第1話

文字数 1,832文字



 写真家だった父親が家にいることはほとんどなかった。

 国内に限らず仕事があれば海外にも行き世界中を飛び回っていたようだ。

 母親はきっと寂しい思いをしていたのだろう。

 リビングのソファーで体育座りをして泣きそうになっている母親の姿。

 なぜか大人になった今、子どもの頃に見たその寂しげな母親の顔を思い出す時がある。

「どうしたの? 敦士さん」

「ん、いや、なんでもない」

 千春と付き合って一年。

 旅行に行きたいねという話しになってやってきた雪国の温泉旅館。

 部屋の大きな窓から雪化粧をした森の木々を見た俺は父親に見せてもらった写真のことを思い出していた。

「綺麗ね。こんなに一面の銀世界を見るの初めて」

 千春はこの景色を喜んでくれているようだった。

「ちょっとオヤジの写真を思い出してさ」

「ああ、ご両親は今海外にいらっしゃるのよね?」

「うん」

 俺が大学生になると母親はすぐに父親の元へと旅立った。

 今二人は海外にいるとは聞いているが、どこの国で何をしているのかはさっぱりだ。

「こんな感じの雪の写真がいっぱいあってさ。子どもの頃に見せてもらった」

「素敵だわ。敦士さんはお父様の写真で世界中を旅していたのね」

 千春の言うとおりかもしれない。

 考えてみれば俺もここまでの雪景色を見るのは初めてのはずなのに、なぜかそういう感覚がないのは確かだ。

「敦士さんは、お父様みたいな写真家になろうとは思わなかったの?」

 千春は窓に貼りついて外を眺めたままでそう言った。

「そうだな……子どもの頃は警察官とか探偵になりたかったんだよな」

「ええ!? そうだったの?」

「うん。寂しそうだったおふくろのためにさ、いつまでたっても帰ってこないオヤジを俺が見つけてやろうって思ってたから。それに……」

「それに?」

 千春がやっと俺の方を見てくれた。

「雪の妖精って知ってる?」

「雪の妖精? 知らない」

「仕事とは別に、趣味でさ。オヤジ、冬になると北の方に雪の妖精を撮るからって言って出かけてたんだ」

 結局時間がなかったり天候に恵まれなかったりで雪の妖精は撮れなかったらしい。

 子どもだった俺は父親のかわりに自分が探してあげると父親に約束していた。

『もしも雪の妖精を見つけたら、シャッターチャンスを逃すなよ』

 あの頃の父親の言葉が俺の脳裏に焼き付いている。

「でも、本当にいるの? 雪の妖精」

「俺も高校生になった頃かな。調べてみて知ったんだけどさ、雪の妖精って鳥のことだったんだよな」

「鳥!?」

「そう。シマエナガっていう鳥」

「なぁんだ。私てっきりあの童話とかに出てくる妖精なのかと思っちゃった」

 そう言って無邪気に笑う千春。

「はは、だよな」

 その頃からだったか、父親みたいな写真家になるのもいいかもなと思うようになったのは。

 でもとりあえず大学を出て、一度は社会を見てみたいと思い就職した。

 そして出会ったのが千春だった。

 コンテストのための写真を撮りたくて街中でひと目で気に入った千春に声をかけた。

 理由を説明してこころよくモデルを引き受けてくれた千春と今ではこうやって付き合うことができている。

「オヤジみたいな写真家にはならないかな。今みたいに、趣味の範囲でやっていくよ」

 写真を撮るのは大好きだ。

 きっと父親の血を引き継いでいるのだろう。

 でも千春にあの頃の母親みたいに寂しい思いをさせたくないのも本心だ。

「もしも敦士さんが写真家になったら、私も一緒についていくから」

「……え?」

「だって、ひとりであちこち回るのってきっと寂しいはずよ。お父様も寂しかったんじゃないかな?」

「オヤジが?」

「うん。お母様にも敦士さんにも会えなくて」

「でも……おふくろは……」

 俺はあの母親の顔を思い返していた。

 父親が寂しかった?

 母親じゃなくて?

「お母様は寂しい思いをしているお父様のことを思うとつらかったと思う」

 千春に言われて考えてみれば、それもそうかもしれない。

 母親には俺がいたけど、父親は仕事以外は確かにひとりぼっちだったはず。

「だから敦士さんがそうなったら私もついていくから」

 そう言って俺を見上げて笑う千春を俺はとっさに抱きしめていた。

「千春……ありがとう」

「ちょ、どうしたの? 敦士さん」

 シャッターチャンスを逃すな。

 父親の言葉が俺の頭をよぎった。

 千春は俺にとっての雪の妖精だ。

 明るくて優しくて思いやりのある美しい妖精。

「千春……ずっとそばにいて」

 俺は千春を強く抱きしめたまま、頭の中でシャッターをきった。





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