第1話

文字数 2,874文字

 人は、人の形を目にしただけで心穏やかでいられなくなるものだ。点を三つ並べただけで顔に見え、精巧な人形があればまったく動いていないにもかかわらず視線や心の存在まで感じてしまう。
 さて。今、自分の視線の先には一糸まとわぬ、等身大の裸の女の形をしたものが目を見開いて横たわっている。もうすぐ妹がこの工房を訪ねてくる予定だが、この光景を見たら「変態」などと言って罵倒し始めるのだろう。
 四時の時計の鐘が鳴った。もうじき来客を迎えるために作業を終えなければならない。人に会う約束を思い出して、目の前の人形が物体にしか見えず、特に覆うべき必要を感じない自分のおかしさについて思わざるを得なかった。
「『あー』と言って」
 少しの間のあとに「あー」と女のような高い声が聞こえる。口が縦に開いている。
「両手を開いて、閉じて」
 十本の指が広がって、畳まれる。
「両足を上げて」
 まっすぐに伸びた脚が持ち上がっていき、かかとが天井に向けられる。
「下ろして結構。休め」
 まぶたが閉じる。今日の作業でも発声器官や聞き取り、個々の関節の動きに問題は見られない。午後の進捗と確認事項を帳面に書き付ける。
 水晶玉から召使いの声が聞こえた。
「お見えになりました」
 手袋を机に置き、机上の水晶玉を掴んで応接間に降りていく。
「相変わらず辛気くさい。というか、抹香くさい」
 妹の、開口一番のあいさつがそれだった。
「よく来たな。で、どうしたかね」
「本当に生きてるか、確かめに来たの。母さんも心配するし」
 ずいぶん会っていない老親を引き合いに出されて、少し胸が痛んだ。
 召使いが茶を卓に置いて一礼し、応接間を出て行くのを妹は冷ややかな目で追った。
「あれも人形?」
「そうだ」
「人間に似すぎてて、薄気味悪い」
「そう言うな。珍しいものには金に糸目をつけない富裕層から注文がひっきりなしに舞い込むから、私も路頭に迷わずに済んでいる」
「その金持ちどもが、お人形を何に使うのか、わかったもんじゃない」
妹は軽い軽蔑の視線をこちらに投げかけている。
「何も、人形制作はよこしまな思いで行っているわけではない。金儲けというのは副産物であって、精巧な自働人形を作るには、精密な造形、複雑な機構、そして術の力が要る。主人の手を離れ、ある程度自律的に動き、受け答えをするまでには徹底した人間の観察と模倣も必要になる。世界と人間の理解こそが本義なのだ」
 そのように言葉を重ねながら、妹の理解を得られる内容ではないと内心思っていた。
「で、そのお人形作りはここじゃないとできないの?」
「そうだな。施主になるご大尽は都会に集まっているし、何より繁華な街でないと資材も文献も手に入らない」
「少しは時間を作って、たまには親の顔を見に帰ろうとは思わないの?」
「家に顔を出さないのは申し訳なく思っている。だが、注文がひっきりなしに舞い込んできて手が離せない」
 言い訳がましく聞こえるかもしれないが、それは本当のことだ。
「それに、私は若いころ無意味に生意気なことばかり周囲にがなり立てていた。多くの人間は年月が経っても遺恨を持ち続ける。戻って、街の衆をいらだたせるのは好ましくない」
 これもまた、本当のことだ。
「故郷を出て二十年、紆余曲折もあったが、心を穏やかに保ち、治めることが何より大事とわかってから、私の本当の人生が始まったのだ。学んだ知識を活かしてやっとここまで暮らしを安定できた。おたがい、感情に波風立てるのはよくない」
 妹はあきれたような表情を浮かべている。
「そりゃあご商売は順調のようで、いつも驚くほど仕送りをいただいて、感謝はしてます。けど、家族って、お金を送れば終わりって、そういうもんじゃないでしょう」
 そう言いたくなる感情は理解する。自分が人並みの親愛の情を家族にさえ示すことができないのをやましく感じてもいる。だが、実のところ、人間の相手をするのがおっくうなのだ。全ての人間に対して。
「その点、すまないと思っている」
「ああ、小さい頃からおかしな人だとは思っていたけれど、昔はこんなに不人情な人間じゃあなかった!」
「優しい反応だけが人情であればいいが、同じ人情が人を責めて傷つけもする。穏やかな性質だったらそのまま生きるのもいいかもしれないが、苛烈な人間は人情そのものを滅却するほか、よく生きるすべはない」
 この言葉もまた、わかってもらえそうにない。そう思いながら、つい言葉を続けてしまう。
「人間も動物であって、下等な動物もそうであるように、生存に都合のよいものを好み、邪魔なものを厭い、性質の合う同属同士で群れ、合わぬのをのけものにする。極端を言えば、動物に褒美と好きにさせたいもの、罰と嫌にさせたいものを同時に示すだけでこちらの思いどおりに好悪の反応を示すようになる。畜生は単純だと思うかもしれないが、人間だって同じようなものだ。こうした感情の反応が起こることは避けようがないが、自分と自分の感情を切り離して影響を最小限に留めることはできる。そのことを理解し、対処するようになったから今の私がある」
「それは、どうやってやったの?」
 私の言葉に反応して、妹の目の色が変わったような気がする。
「確かに、兄さんは昔と人が変わった」
「それは様々な書物を紐解いて、見つけた方法を片っ端から我が身で試していって見いだしていった。たとえば、心中で自分の感覚や動作を一瞬ごとに短い言葉で描写し続けて雑念を思い浮かぶ余地をなくす方法であったり。あと、一番有効だったのは、生薬を練り込んだ香をたきしめて、その香気を取り入れ続ける方法だ」
 それを聞いて、妹は動揺の色を見せた。
「その薬、まさか他人に使ってないでしょうね」
「なぜ、それを知っている!」
「最近、この街の金持ちの様子がおかしくなったって、噂になってる。すべてに無関心、無感動になって、仕事にも身が入らなくなったって。その金持ちの共通点が、兄さんに人形を注文して買っているってことに気がついて、うちまで言いに来た人がいる。もしかして、その薬を人形に仕込んで」
「それは、あくまで一時的な通過点での反応に過ぎない! 蓄財した者は他の人間に比べて感情にどこか激越な部分がある。それを和らげてやることは多くの人を助けることになる。これから、彼らは均整の取れた、円満な人格に近づいていくに違いないのだ」
 こちらの感情が高ぶって、つい、妹の言葉をさえぎってしまう。
「そんな御託はいいから、今すぐ金持ちどもを元に戻して!」
「あれは、人間の性質自体を徐々に変化させるものだから、元に戻すのは原則不可能だ。方法があったとしても、私は知らない」
 妹は頭を抱えたのち、ああと嘆いてからこちらをにらんだ。
「今日は警吏と一緒にここまで来たの。門で待ってるから、こうなったら、捕まって頂戴! 私たち家族に迷惑かけないで!」
 もはやこれまでかと手に持った水晶玉を床に打ちつけて割ったと同時に、薄暗い洞穴のなかにある身体に意識が戻った。今ごろ、遠く離れた工房で私の形をした人形が妹の前で崩れ落ちているだろう。
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