った。
──皆さんに訊いてることですので──皆さんに訊いてることですので──。
聴 取を終え会議室に戻ると、先に聴 取を終えたらしい両 親が待っていた。
母は項垂れ、音にならない叫びに縋って哭いていた──。
父は、人間を超えてしまったような怒りに満ちた真っ赤な眼の視線を何処に定めていいのか判らずにただガタガタと震えていた──。
それを見ながら私は、一応訊かれた──皆さんに訊いてるらしい──死亡推定時刻の行動に就いて偶偶不在証明があったことに何故か少しだけ安堵していた。
そして、後は両 親に任せて帰ろうと思った。
2005年8月19日
思うところあり、十 年前に取材で訪れた或る村に行った。
前に訪れた時は二月で、山道の樹樹もこんなに鬱蒼とはしておらず、地獄から伸びた手のように黒く尖った枝が、酷く乾いた風に揺れて白く寂しい空を虚しく引っ搔いている風景に色彩は全く亡かった。
その時の記憶と目の前の景色はまるで違うのだが、脚で感じる道の気配のようなものには確かに覚えがある。
日陰は多いが、ただ只管に湿度が高くてだらだらと暑かった。
葉は繁っても鬱陶しいだけの密度の高い樹樹を無視するように黙黙と歩いていると、恐らく半分ほど進んだ辺りで向こうの方から何か真っ黒いモノが近付いて来た。
不気味な男だった。
黒いソフト帽を目深に被り、脛まで隠れる黒い外套、下ろしたてのような綺麗な黒い革靴を履いて、男は静かに、しかし少し早足で歩いて来た。
季節外れもいいところで見ているだけで暑い恰好なのに、ソフト帽から僅かに覗く病 的な程に生白い顔には汗ひとつなかった。
馴染んでいない──。
恰好が季節外れとか場違いとかそういうことよりも、現実に馴染んでいない。何故かそう思った。
村へ行くにはこの道しかないので男は間違いなく村から来たのだろうが、あの村にこんな男 居ただろうか。居たのかもしれない。
村の親戚か何かだろうと思い会釈をすると此方に気付いた男も擦れ違い様に会釈をした。
──ん? 首筋に、海百合?
思うところあり、十 年前に取材で訪れた或る村に行った。
前に訪れた時は二月で、山道の樹樹もこんなに鬱蒼とはしておらず、地獄から伸びた手のように黒く尖った枝が、酷く乾いた風に揺れて白く寂しい空を虚しく引っ搔いている風景に色彩は全く亡かった。
その時の記憶と目の前の景色はまるで違うのだが、脚で感じる道の気配のようなものには確かに覚えがある。
──即死のオムニバスを目視する。
日陰は多いが、ただ只管に湿度が高くてだらだらと暑かった。
──幼児虐待、抉れる脳。
地面が湿っていた所為で靴がどろどろに汚れてしまった。こんなことなら襤褸靴を履いて来るんだった。
──これは、漏電した蛭児の意識だ。
今回は取材ではないので別に誰に会うという訳でもないのだが、襤褸靴だと何だか失礼な気がしたのだ。
──お前が目を背けているものは何だ。
こういう妙な所で気が小さいのだ。
──必死に否定して誤魔化しているものは一体何だ。
民家が見えた。思っていたよりも恐ろしく古くなってはいたが配置には見覚えがある。
此処が村の入口だ。
──不幸になりたいか。
そのまま村の反対側までまた暫く歩く。
頭上を覆っていた樹蔭は無くなり、強 烈な陽射しと山道の疲労で眩暈がする。少し休みたい。
──触れてみたいだろ。悪魔に。
でも、あの御神木に辿り着く迄は休んではいけない。
何故かそんな気がする。
──その眼で怖れを覗け。
噫、骨の中が痒い──何だっけ。少し休みたい。
──悪露に塗れ絶えず上げる産声の異言を聞け。
それにしても、さっきの男は暑くないのか。
まったく、汗で張り付いたシャツが好い加減不快だ。さっきから一休みしたいのに──。
さっきの男って──誰だ?
御神木を見上げると自分と全く同じ顔の死人がぶら下がっていた。
──噫、確か私か──。
思うところあり、十 年前に取材で訪れた或る村に行った。
そんな村は、無かった。
2100年12月31日23時59分
難産を終えた母親が分娩台でぐったりしている。母親は早期母子接触を希望しており、それに備えて休んでいるのである。
心配そうに見詰めていた分娩室のドアが優しく開いて、身体を拭き体重 測定や血糖検査を済ませた赤ん坊を抱いた看護師が入って来た。
この看護師と母親は通院中に親しくなり、今では友人のような関係だ。
「良く頑張りましたね。とっても可愛い赤ちゃんです。はぁい、ママのところにいこうね」
顔色が一向に戻らない母親は身体を起こすのもやっとといった様子だったが、それでも産まれたばかりの我が子を愛おしそうに抱いた瞬 間、その腕の中で赤ん坊が破裂した。
柔らかな骨の破片が左 眼に突き刺さった母親は叫び声すら上げられないまま溺れるように失神した。
それは、新世紀を迎えた3秒 後の出来事であった──。
──このように我我は、能力の覚醒にはオキシトシンの過剰 分泌が深く関係しているのではないかと考えます。
逆 回転
2018年5月12日
──厄介者みたいな目で見て来るんだよね。俺のこと。何でだろ。こっちは頼まれて来てんのに。解る?
あれ──?
──何だろうね。俺が来たことの意味を解ってないのよ彼奴等。上手く行ってないからコンサル頼んだんでしょ? なのに何ですかあの態度は。解る?
私、この男の──。
──一緒に頑張りましょうよって言ってんのに。嫌なら辞めろ。辞めないんだったら文句言うな馬鹿共が。解る?
私、何でこの男と──。
──あれも馬鹿。AI警戒して仕事奪われるってデモ行進してる奴等。あれ「私は無能です」って大声で言い触らしてるようなもんだろ。人間がもっと創造的な仕事をする為のAIでしょ。人間は進化しなきゃいけないの。いいから黙って人工知能を信用しろよ。解る?
付き合ってるんだろう──。
──結局 身勝手でしょ。働けないとか貧乏って、要は怠けてるってことでしょ? 如何すれば稼げるか考えて実行してる人間だけが生きて行ける社会こそ健全でしょ。そうやって強い人間だけが生き残って行くことで社会がより良くなるんだから。つまり彼奴等は社会が良くなろうとしているのを阻害してるんだよ。解る?
解らない。
──だから俺がこういう所に住めてるのと貧乏人が居ることの格差なんて別に何にも悪くないの。当たり前なの。考えてるの。実力なの。生きるか死ぬか? 知るかッ! 解──。
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
──嫌われてたよ同級生。御高く留まってて。電話が来たのもその時が初めて。そしたらいきなり「あの──殺してしまいました」って。で、あのニュースでしょ? キモ。
2010年 初夏
──君は不幸であるべきじゃない。
──こんなに純 粋で美しい君が、少しだって汚れなければならない世界は間違ってる。
──僕が君を守るから。これからもずっと。
──だから君は何も心配しなくていいんだよ。
──君を幸せに出来るのは僕だけだ。
──君を愛してる。
──あぁ可愛い。はぁ愛してる愛してるよ。
──どうしたの? どうして泣いてるの?
──そっちに行っちゃ駄目だよ。汚れちゃうよ。
──ずっと一緒なんだよ。何だ? お前達は誰だ! やめろ! 離せ! その子を返せ!
玄関で呆気に取られている警官に縋り付いて震える裸体の少 年は、固く目を閉じ、精一杯絞り出すように──。
「知らない人なんです」と言った。
2003年12月22日
被虐嗜好者の母とその息子が裸で吊るされて息子が女に甚振られる。
最初は興奮していた母も息子の痛痛しい姿に改心して女に止めるように懇願する。
甚振っていた女が裸になり母を抱き締める。
母は女の優しさに胸打たれるが女が母の背中を突然引っ叩いて母の性癖が復活する。
暫くして様子を見ると死後硬直した息子の性器で屍姦する血だらけの母──。
「──夢、ですか。確か貴方は、お母さんを殺した時の記憶が曖昧だそうですね。魔が差したとしか思えない──と、供 述 書にはそう記されている。ううん。魔が差して、ママ刺した──フンッ。すみません。鼻で笑ってしまいました」
1992年 元日
年寄り特有の、あのふるふるとした緩やかな身体の震えを見ていると無性に腹が立つ。
──クソ婆ァが。
絞め上げた喉は最後に、コココ──と鳴った。
「殺意は自己もモノ化する。そして世界を自己と等価にする」
昔そう宣った精神科医は今全身麻痺で動けないらしい。
だが、これは殺意ではない。誰でも食 事の最中に蠅が飛んで来たら叩き殺すだろう。それは何か特別な感情があって殺す訳じゃあない。考えもしない。反応のようなものだ。
鬱陶しいから殺す──。
少し楽しいから殺す。
何となく殺す。
ただ殺す。
その時、相手に対して殺さなければとか殺してやるとかそんなものは無い──と思う。罪悪感も──無い。ただ蠅に対して感じるのと同じ当たり前の嫌悪感と、一瞬で消える細やかな達成感があるだけだ。そして俺は俺としてまた殺す。
だから、自己をモノ化するとか、世界との関係とか、そういう小難しい理屈は私には当て嵌まらない。それ以前だし、それとは別の話だ。
見当違いの藪だったか。
だって僕は何も思ってないから。
──死が傍で──痛そうな目──気が咎める──。
いや──僕は──本当に──本当は──僕?
「心的外傷と謂うのはね、人でなしの自分に殺されないように自分を守ってるんだよ」
何か、おかしくないか──怖い──?
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い──缶ジュースの口に深く指を入れてグリグリと回していくと金属と骨が摩れる振動が聴こえて母親に甘えた時のような安堵感が全身を包む。
──ふふ、もう何も怖くなくなった。
1970年 立春
国体を目指している女のみっしりと詰まった筋肉の繊維が、ぷつぷつぷつ──と切断されていく。
これは──気持ち良過ぎる。
1949年
──違う違うですよ! 僕は病 気で──悪い──脳が──ちょっとばかしおかしくてこれが実は悪いことだったなんてことがとっても判らなかったんだ。あの八王子の病 院の医者の男の先生に眼鏡を掛けた人に会いに行ってもらって訊いてもらえれば貴方はきっときっと解りますから。僕のことが。僕は病 気で──悪い──脳が──ちょっとばかしおかしくてこれが実は悪いことだったなんてことがとっても判らなかったんだ──違う違うですよ! みんな最初から──死んでたんだ! 嘘です! 本当なんです!
それで、僕は、釈 放されて今日は、おやすみ──明日、姉と遊びに行くんです。
それで──これは、実は僕だけが内緒にしていることで、言いますね。
普通に暮らしているようですけれど、実はね──。
──姉も脳がおかしいんですよ──。
男は釈 放された。
精神鑑定の結果は「佯狂」だったという。
何故釈 放されたのか、その後男が如何なったのか、誰にも判らない。
関係書類はひとつも残っておらず、そのうち誰も──。
そんなことは忘れてしまった。
神武天皇即位紀元二千六百 四年昭 和十 九年八月十 一日
──えーと私、出来ることと言えばこれくらいで御座いまして。些か不謹慎な内容では御座いますが、拙い謡を披露させていただきます──。
縦 横無尽──中 毒死
未分類の菌類──人類身震い
足掻く敵に──化学兵器
容赦の無い──放射能
科学者か悪魔か──分かつは──互い違いの──社会規範
血塗ろの──死に物狂い──死に臨み──意味望み
倒錯した──工作員──暗殺者の──断末魔
死に際──意地になった──見切り発車
やること為すこと──野獣と化す
そんなもんに付き合わされて
心の底から──殺そうとか
今となっては解らんが
三日月に──雷──ちらつき──日が沈み──その日の晩に──殺しの暗示
脳内麻薬が──こんなに速く──真隣──魔と為り──後が無い──
血を吐き──地を這い──死の灰舞う──千日間の──戦地から──命 辛辛
廃人傀儡──細民窟の──最深部──福音吹く──復員服
あー戦争終わって──良かった──良かった──
──御清聴 有難う御座いました。
元和七辛酉 歳神無月朔日
肥後藩に伝わるゴーティエ・ダゴティ『男女総合解剖図譜』華岡青洲 写本──偽書と思われる──による製造法に従い天使の精子から生まれた人造人間は〝神の孫〟と呼ばれた。
しかし皆が言うその神の孫に臍が在ることに就いて、気に留める者は誰一人居なかった。
「じゃいで負くいじゃっか」
遠い神代
未だ月が地球と臍の緒で繋がっていた時のこと。
或る神様が自らの腹を割き、命の血と混じる精液の真珠色が照らす三千年先を憂うのでした。そして誰にも見付からないよう御姿を隠されたのです。
細 石が──巌となり──苔が生し──。
神様は、到頭見付かってしまいました。
秘された傷口を卑猥に暴かれた神様は、時間となり空間となり力となり物質となり現象となり言葉となり理となり──複製されるようになりました。
複製された神は何から何まで本物の神様と同じだったのですが、何から何まで同じだったので、複製された神様は自分こそが本物だと信じるようになられました。
反対に本物の神は、自分は偽物ではないかと疑うようになりました。
其処に、ひとりの人間がやって来ました。
何も事情を知らない筈なのに、凶ろしい顔をしたその人間は徐に片方を指差すと厳めしい声で、お前は偽物だ──と言いました。
そうして、人人から嘘吐き呼ばわりされるようになった神は──。
やがて死んでしまいました。
本物と偽物──何方が死んだのか、それは判りません。
そして、自分と同じ神の死を見た神様は──。
自分に似た死人の生る木に変わりました。
某年某月某日
癲狂 院──月下のデッサンをする患者の脳幹に五秒 前の電離気体が焼き付いて感覚器官は煩雑になる。
死のうとする──思考の渦。
無知で鬱──鞭で打つ。
教 祖は暴走を始める。
売血は止まない。
ハイイロの幼女が丸ノ内の人混みを擦り抜けて行く。
──真逆。
「東京が、滅ぶのか」
昭 和二十 四年五月三日午後十 一時二十分
膝枕の我が子の耳掃除をしていると頭の内側を待ち針で突かれたような痛みが走り透き通るほど皮膚の薄い芋虫を掴むような力 加減で弄っている幼い鼓膜を乱暴に突き破ってやりたい衝 動が涌いて──夢現の淡いに味気の無い感覚が引っ掛かり如何にか堪えている。
その日の昼、可愛い可愛いと皆が群がる隣人の赤ん坊を見た時も、その場で絞め殺してやりたくなって震えた手を後ろに組んで微笑んだ──。
──噫、焼き殺すのも好いかもしれない。
ふと見上げた天井に張り付いた老婆の口から垂れた涎の臭いに恐ろしく懐かしさを感じて目の前に糸を引くその涎を──そっと啜った。
そして、じっとりと向けられた黒眼ばかりの視線に──。
「お前はそういう女だよ」と言われた。
凶 暴が咲いた。
同時刻 杉並区某共 同住 宅二〇三号室
はち切れそうに孕んだ腹を何発も蹴り上げると水っぽい血が股から滴ってただ震えて耐えるばかりの馬鹿な女に背を向け、皮脂でべったりと重たい蒲団に入る。
母親の腹の中で胎児は生命進化の過程を辿るのだという。だから水子は蛙のような顔をしているのだろうか。ならば予定日を過ぎても未だ産まれない俺の子は神になるとでもいうのだろうか。
──過期産の神様──。
馬鹿馬鹿しい。
瞼の裏を刹那横切った妄想の所為か、寝相は自然と胎児のようになっていた。
「──御免なさい。お休みなさい」
明日も同じ朝を繰り返すのだろうと確信しながら柔らかく絶望するように眠る──。
「お母さん直ぐ行くから。先に寝てなさい」
その子供も姉にしか視えてないんだ──。
──死んでくれ。
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