第1話

文字数 1,980文字

 その知らせは、冬のはじまる少し前に届いた。
「ねえ、ねえ、秋乃ったら! 竜さん、死んだみたいだよ」
瞽女仲間のツルが、納屋に飛び込んでくる。狭くて臭いわら小屋に腰かけた秋乃の隣に、すべりこんできた。ツルの首筋から、男の汗のにおいがする。
「いまの男から聞いたんだけどね、竜さん、長州か薩摩に殺されたって。いや、新選組かもとも言ってたけど……もう、此処に来ないんだよ!」
坂本龍馬の死の知らせも、ツルが同衾した男からもたらされたものだ。三味線をもって村をまわり、昔の歌をうたうお瞽女が、体をひさぐことは周知の事実だ。
「へえ。そりゃあ、大変だ」
 秋乃は、三味線を調律しながら気だるげに告げる。
「へえ、ってあんた。いい仲だったじゃないか」
「所詮三年だけだよ。あたしが好いたって、迷惑なだけさ」
「でも、奥さんのおりょうとかいうのだって、そんなに長くないよ」
「お偉いお医者様の娘と、あたしらお瞽女は違うよ。静かにしてなきゃ、世間様に石打たれちまう」
 つぶれた両目で、秋乃は、ツルが悲しそうに俯くのを確かにみた。
「竜さんは、ぶたなかっただろ」
「竜さんはね。そのお仲間は違う。歌ってるだけで恵んでもらえるんだから、いい立場だなんて言いやがってさ……」
 ツルがため息をつく。体をひさがなければ宿も飯も貰えぬのに、わざわざ男からの誘いを断って急な知らせを伝えに来たのだ。だが、その知らせた相手が無関心となれば、腹が立つのも仕方ない。
「じゃあ、いいけどねぇ。顔は言葉についてってないよ。秋乃がそのお綺麗な顔で悲しそうにするとね、うちの客もそわそわし始めるんだ」
「あたしのせいじゃないよ」
「龍馬さんだってその一人じゃないか。男ってのは、悲し気な女が好きだと相場が決まってる」
「まさか。大体、ツルは、あたしと違って片目は見えてるだろ。少しくらいこっちに男を融通してくれてもいいじゃないか」
「片目のあるなしで男を融通してもらえるなら、あたしはいくらだって目をつぶすよ」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ!」
「あたしは本気さ」
売り言葉に買い言葉で、秋乃はツルが憎々しくなった。秋乃の目がつぶれたのは、齢七つ。崖から足を踏み外し、全身を強かに打ったのだ。おかげで、今も片足は動かない。足をひきずった盲目の女など、男どもの標的になるのは分かり切った話だ。
それゆえ、片目だけでもみえるツルと組んで村々をまわっているが、いさかいは絶えない。二人とも学はなく、日暮らしばかりで銭もない。つまり、心に余裕がないのだ。
「龍馬さんは、いい人だったよね」
 おもわず、本心が口をついて出る。
ーーこれが、ぴすとぉるだ。未来をひらく鍵のようなもんぜよ。
ーーそりゃ、お前も抱くさ。抱くが、お前がいやなら、もちろん、せん。
ーー眼がみえんのは、お前のせいじゃない。目が見えん、足が動かん、それだけで人扱いされんなんて、昔の話にせんといけん。
夢のように美しい言葉を、美しい物語を、龍馬は語り続けた。龍馬の潜伏生活をたすけながら、秋乃は、かりそめの夢が終わるのを恐れた。彼が寝所の隣で語っている間は、その美しい夢を本当に信じられる気がしたのだ。
その龍馬が死んだのだ。秋乃と龍馬のことを知るひとは、他にはいない。歴史にのこる妻もあれば、歴史にのこらぬ社会の底辺あるのだ。
「……ねえ、秋乃。また、桜、見に行こうよ。南に行けば、そろそろ咲き始めるよ」
ツルが、ふさぎこんだ秋乃を心配するように、身を乗り出した。
「見えないっていってんだろ」
「あたしが、手をひくよ。顔に桜かけてやる。そしたら、見えなくっても花見ができんだろ。ね」
 秋乃はこういう時、急なご機嫌伺いに笑えばいいのか、手のひら返しに怒ればいいのか、いつも分からない。けれど、ツルの、無邪気な怒り、無邪気な嫉妬が、秋乃をたすけることは多いにある。平和なツルの声をきいて、思わず、秋乃の口から心音が漏れた。
「本当はあの人に迎えに来てもらえるかもって思ったこともあったんだよ」
「なんだって?」
「龍馬さんがね。あたしらみたいのも助けてくれるかもって思ったんだ。でも、だめだねぇ。いい人は、みんな早くに死ぬ」
秋乃はひとつため息をついて立ち上がる。三味線が、璃々と鳴いた。
「桜見させてくれんなら、団子の一つもあったほうがいいだろ。ひとつ歌でも歌って、米粉を貰って来よう」
「いいじゃないか。そうだよ、泣いたって怒ったって明日は来ちまうんだ。あたしらみたいなのは、とにかく笑っていきなきゃ嘘だよ」
 秋乃も、ツルに手を引かれて立ち上がる。風に、十二月の気配が匂った。龍馬が逝き、世間はもっと荒れるだろう。戦まで起きれば、盲目の女などひとたまりもない。だからそれまで、今すこし、甘えていよう。一晩の納屋を貸してくれた高利貸しの愚かさに、ツルが与える同輩のぬくもりに、龍馬が語ってくれた美しい夢の残滓に。
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