第1話
文字数 2,048文字
「ほんわかする、お酒を下さい」
彼女は二杯目のグラスを空けると、一息ついてからそう僕に云った。
午前0時を跨ぎ、カウンターに座る誰かの時計がピリリと鳴る。
「ほんわか──」
僕が惚けた声を出すと、彼女はオウム返しに、ほんわかです──と云った。
「ほんわか……ほんわか……」
ほんわか、ほんわかと繰り返す僕達を、常連客のツナミさんが茶化す。
僕は、背後のバックバーに並んだお酒のボトルに目を巡らせる。ハードリカー、スピリッツ、リキュール、色とりどりのお酒達が、薄暗い店内の間接照明にキラキラと反射して、自分達をアピールしている。
僕は、顎に手を当てて「んー」と唸りながら彼女が今日飲んだお酒を思い出す。
一杯目はジントニック。ジンは、ボンベイ・サファイアでライムをしっかり効かせて。
二杯目はスコッチ。シングルモルトで余り癖の無い、しかし甘すぎない物。僕が選んだのは、スコットランドのキンタイア半島で作られるグレンスコシアの十五年。彼女はロックでゆっくりと味わった。
そして──、『ほんわか』である。
バーに勤めていると、色々な注文を受ける。『今日の私の雰囲気で』と、何処かのドラマでしか聞いた事無い様な注文には、初めは面食らったが、慣れれば笑顔で対応出来るようになる。
酸味のあるもの、スッキリしたもの、デザートみたいなもの、余り酔わなくて美味しいもの⋯⋯お客様の無茶振りは際限無いが、それはそれでチャレンジのし甲斐があって、面白かったりもする。
閑話休題。
『ほんわか』に思考を戻す。
心が『ほんわか』とする。
京都弁で言うところの『ほっこり』に近いのだろうか。
しかし、『ほっこり』も実は、本来の意味とは違う使い方が、世の中に浸透した言葉であったりする。単純に『心が暖まる』という感覚ではなく、本来はもう少し複雑なプロセスを踏むのであるが、其れは今、関係ないので忘れるとしよう。
体が『ほんわか』する。
寒い冬の夜、大晦日に訪れた初詣の境内で振舞われる、一杯の甘酒の様なものか。
芯まで冷え切った体に、甘酒の優しい甘味が染み渡り、其処にアクセントで加えられたひとつまみの土生姜が、口の中を引き締める。思わず「ほっ──」とため息が漏れてしまう、あの感覚だろうか。
僕の思考はぐるぐると回る。
違うのだ。
僕の中で『ほっこり』と言えば、森見登美彦氏なのである。京都を代表する作家の一人で、僕の好きな作家の一人でもあった。
「もりみんかー、あ⋯⋯」
と、僕は脳内で一瞬煌めいた光源を追いかけて、使用頻度の少ないボトルを纏めてある棚へ視界を巡らせ、そして一本の酒瓶をぐっと握りしめると、カウンターにそっと置いた。
琥珀色をした液体が、ボトルの中で揺れる。白いラベルには、昭和モダンなフォントで、『電気ブラン』と書かれていた。
東京は浅草の老舗バー『神田バー』のカクテル『電気ブラン』は、時代を超えて愛されるカクテルである。その門外不出のオリジナルレシピを元に作られた、リキュールとしての『電気ブラン』は、森見氏の描く作品の中で、登場人物達が美味そうに嗜む、ファンなら思わず試したくなる一品なのであった。
しかし、関西では元々馴染みの薄いお酒である為、時折こうして日の目を見る程度で、なかなか減らないボトルの一つになりがちであった。
僕は『電気ブラン』を一口味見すると、ウォッカ、ジン、そしてレモンを用意し、シェーカーに順番に入れていく。
そう、僕は『電気ブラン』を使ったシェークスタイルのマティーニを作ろうと、画策したのだ。
通称『ボンド・マティーニ』と呼ばれる其れは、映画『007』の劇中で使用され、世界中に拡がったカクテルである。
通常は『ドライベルモット』というお酒を使うのだけれど、僕は代わりに『電気ブラン』を加えた。
少し甘味が強くなったので、レモン果汁を数滴落とす。
シェーカーに氷を詰めて蓋をし、一呼吸置き集中力を高める。
シェーカーの中で氷が踊り、隙間をお酒が駆け抜ける。シェーカーの中で対流を作るようにイメージし、リズミカルにシェークを重ねる。
シャカ、シャカ、シャカ、シャカ──。
店内に氷の音が響く。
頃合いは突然やってくる。逃さない様に、僕は動きを止めると、予め氷で冷やしておいたカクテルグラスに、一気に流し込む。
薄い琥珀色をした液体が、グラスに注ぎ込まれた。最後にレモンピールをそっと絞り、コースターを滑らしながら、彼女の前にそっと置いた。
「ほんわかです」
「はい、ありがとうございます」
彼女は軽く微笑むと、琥珀色の液体を音もなく口に含み、ゆっくりと嚥下した。
「ほんわか⋯⋯しますか?」
僕の問いに彼女は、軽く首を傾げて「あまり⋯⋯」と云った。
これが僕と──、妻との馴れ初めだった。
あれ以来、僕は何度かチャレンジしたが、未だ彼女の好む『ほんわか』を作り出せていない。
僕の命題。其れは、彼女が初めて僕にした、あの注文をこなす事だ。
死が二人を別つまでに──。