吸血鬼の花嫁

文字数 3,790文字

 険しい山道を進んだ奥に、薔薇の庭に囲まれたその古城はあった。侵入者を拒むようなトゲと、歓迎するような甘い香り。数百年前に主人を失った城を抱くように、薔薇は枝を伸ばして優美な花を咲かせている。
「僕達にふさわしい城だね」
 エドガーとアランは群生する薔薇の枝をすり抜けて、城の重い扉を開けた。
 ギギギィと扉が軋んで、陽の光が真っ直ぐに建物の奥を照らした。赤い絨毯が敷かれた部屋の真ん中に、黒い衣服をまとった銀髪の青年が立っていた。陽に照らされているのに、青年の足元には影がない。
「久しぶりだね、エドガー、アラン。今日は遠いところをありがとう」
「六十年ぶりか、いや、もっとかな。会えて嬉しいよ、アルカード」
 金髪の巻き毛を指先でくるりとひねりながら、エドガーは微笑んだ。さらりとした長髪のアランはが隣で笑っている。二人は少年のような見た目だが、年齢は二百歳を超えていた。いや、永遠の時間を生きる吸血鬼に年齢などないに等しい。
「僕達の一族に仲間が増えるなんて、何年ぶりだろうね」
 嬉しそうに振り向くアランに、エドガーは無言で頷いた。

「着いて早々で済まないが、婚姻の儀式を始めていいかな」
 待ちかねた様子でアルカードが二人に尋ねた。
「もちろん。そのために来たんだから」
 エドガーはウインクした。
 吸血鬼は人間を咬んで血を吸うことで、その人を吸血鬼にする。エドガーは大老に、アランはエドガーに血を吸われて、吸血鬼の一族に加わった。
 そして今日、アルカードの牙によって新たな仲間が誕生するのだ。
「入っておいで」
 アルカードのかけ声で建物の奥の扉が静かに開き、純白のウエディングドレスを着た黒髪の女性が現れた。艶やかな赤い唇に、水晶のような大きな瞳。マーメイドラインのドレスを着こなすメリハリのある体と、肩から伸びるしなやかな腕。
 エドガーとアランはその美しさに息を呑んだ。
「紹介するよ。俺の花嫁、ヘイランだ」
 ヘイランと紹介された女性が膝を軽く曲げて、ドレスの裾をつまんで会釈した。ドレスから薔薇の甘い香りが周囲に広がった。
「いい匂いだね、エドガー」
 アランがエドガーの脇を肘でつついた。
「うん、本当に」
 頷きながら、エドガーは心に引かかりを感じていた。理由はわからないが、何となく落ち着かない。
 薔薇の刺繍が施された長いトレーンを引きずって、ヘイランが三人の方へと静かに歩を進めた。長い影がヘイランの足元から部屋の奥へと伸びる。
 ヘイランが近づいて来ると、薔薇の香りがいっそう強くなった。本物の薔薇の花から抽出して生成された香水のようだ。
 違和感の理由はこれだ。エドガーは思った。
 どうしてこんなに薔薇の香りをさせているんだ? さらに気になるのは、薔薇の香りの奥に異なる匂いが微かに混じっていることだ。
 嗅覚の鋭いエドガーだけが、そのことに気づいていた。

 エドガーとアランが見守る中、ヘイランがアルカードの前に歩み寄った。上目遣いでアルカードをじっと見つめる。
 アルカードは口元をほころばせて、愛おしげな視線をヘイランに返した。
「今から君は俺達一族の仲間となり、永遠の命を得るんだ。時空を超えて、俺達は人間の過去から未来を見届ける」
 アルカードがヘイランの肩に手をかけた。ヘイランが長いまつ毛をふせて、頭をそっと傾ける。ヘイランの首筋に青い血管が淡く透けて見えた。
 何かがおかしい。
 エドガーは胸騒ぎがした。胸に手をやって目を閉じて、己の嗅覚に意識を集中した。
 アルカードがカッと目を見開いた。白目がみるみる血走っていく。口を大きく開くと、上唇の下に二本の鋭い牙が覗いた。これをヘイランの首筋に突き立てて血を吸えば、彼女は吸血鬼になる。
 アルカードが牙の先をヘイランの白い首に押し当てた。彼女の唇から「あ……」と吐息のような声が漏れた。
 その時だった。
「やめろ! アルカード!」
 エドガーが目を開けて大声で叫んだ。
 エドガーは気づいたのだ。ヘイランの薔薇の香りの奥の正体に。
 しかしアルカードは止まらなかった。牙を首筋に突き刺すと、ヘイランの赤い血を勢いよく吸った。

「ぐはぁ!」
 体をのけ反らせて首から牙を抜き、アルカードは自分の口を押さえてしゃがみ込んだ。
「ぐげぇ……」
 アルカードは赤い絨毯の上に倒れ込むと、ビクビクと手足を痙攣させた。
 驚きで言葉を失うアランの横で、エドガーがヘイランを睨みつけた。
「あら、坊やにはわかったのね」
 ヘイランが悪戯な目をエドガーに向けた。
「私の血には飽和濃度いっぱいのサロチルトキシンが流れているの。あなた達が嫌いなニンニクの毒素よ」
 やはりそうだったのか。エドガーは歯ぎしりをした。
「薔薇の香りで誤魔化していたのに、さすが大老の血を引く坊やだわ」
 ヘイランが愉快そうに笑うと、拳を握ったアランがエドガーの隣から飛び出した。
「この野郎!」
「行くな! アラン!」
 ヘイランに殴りかかろうとアランが右腕を伸ばした時、ヘイランはウエディングドレスの胸元からキラリと光る物を取り出して、アランに向かって素早く投げた。ヘイランが放ったのは銀のナイフだった。ドスっと鈍い音を立てて、ナイフがアランの胸に突き刺さった。
「う、うああ!」
「アラン!」
 エドガーの目の前でアランの体がさらさらと灰になり、ふわりと舞って消えた。

「エドガー、次はあなたの番よ」
 ヘイランは腰を落として身構えて、ドレスの内側でヒールを強く床に打ち付けた。カチンと音がして、ヒールに銀のナイフが飛び出した。
(姿は少年でも吸血鬼。力勝負になると分が悪いわ)
 ヘイランは右手をドレスの胸元に入れて、二本目の銀のナイフ握った。飛びかかってくるエドガーを、右手か靴のナイフで突き刺すつもりだ。
 いつ来るか。
 ヘイランの胸で心臓がドキンドキンと激しく打った。首筋に浮かんだ汗が球になり、白い胸元にしたたり落ちる。
(この感覚がたまらないわ。これこそが私の生きてる証)
 ヘイランの口元がほころんだ。殺るか殺られるかのスリルこそが快感だ。
「来なさい、坊や」
 ヘイランは濡れた唇でエドガーを呼んだ。

 エドガーが動いた。
 来るか!
 ヘイランは身構えた。
 しかしエドガーの動いた先はヘイランではなく、外へと向かう扉だった。
 逃すものか。
 ヘイランは追いかけようと駆けだした。だがヒールで長いトレーンを踏んでしまい、危うく転びそうになった。
 すぐに体勢を立て直して、ヘイランはエドガーが出て行った扉へと走った。

 薄暗い建物から出た先は、一面の薔薇の庭。赤、ピンク、白と咲き乱れ、むせ返るような甘い香りが鼻をつく。
 ヘイランは洪水のように咲く薔薇を見渡した。この薔薇のどこかにエドガーはいるはずだ。しかし少年の姿は見当たらない。ヘイランはじっと目を凝らした。
「うふふふ、見つけてごらん」
 不意にエドガーの声が聞こえた。左からだと振り向くと
「こっちこっち、見つけごらん」
 今度は右から声がした。
 惑わそうとしている。目で探してはいけない。心で探すのだ。
 ヘイランは目を閉じて意識を集中し、エドガーの気配を読みとろうとした。
 いる。この庭のどこかに必ずいる。
 エドガーの気配をわずかに感じた。しかし場所まではわからない。ヘイランはさらに気持ちを集中した。
「誰が殺したクックロビン……」
 エドガーの歌声が頭の中で響いた。耳を通してではなく、頭の中に直接入ってきた。
 どこにいるの、エドガー。
 鼻をつく薔薇の香りが急に強くなって、エドガーの気配がプツリと消えた。ハッとして目を開けたヘイランの前に、一輪の真っ赤な薔薇が咲いていた。
 トゲに気をつけながら、ヘイランは赤い薔薇を手折った。すると薔薇の花弁はさらさらと灰になって、手からこぼれ落ちた。
 しくじった。エドガーは時空を超えて逃げてしまった。
 ヘイランは手の平の灰を見つめてそう思った。

 建物の中へと戻ると、赤い絨毯の上にアルカードが横たわっていた。目を閉じたままで意識がない。ヘイランはアルカードの口元に耳を近づけた。まだ微かに息をしていた。
 ヘイランは自分の柔らかな唇をアルカードの唇に重ねた。
(婚礼の儀式はこれで終わりよ。あなた、嫌いじゃなかったわ)
 口づけながら、アルカードの胸に銀のナイフを深く突き刺した。アルカードの体が灰になって消えた。

 ヘイランは立ち上がり、ウエディングドレスを脱ぎ捨てた。白いドレスの下から、体に密着した黒い戦闘スーツが現れた。暗殺者ヘイランのユニフォームだ。
 今回の任務はエドガー、アラン、アルカードの三人の吸血鬼の暗殺だった。アルカードを囮にしてエドガーとアランを誘き出したところまでは計画通りだったが、勝負どころでトレーンを踏むミスをしてしまい、一番の大物のエドガーを逃してしまった。
(花嫁衣装を着てみたいなんて思ったのが失敗だったわ)
 ヘイランは絨毯の上の純白のウエディングドレスを見た。長いトレーンに施された薔薇の刺繍が美しい。
(でも楽しんだから、まあいいか!)
 形のよい唇に笑みを浮かべて、ヘイランは城を後にした。
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登場人物紹介

ヘイラン:美貌の女暗殺者

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