氷の果てに

文字数 2,000文字

 女満別空港に降りたときから、雪は止んでいた。それでも北海道の風は予想より冷たく、もうこれ以上凍えることはないと思っていた自身の手足がわずかに震えるのが分かると、彼はマスクの下にある無精ひげに隠れた紫色の口元を少しだけ緩めた。手袋を外し、煙草に火をつける。指が徐々に痺れていく。その感覚は決して人生の最後に味わいたい感覚ではなかったが、それでも寒さの影響で痺れていく感覚を味わえるということは、まだ彼の中に少しだけ生きるためのエネルギーが残っている証拠かもしれなかった。しかし、彼は否定する。そこに至るまでの過程と、また、結果を。
 自殺、という言葉が嫌いだった。自殺という言葉はあまりにもナルシズムだと彼は思っていた。なにも時代のせいだけではないということは分かっている。が、彼はその寄せ詰めて綺麗にまとめたような言葉を嫌悪した。だから中々実行に移せなかった。
 煙草を捨てる。雪の上でジュっと音がして、空には黒い雲が広がっていた。
 蒸発ならどうだろうか。自問自答する。旅人と蒸発の差異について、またその意味合いについて。それでもなにも思いつかないのは、単に自頭が悪いせいだと彼は決めつけ、昔誰かから聞いたキザなセリフを小さくぼやいてみた。
 ――僕たちはこの世界に蒸発しに来ているんだ。だからいつか、帰らないといけないんだ。

 もうすぐ雪が降るかもしれない。彼は網走にいた。公民館を改築したような小さな民宿の畳の上に寝転がって、死について浅く考えていた。死は、なにも特別なことではない。なぜなら全人類いつかは死ぬからだ。そこで辞めた。面倒臭くなって、煙草を吸って、酒を飲んで、ここに来るまでの間に考えていた最後の晩餐代わりのマリファナを悠々と吸って、自慰行為に耽ることにした。
 そのせいか、もしかしたら見られるかもと思っていた母の夢は、結局見られなかった。
 翌日は驚くほど晴れていた。彼は網走から知床行きのバスに乗ってウトロに向かった。乗客はシーズンだけあって窓が曇るほど暑苦しかったが、おかげで誰にも怪しまれずに目的地に着くことができた。夜になるまでその辺の遊歩道や資料館で時間を潰し、最後の大地を満喫しようとブラブラしたが、山は所詮山だし、海は所詮海だった。人間も所詮人間で、人生も所詮人生だ。途切れることなく目に飛び込んでくる鮮やかでまた喧噪の趣など、彼にとっては真夜中に見る砂の夢と同じだった。
 自販機で買ったコーヒーを飲み干して、その中に煙草の吸殻を二十本近くねじ込んだあたりで空はようやく翳り出した。

 父はいなかった。記憶の影に酒を飲んだら暴れるという恐怖だけを残して彼の父はすぐに蒸発したのだった。それからは二人で暮らし、彼の母は寝る間を惜しんで働いていたが、彼が二十三歳のとき、もうすぐ正月を迎えるという冬の始まりに倒れて、そのまま亡くなった。彼は当時、パチンコ屋で常習的に行っていた置き引きが発覚し、拘置所にいた。だから死に目に会えなかったのは自身のせいだが、彼がなによりも悔やんだのは、その置き引きを通報したのは他の誰でもない母自身だったことだ。

 夜が来た。彼は海に近づいていく。流氷の擦り合うような奇妙な音が聞こえてくる。それは巨大な動物が悲哀を込めて鳴いているかのようだった。
 音を立てないように流氷に乗ると、彼は月灯りを頼りにどこまで行けるかは分からなかったが這いつくばるように奥を目指した。途中、亀裂に気づかずに落ちてもよかった。いや、もうどうでもよかった。なにもかもが氷のように冷たかった。手足の感覚がなくなっていく。その経過の感覚が妙にくすぐったくて、彼は久しぶりに声を上げて笑った。後ろを振り返ると陸地が遠く、誰かが住んでいるはずの灯りがいやに寒々しく光っており、彼はそれを最後に振り返るのを辞めた。
 アドレナリンが汗となって体から水分を奪っていく。彼は持ってきた唯一のリュックサックを下ろし、中から酒と睡眠薬を取り出して、なにかを考えてしまう前に飲み込んだ。今、彼にとって一番の敵は寒さでも孤独でもなく、冷静さだった。
 うつらうつらと目がぼやけてくる。煙草を吸おうか、と、そのとき、頬に冷たいものが触れた。雪だった。彼はふとその雪を舐めたい衝動に駆られ、舌を出しながら空を向いた。月はもう出ておらず、そこは真っ暗だった。
 ――ちべた……
 彼の小さな声は、氷の奥には届かなかった。目を閉じる。

 母は、雪が好きだった。彼は別に好きでもなかった。それでも。
 彼は願った。どうかこの流氷が俺を遠くに運んでくれますように。目を開ける。目の前には海と、氷のような一本の道が伸びていた。そうして彼は自分がどうして未だに生きているのかが分からなくなり、それでもここにこうして生きていることに対してどこに意識を持っていけばいいのかと散々悩んだ挙句、ようやく蒸発する覚悟を決めたのだった。
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