08-04 不詳 脱カテゴリー解釈
文字数 1,823文字
家に帰り灯りをつけるとカーテン越しに庭の土がぼうと明らんだ。
僕は気づくとその庭の明らんだ土の方から部屋の中を見ていた。
足の裏に感じる土のざらざら冷たい感触が僕が外にいる証明であった。そして、僕は上着を脱いで面倒くさそうにベッドの上へと放り投げた。それは庭からは見えなかった。だから、僕は物足りなくて、庭の椿の固い葉を親指と人差し指で摘まんで撫でた。裏と表の手触りは違って、親指と人差し指にはその感触があべこべに入れ替わりに感じられた。
喉が渇いたので冷蔵庫を開けた。なんにもなくて、水道の蛇口を押した。いつものカップに水をいれた。今日は塩素のにおいがよくわかった。飲むと土の味がした。
僕は危険を感じて、こんな月の夜には銀狐になればいいと思った。それで姿も消えてしまえば、部屋も庭もまたひとつになるとわかっていた。
浅い流れが玉石のうえを嬉々として流れていた。水の色は巧みであった。朝の光りが方々に遊んでいた。草の緑が若かった。
僕は小さな虫になって、流れを滑り降りたいような気がした。
水に手で触れた。指先は石や土の感触と舞い上がる水中の砂煙の粒子まで捉えた。そして、それは流れてまた静寂となった。
静寂とはなにもないことではない。普段の流れに準ずる通りそのままにあることのようだ。
水から手を引いた。手に残る水の跡に風が当たった。風は纏いつくように渦巻いて、そして過ぎていった。
ここにも流れがあったかと、はっと吸い込まれた。
しかし、それも乾いてまた元に戻った。
愉快。そうだ、愉快だった。
僕らはすぐに、方法としての外部を利用してしまう。
本当の共通項は、ジャンルとして分けられないものを分けられたかのように振る舞って、それからそれらを集めて、集めたことでそれらが混ぜられたかのように勘違いするというやり方だ。
その勘違いに無自覚でいるという方法だ。
それが出来る人間ばかりが集まったときに、その方法が正しいかのように思えるだけなのだ。
俺は気づくといつかの記憶で考えていた。
頭の中で音楽が鳴ると思い出す女がいる。
そういう記憶で考えることがある。
自明性の解体は確かに解体自体の連続になるかもしれないが、一方で自明を強化することにもなる。解体だけが繰り返されるのでも、解体が解体だけを生むのでもない。
解体にはどうしても解体する構造が必要だからだ。そちらの方へも光りを当てないのならばご都合主義になるだろう。
言葉で定位させて、それを理解したかのようにカテゴリー的に解釈している人間ばかりだ。
人間はカテゴリー的に分けることで概念を図式的に空間性のようなもので把握するけれども、そう把握することには実際には長大な飛躍がある。
また、カテゴリーは階層的ではなくて、そのカテゴリーの隣人との一回性の相対関係によって形成されている。二つ飛びや三つ飛び先のカテゴリーとの相対的関係は予測できないかシャッフルされている。
そういうことを受け入れないで、階層的に考えることで安定を得て、その偽りの安定の元に思考するという方法論を採用することで答えが出てしまう。
そのこと自体が問題だけれども、それに気付かないでいる方が幸せなのだろう。
そうなのだ。これに気づかないことが幸せで、気づくことが苦しみである場合がある。
そうだとしたら、どちらがいいのだろうか。
いや違う、このように分けることもまたやはり病なのだ。
この世界が可能世界に分裂しているのは、巫女神の自己回避かもしれない。
俺は本当の目を開けて、世界を見つめた。
世界は燃えていた。
本当の世界は白い炎で燃え続けていたのだ。
それに誰もが気づかないだけなのだ。
僕も気づかなかったものの一人だ。
十二可能世界なのではなくて、同じ世界に住んで、お互いが見えないというだけなのではないか。
多重化している不可視世界というだけなのではないか。
何千年も離れた生活も同時にある。
見えないのに、互いにそれぞれ影響を及ぼして、ある時には見えている。
感じようとしないだけだ。
空に上がった月はいかにも平安の月という気がした。
村雲に出たり隠れたりして遊んでいる。
雲の裏が銀に光って面を陰らせたように表情が見えた。
月が高く上がった。風が静かになった。
目を閉じると瞼の裏に白い炎が浮いていた。
それで目を洗った。
目の端から涙というより水が出た。
俺は世界をどう扱うかをもう一度考えていた。