第1話

文字数 5,266文字

 窓の奥の真っ暗な夜空が、次の日の太陽に塗り替えられていくのをひとりで眺めていた。遠く蝉たちは叫び、残り短い命を溶かしている。アラームが鳴った頃にはほとんど空は青くなり、いつの間にか朝が始まっていた。
 
 僕はこの二日間の出来事をここに書き残してサッサと忘れたいと考えている。
 
 
 去年買ったシャツとスラックスに身を包み、洗面台の前に立つと鏡に僕が映っている。憂鬱そうな目、自嘲を含んだ口元、不健康な顔色。特に気に入らないのは逃げてばかりの内面だ。鏡には映っていないが。
 いくら顔を濯いでもそれら汚れは落ちることもなく、むしろ厭らしさに磨きがかかる。鏡中の自分と目が合うと苦いものがこみあげてきた。
 
 そんな強迫観念に悩まされていると二階の扉が開く音がした。階段を降りる振動が家に広がる。まず父が、次に母が、最後に弟がリビングに入っていった。三人はいつものようにテレビの前で笑いあっている。
 
 僕は静かに階段を上り自室に滑り込んだ。あらかじめ準備していた荷物に本を五、六冊投げ込む。
今日から二日間大阪に行くことになっているのだ。
 
 リビングの扉の前に立ち、彼らに聞こえるよう「行ってきます」と大声を出して、急いで家を出る。外は快晴、日差しに責められているような気がした。
 
 最寄り駅まで自転車で、その後電車に揺られて一時間。東京駅に着いた僕は新幹線用自動券売機の対面の壁で新幹線代を確認していた。
 高校生にとって新幹線代は驚くほど高い。お金の計算に慎重になるのも当然のことだろう。
 
 乗換案内アプリでシミュレーションをしていると、スマホをまたいで右から左、見知らぬ少女が券売機の前でふらふらしていた。
 迷子かな。そんなことを考えながら眺めていると、少女もまたこちらを向き、目が合ってしまった。
 目を背けるのも悪い気がして曖昧な笑みを送る。すると少女は僕のほうに近づいてきた。
 
 白いブラウスと裾に向かって広がった紺のスカート。ウエストにリボンがついていた。体の線は細く、肌の色も薄い。後ろ髪が首のところできれいにそろえられていたのを覚えている。
 
「すいません、あの、切符の買い方がよくわからなくて、それで、あの」
 そんなことか。
「窓口に行こう。こっちだよ」
 たしかに新幹線の自動券売機は少し難しい。時間はかかるが駅員さんに手伝ってもらったほうが確実だし安心だろう。
 
 僕は少女を連れて緑の窓口に並んだ。行き先と席を選ぶだけだと伝えたのだが、それでも緊張しているらしく、手をふわふわと浮かしていた。
 断られるだろうと思いながらも「一緒に買います?」と聞いてみたら「お願いします」との返事。
 
「どこまで行くの?」
「新大阪まで」
「自由席でもいい?」
「たぶん……」
 まず僕が手本として先に切符を買った。隣でそれで見ていた少女もつかえながらではあるが無事に買えた。
 
 窓口を抜けて少女は「やりきったぞ」という顔を僕に向ける。見ていて心配になったので「ホームまで一緒に行こうか?」と提案した。
 少女はそのことを忘れていたのか、「あっ」と口の空気をこぼした後、恥ずかしそうに「お願いします」と呟いた。
 
 だが順路に従えば着けないはずもない。一度反対側のホームに出てしまったが正しいホームに至れた。
「ごめんね、間違えちゃって」
「私こそ迷惑かけて申し訳ないです」
 少女を前に、僕はその後ろに並び、お互い赤べこのように上下に頭をシェイクして僕たちの縁は一度そこで切れた。
 
 知らない人って楽だよなあ、なんて考えながら僕は鞄から本を取り出すと、前から「あっ」と声が聞こえた。
 少女がこちらを向いていた。
 
「それ三島由紀夫の『文章読本』ですよね? 前に読んだんですよ!」
 この本をきっかけに僕たちの会話は膨らんだ。待ち時間が過ぎ、新幹線が入線しても、扉をくぐって座席を横切っても話はまとまらない。
「隣に座りましょう」
「……本当にいいのかい?」
 
 僕はあまり乗り気ではなかった。
 石橋をたたき壊して、それを材料に再び橋を作り出す直すほどの安全志向の僕は、隣に座っていると痴漢に間違えられるのではないかと恐れていたのだ。
 それに三島さんの華やかさには後ろめたい気持ちが湧いてくるのだ。僕なんかが近くにいていい人ではない。本能的にそう感じ取った。
 
「ほら、後ろの方の邪魔になっていますよ」
 振り向くとスーツを着た大人に睨みつけられた。僕の意思はそこで折れた。考えてみれば新幹線の中で痴漢は起きないと思う。
 
 なんだかんだで品川まで話し続け、一つ区切りがつくと自己紹介が始まった。
 少女の本名は残したくないのでここには書かない。名前は……三島由紀夫からとって三島さんとしよう。
 
「お兄さんの名前は?」
「……健二」
 開いていたページに翻訳者の高橋健二の名前を見つけたのだ。出かけた先でも本名で呼ばれることは好ましくない。悪いとは思いつつも名前をお借りした。
 
 三島さんは高校の文芸部で小説を執筆しているらしい。僕のほうも文芸部にこそ所属はしていないが小説を書いていたので二人はすぐに共通の趣味を持つ友人同士になれた。
 
「健二はどうして大阪まで?」
「あー、経験値を高める? もしかしたらいろんな形の価値観を学ぶことになるかも」
 彼女は苦笑いと共に尖った犬歯をちらりと見せた。
 本気でそう思っていたわけではない。ただ「本当の目的」を言えば暗い話になるだろうから、隠そうとしてどこかで聞いたようなことを言ってしまったのだ。
 
「観光とかするんですか?」
「川端康成文学館と司馬遼太郎記念館に行こうと」
 川端康成の本は学校で何冊か読んだことがあり、『伊豆の踊子』と『雪国』だけは所持していた。この二冊を本人の文学館に連れて行ってやろうと考えていたのだ。
 司馬遼太郎の本は読んだことがなかったが、歴史小説という未知のジャンルに好奇心をそそられる。また約六万冊の蔵書「大書架」も訪れてみたかった。
 
 三島さんのほうは祖父母の家にお盆まで泊まるらしい。家族は仕事があるので一人で行くことになったのだが、初めての一人旅で不安だったようだ。
 
 会話は自然と小説の話に移った。いろんなことを話しているうちに新作のプロットを創ることになり、物語をペンでつついて広げていくと、新大阪までの三時間はあっという間だった。
 
「……もっと書いていたいんですけどね」
「じゃあ、続けようよ」
「え? でも観光するんじゃ」
「それは明日の話。今日は暇なんだ」
 別に嘘をついているわけではない。当初の予定ではホテルのチェックイン時刻まで万博記念公園で時間をつぶそうとしていたが、別に興味があったわけでもない。三島さんと物語を書いているほうが楽しそうだと思った。
 
 そう伝えると三島さんは散歩前の犬の如く喜び狂って、祖母に少し家に着くのが遅くなると電話した。危機感が薄いような気もしたが、帰られてしまっても寂しいので黙っていた。
 
 
 とりあえず昼食にしようと駅内のたこ焼き屋に入った。
 僕は運ばれてきたたこ焼きを一つそのまま口の中に放り込んでやけどした。彼女はたこ焼きを割って、冷ましてから食べた。
「君は賢いんだな」
「健二がバカなんですよ。みんなこのくらいやっていますよ」
「……むむん」
 まん丸い生地のたこ焼きを割りばしで破ると中の湯気が歩みのぼる。誰かの魂が抜けるのを連想した。
 
 食後、少し散歩してから近くのカフェに向かう。三島さんはホットコーヒーを、僕はアイスティーを頼んだ。
 彼女がペンを動かしているのを見ていると、久しぶりに気が抜けたような気がして瞼が重たくなった。
 眠気と取っ組み合いをしつつ、プロットを進めていくこと数時間。近くの席にいた人々は顔を変え、空はオレンジ色に変色していた。
 
「もう帰ろうか」
「でももうちょっとなのに」
「暗くなったらおばあ様も心配なさるよ」
 三島さんは何度も頬を擦ってから「じゃあ、明日も会いましょう」と言った。
 僕は賛成した。
 
 ただ、今思えばこんな約束はするべきではなかったのかもしれない。
 
 三島さんは円滑な情報伝達のためにLINEの連絡先を交換することを求めた。しかし僕はLINEを本名で登録していたので躊躇った。僕は曖昧な関係が心地よかったのであって、僕個人のことを知られることは嫌だったのだ。たとえそれが名前だけだとしても、いずれそのほつれは傷口を広げることとなる。
 
 しかし携帯電話の番号だけ聞いたってLINEには表示される。だからといってアプリを消せるほどの太い神経は持ち合わせていない。僕も明日、三島さんに会いたいわけであるから、連絡先を交換しないわけにもいかない。
 だらだらと悩んでいるうちに僕はまるめ込まれてLINEを交換していた。
 
「あれ? 名前が違いますね」
「そっちが本名。できれば健二って呼んでほしい」
「でも仲良くなったのに偽名ってなんか変じゃないですか?」
「そうかな」
「そうですよ」
 人の秘密を暴けたからか、それとも僕の本名を知れたことを純粋に喜んでいるのか、三島さんは嬉しそうだった。
 
 僕は彼女を見送ってから予約していたビジネスホテルへと向かった。ベッドに入り、二人の都合をすり合わせて話し合った結果、川端康成文学館を諦め、司馬遼太郎記念館に行くこととなった。
 
 予定がたてられると明日の午前に控えた「本当の用事」が頭をよぎり、それ以上会話ができそうになかったので『もう寝ます。おやすみなさい』と送ってスマホの電源を切ってしまった。
 
 暗い部屋で目を閉じると頭の中に怒声が響く。仕方ないのでテレビをつけた。小さな音であったが、情報を流し続けて嫌なことを考えなくしてくれるのがいい。
 小説と同じだ。思考を一時的に覆ってくれる。僕が創作を好むのはこの一点によるのだろう。
 
 
 午後二時、「本来の目的」を終えた僕は河内小阪で三島さんが来るのを待っていた。
 僕は涙を堪えていた。誰かに慰めてほしい、心からそう思っていた。だから三島さんが角から出てきたときは抱きついてしまいそうになった。
 しかし事情を話せば楽しい旅も苦しいものになる。大阪に来た本当の理由もついぞ話すことはできなかった。
 
「本当にこんな道通っていいんですかね」
「うーん、普通の人は通らないだろうねえ」
 正しい道とはなんだろう。ただ広いか、狭いか、それだけじゃないのか。違うのかな。グーグルマップに振り回されて変な道を歩き続け、司馬遼太郎記念館にたどり着いた。
 
 まず最初に「司馬遼太郎の遺した言葉」の上演を見た。
『どうして日本人はこんなにばかになったのだろうというのが二十二歳の時の感想でした。昔は違ったろうと』
 
 司馬遼太郎の小説を書く理由ははっきりしているように思える。歴史の中から英雄を引っ張り出してそれを手本に良い生き方を説く。その辺の自己啓発本なんかよりよっぽどためになりそうな気がする。
 
「大書架」の展示室では本の重さを目で感じ取ることができた。軽薄な自分が恥ずかしくなる。もし「未来」という街角で司馬遼太郎に遭遇したら張り手をされて唾を吐かれるだろう。
 
 帰り道、僕は三島さんに「どうして小説を書いているの?」と尋ねた。
 ──その問いに対する答えは、日の出のような神聖さを持つとともに、闇夜の底を覗かせる不思議な輝きをしていた。光に照らされた僕は汚れが全身を広がっているのに気づいて、もう洗い流せないのだと悟った。
 
「××は何のために書くんですか?」と三島さん。
「……さて、なんのためかな」
 蝉の鳴き声だけが響く。
 
 
 駅に着いても三島さんなかなか乗車してくれなかった。何本も電車は去って行ったが、どうしても僕の物語を書く理由を聞きたかったらしい。
 
 僕は預かっていたプロットを三島さんに押し付けた。
「全部君が使えばいい」
「でも××さんのアイデアでもあるし」
「誠実な君が書いたほうが小説も良くなる。僕が書くと汚してしまうんだ」
 
 彼女は納得がいかないとに頭を傾げていた。
 次の電車が入線した。
「それって──」
「ただの現実逃避に過ぎないということだ。……さようなら三島さん」
 僕は閉まりかけた扉に滑り込んだ。三島さんは呆気にとられたようで、目をパチクリと瞬かせた。
 
 乗客は少なく、車両には数名しかいなかったので端の席に座る。
 鞄から小説を取り出して窓に投げた。乗客が僕を見て眉を顰める。次にLINE上の彼女の名前を消す。
 するとどうしていいのかわからなくなって、なぜかたまらなく寂しくなった。
 僕は床に落ちた小説を抱いて、泣いた。
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