自由航路

文字数 4,144文字

 湘南の海が見渡せる国道一三四号線脇の歩道を歩く。秋も終わりを迎えようとしていた。灰色の雲が太陽を隠し、昼過ぎだというのにどんよりとしている。海から吹く潮風が肌寒い。
 同い年くらいの男の子がすれ違い様に私の顔をちらりと目で覗いてくる。なんだか照れ臭くて、私は必要以上に視線を遠くにやる。
 今、私の前を通り過ぎた男の子は、私が気ままに散歩でもしてるように見えただろうか。それも仕方ない。私はいつものようにお気に入りの服に身を包み、よそ行きの化粧をして、ピアスも指輪もしている。誰もこれから私が死ぬだなんて思いもしないだろう。
 私はナツミ。そう、今日の私がいつもの私と違うところ、それは、これから自殺しようとしているということ。この汚い湘南の海に身を投げて。
 あとひと月もすれば私は二○歳を迎える。丁度潮時だったのかもしれない。ニュースでは暗い話ばかり。私がおばあさんになる頃にはお金が全然足りないとか、子供がいなくなって老人ばかりになってしまうとか、そんな話を今から聴かされる身にもなってほしい。思えば子供の頃から不景気で、自然と贅沢や浪費には興味が湧かなかった。枕詞のように「最近の子」とか一括りにされて、今通っている大学だって就職に役立つかも分からない。いいことなんて何ひとつない。何ひとつ。

「エミってそういうの好きだもんな」
 それは私の名前ではなかった。その名前で思い出すのは、私の通う大学の友人。二人で旅行に行ったりする親友だ。
 彼氏のタケシとのSNS中になんの脈絡もなく飛び込んできた文章。私はその文字を見つめたまま固まっていた。
 電子音と共に新たに吹き出しが出てくる。
「ごめん、エミちゃんとおまえの誕生日プレゼントのことでやり取りしててさ」
 横には送信された時間が表示されている。一つ前のメッセージから三分経っている。このメッセージを送信するのに三分も要するのだろうか。そして、私は三分もの間、呆然と携帯電話の画面に釘付けになっていたというのか。
「エミってそういうの好きだもんな」
 タケシの言う通り、私のプレゼント選びに私の親友であるエミを付き合わせて、そのお礼にランチをご馳走する。すると、エミが海沿いのパンケーキ屋を指定する。甘いものが苦手な彼は「そういうの好きだもんな」と皮肉を込める。そんなところだろう。頭をよぎる卑猥な想像なんて、きっと私の思い過ごしに違いない。

「ごめん、本当にごめん」
 翌日、大学帰りにカフェでお茶をしているときに、それとなく「タケシと連絡取っているの?」とエミに訊いた。あたかも興味本位で訊いたかのように、なぜか私の方が気を遣って。
 すると、それまで大笑いしていたはずのエミは急にうつむいてポロポロと涙をこぼした。
「彼のこと好きになっちゃったの。でもナツミとの関係が壊れちゃいそうで怖くて、ずっと言えなくて、本当に辛かった」
 涙する親友を前に、私の心は微塵も動かなかった。これまで多くの時間を過ごしていたはずの彼女のことがまったく理解できなくなっていたからだ。私の彼氏と浮気して、その私とこうして談笑していたなんて。少なくとも私には彼女が辛そうにしていたようにはまったく見えなかった。私が切りださなければ、このまま黙っていたのではないだろうか。
「もう会わないから許してくれる? 私達、これからも親友だよね?」
 とても理解できるわけない。目の前にいる理解不能な存在に、私は恐怖すら感じ始めていたのだから。
「そうだね」
 私はなんとか重い頰を持ち上げて笑顔を作った。それからしばらく「もう二度と会うこともないな」と思いながらエミの話に頷き、彼女の話のキリがよくなったところですかさず理由をつけて席を立った。そのあと、家への帰り道で携帯電話からタケシへメッセージを送った。
「エミから全部聞いたよ。別れよう。さようなら」

 朝、というよりももはや昼に近い時間。誰もいなくなった家のリビングに降りた。キッチンの冷蔵庫を開けて生卵を見つけ、フライパンを熱して油を敷く。フライパンの上で卵を割ろうとした瞬間、わずかな違和感に、卵は手の中からこぼれ落ちた。
 そのままフライパンに落ちた卵は黄身が崩れて広がっていく。それが熱によって固まっていく様が、なんだか酷くグロテスクに見えた。
 気がつくと頰に涙が伝っていた。卵を割る、こんなことすらうまくいかないなんて。
 泣くまいと堪えながらコンロを切る。すると、いよいよ耐えられなくなって声を上げてしまう。立っていることもままならなくなって、私は泣きながら崩れ落ちた。
 彼も彼女も大学で知り合った、所詮は一年ほどの関係でしかない。だから、彼氏に裏切られたことが悔しくて泣いているのではない。親友を失ったことが辛かったのでもない。
 酷い仕打ちをされた彼女に怒ることもできずに卑屈に笑ったり、別れを告げたメッセージを読んでるはずなのに、平気で返事も返さない彼の言葉をどこかで待ってしまっている。そんな自分自身が堪らなく惨めで情けなかった。

 なぜ入水自殺かというと、いかに人に迷惑をかけずに命を断てるのかと考えた結果だった。猫は天寿を全うするときに人知れず姿を隠すのだという。家族には悪いけど、それが今の私の理想だ。私もふっとこの世から姿を消したいところだが、現実的にそれは難しい。だから私は力が続く限り沖へと泳ぎ、力が尽きたところで沈んでしまうことに決めた。そのために海へ漕ぎだす。いいことなんて何ひとつないこの世界から自由になれる。
 とはいえ、もう少し綺麗な海がよかった。なぜ湘南かというと、ただ家から一番近い海だったからだ。海水浴シーズンも終わり、人なんかいないだろうと思って来たのに、海岸にはサーファーや犬を散歩させている人がちらほら。これではせっかく海に入ってもすぐに通報されてしまう。
 私は人がいなさそうな場所を探してとぼとぼと海沿いの歩道を歩いていた。

 すると、遠くに変わった光景が目に飛び込んできた。
 歩道上に植えられた街路樹をサッカーのユニフォームを着た小学生くらいの少年が見上げている。傍らにはエコバックを下げた中年の女性、その少年との微妙な距離感は他人であるのだと想像できた。
 さらに近づいてみると、街路樹の上に誰かがいる。遠目から見て三十代くらいの男性。何かに向かって必死に手を伸ばしている。
 どうやら、少年の持っていたボールが何かの拍子に街路樹の枝にかかり、木の上の男性がそれを取ってあげようとしているようだ。
「もうちょっとで取れるからな、待っとけよ」
 男性は微かに息を切らしながら、それを悟られまいと強がっている。きっと、少年が困っているのを見て、進んで助けに入ったのだろう。
 傍らの女性が少年の頭を撫でながら「車も走ってるんだから、道路でボール遊びしちゃダメよ」と優しく諭す。良い大人の規範となろうと無理をしているようだった。
「おっ、届いた。行きますよ」
 男性の手はようやくボールに触れる。下にいる女性も「どうぞ」と手を広げる。その脇を背広姿に眼鏡をかけたサラリーマンが興味にあり気に見送りながら通り過ぎた。
「それっ」
 男性の指がボールを押し出す。ゆっくりと落ちてくるサッカーボールを、顔に笑みを浮かべて待つ少年と女性。
「あっ」
 女性がサッカーボールを掴み損ない、そのまま落下したボールは女性の足の甲に当たり転がっていく。
 女性が気恥ずかしさに慌ててボールを追おうとすると、急に動かした足をつんのめらせて、大きく転びながらエコバックの中にあった無数のソフトボール大のオレンジを豪快にぶちまけた。
 女性と同時にボールを追い始めていた少年はその鮮やかなオレンジ色に目を奪われ、よそ見をしながら駆けた足の爪先でボール蹴り出してしまい、ボールは勢いを増して私の方へと向かってくる。ボールは勢いよく転がりながら軌道を変え、海岸へと続く階段へと向かっていった。
 そうはさせまいと、傍にいたサラリーマンが階段に差し掛かる前にボールを掴もうと手を伸ばす。すると、革靴での慣れない動きに足を踏み外し、階段を豪快に滑り落ちていった。
 ボールはサラリーマンをかわすかのように弧を描きながら階段を跳ねる。そして、最終段の角に当たると、大きく砂浜に向かって飛びだした。
 朝方の雨のせいで砂浜は湿って硬くなり、その上をボールは難なく転がり続ける。まるで生きているかのように。自由を求めるかのように。
「あー!」
 少年の叫び声を聞くと同時に、私は無意識に海岸へと駆け出していた。さして運動が得意なわけでもない私が必死に砂浜を走っている。息を荒げている。たかだかボール相手に中々距離を詰められないでいる。そのボールも何かから逃げるように執拗にひた走る。もうそこまでというところに海が迫ってくる。あと少し、あと少しなのに。
 ボールが自由を求めて海へジャンプする。私もそれと同時に前のめりに飛びついた。
 バシャンと海へ倒れ込むと同時に全身に冷気が駆け巡り、心臓を誰かに鷲掴みされたような感覚になる。耳が海水に覆われ、私の世界は水の音だけになった。
 ユニフォーム姿の少年と木の上男性、エコバッグの女性が駆け寄ってくる。遠くに腰を抑えながら近づいてくるサラリーマン。
「大丈夫?」
 女性が恐る恐る、身体を起こす私に訊いてくる。全身ずぶ濡れで、顔にはファンデーションに砂がついてひどい。きっとポケットの中の携帯電話も壊れてしまっている。こんな惨めな人間を見たら誰だってそう訊くほかない。
 しかし、私の手の中にはサッカーボール。確かにこの手に掴んでいる。
「おおー!」と意味不明な歓声と拍手が起こる。私は立ち上がり、そこにいるみんなに見守られながら少年にサッカーボールを返した。
「ありがとうございます」
 少年が申し訳なさと僅かな羨望を混じらせた瞳で私を見つめてくる。私は照れ臭さを隠すつもりで微笑んでみせる。
 しかし、この異常過ぎる状況に、勝手に笑いがこみ上げてくる。自分でも不思議なくらい可笑しくて、笑いが止まらない。少年もそれにつられて笑いだす。みんなもそれにつられて笑いだす。
「なあんだ、世界もそんなに捨てたもんじゃないじゃん」
 そんな風に思えた。
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