あかないピアス
文字数 2,503文字
神さまから問題を出された。
いや、依頼といった方がいいかもしれない。
アダムとイブを見つけてほしい、と。
ここは楽園。いわゆる天国。
この場には、数百人という人間がいる。
けれど、なぜだろう、みんなおなじ顔をしているのだ。
見分けをつけることができない。
ならば身体的な特徴を利用すればいい。
アダムとイブとは、創造論における人類の始祖。
つまりすべての人間をあとにたどると、アダムとイブがご先祖さまになるとい主張だ。
ずいぶんとファンタジーな世界に足を踏み入れているのだけれど、
この探索は、論理で解決できる。
顔以外の特徴を利用すればいいのだから。
そう、すべてのはじまりだとしたら、アレがないはずなのだ。
身体的特徴とはつまり「へそ」だ。
へそとは、腹部のまんなかにある小さなへこみのこと。それを知らない人はいないはずだ。けれど、その存在理由を知らない人もなかにはいるのではないか。へそは、胎児が母体にいる際に、栄養や酸素を受け取るために必要なくだの残り。いわゆるへその緒をちょんぎった痕跡だ。
へその存在とはつまり、母親が存在するという証明でもある。
アダムとイブは、人類の起源とされており、その誕生は神の手によるもの。つまり母親と父親を持たない唯一の人間ということになる。だとすれば、へそがないはずだ。なぜなら、アダムとイブが胎児であったことはないはずなのだから。
こうして私はへそのない人物を探し出し、依頼人である神に突き出した。
ところで、へそのあるなし問題については、ギリシア語でへそという意味の「オムファロス」と題してフィリップ・ヘンリー・ゴスという自然学者がたてた仮説に由来している。彼の主張は論理的に完璧であるとして、マーティン・ガードナーやバートランド・ラッセルといった数学者たちに影響を与えた。けれども、世の中一般には、ほとんど受け入れられることもなく、相手にさえしてもらえなかったという。実際、確認するすべがなく、宗教画の多くにはへそが描かれている。人の認知は、事実がどうであったかよりも、自分の目で見たもの、体験したものが正しいと判断する傾向がある。つまり、正しいから描かれていると証明する手段がなくとも、描かれているから正しいと考えるのだ。
依頼人からの報酬は、神の力。
これで私は手に入れたのだ。世界を支配する力を。
そう思った。すると、何者かに腕をつかまれる。
私の眼前に広がる世界は崩壊した。天国も楽園も、へそがないアダムとイブも。取って代わったその世界は、薄暗いステージ。ライブハウスのようなところだった。そうだ、私は 夢中になりすぎていた。
◆ ◆ ◆
あまり熱狂的になりすぎる客がいてこまる。
ぼくはVRゲームのお試し会スタッフをしている。
内情を知らない人からするとライブハウスというのは、音楽を演奏するだけの場所という印象を持ちがちだ。たしかに月の大半は有名ミュージシャンたちの音で満たされるのだが、そのうちの二割か一割ほどは、ダンスや映像などのイベントが行われている。うちのようなキャパが千人程度の中規模ライブハウスでよくあることだ。あぁ、"キャパ"というのは収容人数のことで、「キャパシティ」の略語だよ。ちなみにバンドのアルバムリリースなんかを知らせるチラシのことを「フライヤー」、ステージ上のマイクスタンドやドラムセットの位置をメモするためにガムテープを貼るのだが、それを「バミる」という。ちょっとかわった専門用語が飛び交う職場だ。
ついでに言っておくと、あいさつはもちろん「おはようございます」だ。夜とか昼とか、そんなことは関係ない。
こんなふうに、ぼくはお客さんのことを眺めながら、頭のなかで常に独り言をつぶやいている。興味のないイベントやバンドの演奏を目の前にすると、誰だってそうなってくると思うんだ。
それにしても今回のイベントはひどいな。VRゲームというらしいけれど、ゴーグルをつけた人間がちまちまと動いているだけだ。体験しているゲームの映像が、スクリーンを通して待機中の人と共有されている。ぼくがスタッフを担当するこのゲームは天国でアダムとイブを探すとかいうものらしいけれど、疑似天国なのだろうか。VRはVirtual Reality、つまり仮想現実のことだけど、そのうち人類は宇宙旅行もVRでできるんじゃないか。旅行でも美術館でも、実際に目にすればそれはいいのかもしれないけれど、こうして実体験したと勘違いするだけでも満足できる人は多いはずなんだ。実際に足を踏み入れたかどうかなんて、どうでもいい。そう、このゲームだって、自分は天国にいるんだという"つもり"を体験できることが、彼らにとって価値なのかもしれない。けれど、ぼくにいたっては、そんな空想的な世界よりも、今日の時給がいくらになるかな、貯めたお金でどの女の子と遊びに行こうかななんてことを考えてしまう。まぁそれも、仮想の現実、つまり実際には存在しないことに思いを巡らせる遊びなのだけれど。
きっとVRもこんな空想で、妄想な暇つぶしの産物なのかもしれない。
◆ ◆ ◆
今でこそ、バーチャル・リアリティーはゲームや空間映像として認知されているが、その起源は二十世紀初頭にまでさかのぼる。一説によると、あるSFの短編小説に、装着することで架空の世界を体験できるゴーグルが登場したという。
人間の想像力がやがて形となって、現実になる。人類の発展とは実に興味深い。
それにしても、アダムとイブがパンクな性格にならなくて助かった。へそにピアスがあけられないとせがまれたらこまるからな。いや、もとよりへそなんて、あったかどうか。もはや確認することもできないのだが。
人は神さまと形を与える。しかしその人類でさえ、神という存在の形があやふやなのだ。なかなかどうして、自分がつくったものを詳細に覚えていないことだってあるだろうに。
私がそうであるように……。
いや、依頼といった方がいいかもしれない。
アダムとイブを見つけてほしい、と。
ここは楽園。いわゆる天国。
この場には、数百人という人間がいる。
けれど、なぜだろう、みんなおなじ顔をしているのだ。
見分けをつけることができない。
ならば身体的な特徴を利用すればいい。
アダムとイブとは、創造論における人類の始祖。
つまりすべての人間をあとにたどると、アダムとイブがご先祖さまになるとい主張だ。
ずいぶんとファンタジーな世界に足を踏み入れているのだけれど、
この探索は、論理で解決できる。
顔以外の特徴を利用すればいいのだから。
そう、すべてのはじまりだとしたら、アレがないはずなのだ。
身体的特徴とはつまり「へそ」だ。
へそとは、腹部のまんなかにある小さなへこみのこと。それを知らない人はいないはずだ。けれど、その存在理由を知らない人もなかにはいるのではないか。へそは、胎児が母体にいる際に、栄養や酸素を受け取るために必要なくだの残り。いわゆるへその緒をちょんぎった痕跡だ。
へその存在とはつまり、母親が存在するという証明でもある。
アダムとイブは、人類の起源とされており、その誕生は神の手によるもの。つまり母親と父親を持たない唯一の人間ということになる。だとすれば、へそがないはずだ。なぜなら、アダムとイブが胎児であったことはないはずなのだから。
こうして私はへそのない人物を探し出し、依頼人である神に突き出した。
ところで、へそのあるなし問題については、ギリシア語でへそという意味の「オムファロス」と題してフィリップ・ヘンリー・ゴスという自然学者がたてた仮説に由来している。彼の主張は論理的に完璧であるとして、マーティン・ガードナーやバートランド・ラッセルといった数学者たちに影響を与えた。けれども、世の中一般には、ほとんど受け入れられることもなく、相手にさえしてもらえなかったという。実際、確認するすべがなく、宗教画の多くにはへそが描かれている。人の認知は、事実がどうであったかよりも、自分の目で見たもの、体験したものが正しいと判断する傾向がある。つまり、正しいから描かれていると証明する手段がなくとも、描かれているから正しいと考えるのだ。
依頼人からの報酬は、神の力。
これで私は手に入れたのだ。世界を支配する力を。
そう思った。すると、何者かに腕をつかまれる。
私の眼前に広がる世界は崩壊した。天国も楽園も、へそがないアダムとイブも。取って代わったその世界は、薄暗いステージ。ライブハウスのようなところだった。そうだ、私は 夢中になりすぎていた。
◆ ◆ ◆
あまり熱狂的になりすぎる客がいてこまる。
ぼくはVRゲームのお試し会スタッフをしている。
内情を知らない人からするとライブハウスというのは、音楽を演奏するだけの場所という印象を持ちがちだ。たしかに月の大半は有名ミュージシャンたちの音で満たされるのだが、そのうちの二割か一割ほどは、ダンスや映像などのイベントが行われている。うちのようなキャパが千人程度の中規模ライブハウスでよくあることだ。あぁ、"キャパ"というのは収容人数のことで、「キャパシティ」の略語だよ。ちなみにバンドのアルバムリリースなんかを知らせるチラシのことを「フライヤー」、ステージ上のマイクスタンドやドラムセットの位置をメモするためにガムテープを貼るのだが、それを「バミる」という。ちょっとかわった専門用語が飛び交う職場だ。
ついでに言っておくと、あいさつはもちろん「おはようございます」だ。夜とか昼とか、そんなことは関係ない。
こんなふうに、ぼくはお客さんのことを眺めながら、頭のなかで常に独り言をつぶやいている。興味のないイベントやバンドの演奏を目の前にすると、誰だってそうなってくると思うんだ。
それにしても今回のイベントはひどいな。VRゲームというらしいけれど、ゴーグルをつけた人間がちまちまと動いているだけだ。体験しているゲームの映像が、スクリーンを通して待機中の人と共有されている。ぼくがスタッフを担当するこのゲームは天国でアダムとイブを探すとかいうものらしいけれど、疑似天国なのだろうか。VRはVirtual Reality、つまり仮想現実のことだけど、そのうち人類は宇宙旅行もVRでできるんじゃないか。旅行でも美術館でも、実際に目にすればそれはいいのかもしれないけれど、こうして実体験したと勘違いするだけでも満足できる人は多いはずなんだ。実際に足を踏み入れたかどうかなんて、どうでもいい。そう、このゲームだって、自分は天国にいるんだという"つもり"を体験できることが、彼らにとって価値なのかもしれない。けれど、ぼくにいたっては、そんな空想的な世界よりも、今日の時給がいくらになるかな、貯めたお金でどの女の子と遊びに行こうかななんてことを考えてしまう。まぁそれも、仮想の現実、つまり実際には存在しないことに思いを巡らせる遊びなのだけれど。
きっとVRもこんな空想で、妄想な暇つぶしの産物なのかもしれない。
◆ ◆ ◆
今でこそ、バーチャル・リアリティーはゲームや空間映像として認知されているが、その起源は二十世紀初頭にまでさかのぼる。一説によると、あるSFの短編小説に、装着することで架空の世界を体験できるゴーグルが登場したという。
人間の想像力がやがて形となって、現実になる。人類の発展とは実に興味深い。
それにしても、アダムとイブがパンクな性格にならなくて助かった。へそにピアスがあけられないとせがまれたらこまるからな。いや、もとよりへそなんて、あったかどうか。もはや確認することもできないのだが。
人は神さまと形を与える。しかしその人類でさえ、神という存在の形があやふやなのだ。なかなかどうして、自分がつくったものを詳細に覚えていないことだってあるだろうに。
私がそうであるように……。