田寄内科医院
文字数 2,000文字
家を出て、気の向くままに歩いて、四番目に見つけた病院に入ることに決めた。そのルールにはなんの意味もない。ただ、おれが病院嫌いで、まるで信用していないというだけだ。四という数字は、ただの当てつけ。ついでに石ころを蹴飛ばしながら、くさくさした気持ちをどうにか落ちつかせようとした。
自慢じゃないが、おれは健康診断さえ受けたことがない。だいたい人間は長生きに執着しすぎだ。生きて生きて生きた挙句、チューブだらけの姿で自分の意思じゃなにもできず、見ず知らずの他人に物のように扱われる余生なんて御免だ。
「……田寄内科医院」
四番目に該当するその病院は、小規模ながらなかなか小ぎれいな建物だった。舌打ちしてから自動ドアをくぐった。待合室では、病院を談話室と勘違いしていそうな年寄りが群がっていた。
受付のふくよかな女性は朗らかで、不貞腐れていたおれも少し反省した。ここに来るはめになったのは、同居している姉のせいだ。姉もまた、ここにいる年寄りの仲間入りを目前に控えている年齢で、おれの生活習慣にやたらと口出しするようになってきたのだ。
「鎌田さん、どうぞ」
名前を呼ばれて、診察室へと誘導される。「こんにちは」と眼鏡をかけた冴えない風体の医者が声をかけてくるが、おれは軽く会釈するにとどめた。頼りなさげな椅子にしぶしぶ腰を沈める。
「えーと……昨晩から腹痛がすると」
「はあ。でもたいしたことないです」
「どんな痛みですか。キリキリ? シクシク? ゴロゴロ?」
「賞味期限切れの弁当食べて、下しただけです。大丈夫です」
擬音語で尋ねられ、子ども扱いされているような気がした。冗談じゃない。おれも五十を超えている。医者はすぐ人を見下してかかる。やっぱり姉に尻をたたかれても、断固拒否すればよかったのだ。
「まあ、初診だしいろいろ調べておきましょうか」
「いえ、必要ないです。別に希望してないですし」
「じゃあ、まず採血しましょうか」
「だから、いいって言ってるじゃ」
「鎌田さん」
人の話を聞かない医者にいらいらしていると、急にしわがれた声が割って入ってきて、おれは小さく跳ねた。いつの間にかすぐ横に看護師がスタンバイしている。化粧を厚めに塗って誤魔化しているようだが、かなりの年齢を感じさせるたたずまいだ。つぶらな瞳は、たじろぐおれをロックオンしていた。
「血を、いただきます」
なぜ、一呼吸おいた。吸血鬼のような宣言におれの血の気は引いたが、医者はかまわず「じゃあ彼女についていってください。はい、次の方どうぞ」と完全におれを見離した。
そのまま診察室を出ていけばよかったのだが、あとから入ってきた爺さん婆さんに追いたてられ、結果看護師についていくしかなくなった。奥の小部屋に座らされ、看護師はいそいそと注射器の準備を始める。
観念しておれは腕をまくった。さっさと済ませてしまうに限る。なのに、看護師は妙にのろのろとした動作で世間話まで振ってくる。
「最近はねえ、暖かくなりましたねえ」
「はあ」
「お花見は行かれましたか」
「いえ別に」
「わたしはねえ、あそこのお寺に行ったんですよ。すごい立派な桜があってねえ」
ガーゼで消毒されて、看護師は注射器をかまえた。初診のおれをリラックスさせようとしているらしい。おれは病院嫌いだが、別に怖がりじゃあない。余裕を見せてやろうと「へえ、どこの寺ですか」と応じてやった。
「あれです……あの、横断歩道があるところ」
「横断歩道?」
どこにでもあるだろ。看護師は「あれ、横断歩道じゃなかったかしら、あの橋みたいな」とつぶやいたので、「歩道橋のことですか」と返すと、
「あ、だめだ」
この空間にあってはならない言葉が聞こえた。腕に痛みが走り、見ると血管から数ミリずれたところに針がぶっ刺さっている。
「こっちかしら」
痛い。
「あ、この血管」
痛い。
「よしこれだわ」
痛い。
次々と気ままに針を刺され、おれの腕は穴だらけになる。いくらなんでも手間がかかりすぎだ。ベテラン看護師じゃないのか。
と、顔色を窺うと、鬼のような形相で針の先をにらみつけている。再び血の気が引いた。世間話は自分自身の緊張をほぐすためだったのか!
「あの、ちょっともう痛いんで」
やめてください、と言おうとするたびに「ここだわ!」と高らかに宣言しては見事にはずす。あまりの集中力に、おれの声はまるで届かないようだ。下手に注意をそらすと、そのまま空気を注入されそうで、おれは息を呑んだ。
何度目かのトライで、看護師はなにも言わなくなった。え、まさかとどめを刺されたのか。
「……やった」
たっぷり沈黙を取ったあと、看護師は小さくつぶやきガッツポーズを作った。そのあいだ、注射器は針の力のみでおれの腕に突き刺さっていた。おれは三度血の気が引いた。
「どうだった? ちゃんと通院しなさいよ」
姉の小言に、おれは真剣に答える。
「次は一番目の病院に行くよ」
自慢じゃないが、おれは健康診断さえ受けたことがない。だいたい人間は長生きに執着しすぎだ。生きて生きて生きた挙句、チューブだらけの姿で自分の意思じゃなにもできず、見ず知らずの他人に物のように扱われる余生なんて御免だ。
「……田寄内科医院」
四番目に該当するその病院は、小規模ながらなかなか小ぎれいな建物だった。舌打ちしてから自動ドアをくぐった。待合室では、病院を談話室と勘違いしていそうな年寄りが群がっていた。
受付のふくよかな女性は朗らかで、不貞腐れていたおれも少し反省した。ここに来るはめになったのは、同居している姉のせいだ。姉もまた、ここにいる年寄りの仲間入りを目前に控えている年齢で、おれの生活習慣にやたらと口出しするようになってきたのだ。
「鎌田さん、どうぞ」
名前を呼ばれて、診察室へと誘導される。「こんにちは」と眼鏡をかけた冴えない風体の医者が声をかけてくるが、おれは軽く会釈するにとどめた。頼りなさげな椅子にしぶしぶ腰を沈める。
「えーと……昨晩から腹痛がすると」
「はあ。でもたいしたことないです」
「どんな痛みですか。キリキリ? シクシク? ゴロゴロ?」
「賞味期限切れの弁当食べて、下しただけです。大丈夫です」
擬音語で尋ねられ、子ども扱いされているような気がした。冗談じゃない。おれも五十を超えている。医者はすぐ人を見下してかかる。やっぱり姉に尻をたたかれても、断固拒否すればよかったのだ。
「まあ、初診だしいろいろ調べておきましょうか」
「いえ、必要ないです。別に希望してないですし」
「じゃあ、まず採血しましょうか」
「だから、いいって言ってるじゃ」
「鎌田さん」
人の話を聞かない医者にいらいらしていると、急にしわがれた声が割って入ってきて、おれは小さく跳ねた。いつの間にかすぐ横に看護師がスタンバイしている。化粧を厚めに塗って誤魔化しているようだが、かなりの年齢を感じさせるたたずまいだ。つぶらな瞳は、たじろぐおれをロックオンしていた。
「血を、いただきます」
なぜ、一呼吸おいた。吸血鬼のような宣言におれの血の気は引いたが、医者はかまわず「じゃあ彼女についていってください。はい、次の方どうぞ」と完全におれを見離した。
そのまま診察室を出ていけばよかったのだが、あとから入ってきた爺さん婆さんに追いたてられ、結果看護師についていくしかなくなった。奥の小部屋に座らされ、看護師はいそいそと注射器の準備を始める。
観念しておれは腕をまくった。さっさと済ませてしまうに限る。なのに、看護師は妙にのろのろとした動作で世間話まで振ってくる。
「最近はねえ、暖かくなりましたねえ」
「はあ」
「お花見は行かれましたか」
「いえ別に」
「わたしはねえ、あそこのお寺に行ったんですよ。すごい立派な桜があってねえ」
ガーゼで消毒されて、看護師は注射器をかまえた。初診のおれをリラックスさせようとしているらしい。おれは病院嫌いだが、別に怖がりじゃあない。余裕を見せてやろうと「へえ、どこの寺ですか」と応じてやった。
「あれです……あの、横断歩道があるところ」
「横断歩道?」
どこにでもあるだろ。看護師は「あれ、横断歩道じゃなかったかしら、あの橋みたいな」とつぶやいたので、「歩道橋のことですか」と返すと、
「あ、だめだ」
この空間にあってはならない言葉が聞こえた。腕に痛みが走り、見ると血管から数ミリずれたところに針がぶっ刺さっている。
「こっちかしら」
痛い。
「あ、この血管」
痛い。
「よしこれだわ」
痛い。
次々と気ままに針を刺され、おれの腕は穴だらけになる。いくらなんでも手間がかかりすぎだ。ベテラン看護師じゃないのか。
と、顔色を窺うと、鬼のような形相で針の先をにらみつけている。再び血の気が引いた。世間話は自分自身の緊張をほぐすためだったのか!
「あの、ちょっともう痛いんで」
やめてください、と言おうとするたびに「ここだわ!」と高らかに宣言しては見事にはずす。あまりの集中力に、おれの声はまるで届かないようだ。下手に注意をそらすと、そのまま空気を注入されそうで、おれは息を呑んだ。
何度目かのトライで、看護師はなにも言わなくなった。え、まさかとどめを刺されたのか。
「……やった」
たっぷり沈黙を取ったあと、看護師は小さくつぶやきガッツポーズを作った。そのあいだ、注射器は針の力のみでおれの腕に突き刺さっていた。おれは三度血の気が引いた。
「どうだった? ちゃんと通院しなさいよ」
姉の小言に、おれは真剣に答える。
「次は一番目の病院に行くよ」